生贄の心の拠り所
……それはとても温かいんだ。
……すごくふわふわしていて、体が埋もれちゃうくらい柔らかいんだ。
……いつの間にか、その温かさに、僕は救われていたんだ。
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扉の中は、真っ白なまん丸の部屋だった。
今日は天気が良いから、ずうっと上にあるたくさんある小さな窓から、明るい日差しが差し込んでいて、地下だと言うのに妙に明るい。
つるつるした白い床に、真っ白な壁。それしかない、がらんとした部屋の一番奥に、その化物は居た。
最初は、黒い布か何かが山積みになって、置いてあるのだと思った。
けれども、それは呼吸をするごとに、緩やかに身体を上下に揺らしていて、確かに生きている何かなのだと判る。
そっと、足音を殺して近づいてみると、ひゅう、ひゅう、と寝息をたてて眠っているのは、真っ黒い艶やかな羽を持つ、とてつもなく大きな鳥だった。
多分、鴉……なのだろう。黒く鋭く尖った嘴に見覚えがある。僕が街で見かけた鴉とは段違いの大きさだけれど。
それは、3つもある目をしっかりと閉じて、自分の羽毛に嘴の先っぽをしまいこんですやすやと眠っていた。
恐ろしく巨大で凶暴そうな魔女の姿に、僕は恐怖のあまり、思わず後ずさりをした。
手が、身体が、震えて止まらない。
……これを、僕が起こすの……?
このとてつもなく大きな鴉が、魔女が。目覚めたら僕を食べてしまうのかと思うと、自然と冷たい汗が流れた。
僕は入り口の扉の方を振り返った。
きっとあの扉の向こうには、さっきもいた兵士たちが武器を構えて、僕が逃げ出さないか見張っているに違いない。そして、逃げ出したが最後、きっと恐ろしい目に合うに違いない。
それでも、構わない。なりふり構わず逃げ出したい――そんな気持ちが僕を支配する。けれども、逃げてどうなる、と頭のなかでもう一人の僕が諦め顔で囁いてもいた。
……どうにかして、この城から逃げ出しても、母親のもとに戻ることも出来ない。厄介者が戻ってきても、これ幸いと城に突き出されるに決まってる。かといって、独りで生きていけるかというと難しい。ただでさえ、魔力枯渇で苦しんでいる国内は荒れに荒れている。そこに世間知らずの子供が、ひとりで放り出されたら、どんな末路をたどるかなんて火を見るより明らかだ。
……なら、僕は歌を歌おう。
魔女を揺り起こす歌。それで、魔女を起こして、頭からもしゃもしゃと食べられてやろう。このクソッタレな人生を、さっさと終わらせてやろう!
僕は、決意を込めて魔女を睨みつけると、大きく息を吸って歌いだした。
それから、毎日魔女のもとへと通った。
けれども、何日通っても、一日中歌い続けても、魔女は一向に目覚める様子はなく、最初は緊張していた僕も、段々と慣れてきて、緊張感は薄らいでいった。
ある時、とても寒い日があった。
外はちらちらと雪が舞って、随分と冷え込んでいるのに、僕には特に防寒着も渡されずに、いつもの格好で塔の中に放り込まれたんだ。
暫くは我慢して歌っていたのだけれど、指先はかじかむし、鼻はつんとしてくるしで散々だった。
そんな状況で、目の前にちっとも目覚めない、ふわふわのもふもふがいるんだ。
……ほんの出来心で、魔女で暖を取ろうとしたって、仕方がないと思わないかい?
僕は恐る恐る、魔女にそっと触れた。
すると、ふんわりとした羽毛の手触りがして、あたたかくて……しかも、とてもさわり心地が良いことに気付いたんだ。
……もっと、触れてもいいかな……。
僕は、目を瞑っている魔女の顔をみながら、そっと身体を押し付けた。
万が一にでも、魔女が目を開けたら、逃げられるように注意しながらね。
そうしたら、どうしたことだろう。
魔女の身体は恐ろしくもふもふ、ふわふわ。魔女の体温のお陰で、とっても温かい。
僕は思わず、うっとりとその感触を堪能してしまった。
魔女は一向に目覚める気配もないし、僕の手つきは段々と大胆になっていった。
ふわふわ、ふんわり。気持ちがいい。……魔女って最高じゃないか!
……これで、目覚めなかったら。更に、僕を食べなかったら、もっと最高だけどね。
それ以来、僕は魔女に躊躇なく触れることにした。
どうせ魔女が目覚めたら、ぱくっとやられちゃう運命なんだ。
なら、魔女のことをもふって機嫌を損ねてもいいや。僕はそう思った。
魔女はとても温かくて――触っていると、何故か安心した。
僕はいつしか魔女の温もりを求めるようになっていた。歌い終わり、暗く冷えきった部屋に戻っても、思い出すのは魔女の温もりばかり。
母親に抱きしめられた記憶がない僕からすると、他人の温もりというのは、とても心地いいものだった。
……ずっと魔女が目覚めなければ、あの温もりをこれからも、感じていられるんだろうか……。
そんな、ありえないことを想像しては、魔女の元に行くことを心待ちにするようになった。
**********
「今日も来たよ。魔女さん」
この部屋に訪れるようになってから早数ヶ月。
僕はいつもの習慣となっている声掛けをした。
お城の真ん中に聳え立つ塔の最奥。そこの丸くて何もない部屋で、今日もそれは眠っているはずだ。
僕はいつもの通り、ひとりで部屋の中に入っていった。
「魔女さんは、今日もふわふわだね……触るよ?いいかい?」
魔女のもとにたどり着くと、僕は軽く触れたあとに、そう呼びかけた。
答えが返ってくる筈はないのだけれど、僕はいつもそうすることにしている。
ひゅう、ひゅう、と魔女の寝息が聞こえる。
そのリズムはいつもと変わらない。そのことを確認して、僕は思い切り魔女の身体に抱きついた。
途端、ふわっふわの羽毛が僕を包む。
とても柔らかで、滑らかな手触りの魔女の身体は、とてもさわり心地が良い。
僕は体全体でそれを楽しむ。すり、と頬を擦り付けて、匂いを思い切り嗅いだ。
魔女の眠っている場所は、塔の天辺から丁度光が差し込んでいる場所だ。
だから、天気のいい日は太陽の光がたっぷりと当たって、魔女の身体はおひさまの匂いがする。
僕は、その匂いが大好きなんだ。
「うん、今日もいい感じ。さて、君の身体に抱きつくのは素晴らしく心地いいんだけど、僕には仕事がある」
僕は真面目くさった顔を作って――勿論、誰も見てくれる相手はいないから、そういう風にみえるかな? という妄想のうえでの表情だ――身体を反転させて、魔女に寄りかかった。……ぽふん、と僕の身体は魔女の羽毛に埋もれて、まるで魔女に包まれているみたいだ。
「今日も僕の歌をきいておくれよ、魔女さん。僕のショーへようこそ!」
そういって、僕は歌いだした。
遠い昔、魔女が自分を起こすために遺したという、歌。
魔女を開放するための儀式の一貫であるその歌は、僕の知らない言葉で綴られている。だから、結構覚えるのに苦労したんだ。
歌い始めると、途端に僕は気持ちよくなって、調子に乗って大きな声で歌った。
目覚めの歌が無いと起きれない、お寝坊な魔女に向けて。教えてもらったより、幾分調子が明るい気がするけれど。
ららら、なんて本当は無い歌詞を適当に付け足して。
僕の歌声は、今日も塔の中に響いて、魔女を目覚めさせようと頑張っている。
歌いながら、こっそり魔女に触れて、手触りを楽しむのも忘れない。
そして、一日中歌い続ける。喉が枯れて、痛んできたら、高価な回復薬を使って喉を直して――そんなことの繰り返し。
時折、みっつもある大きな瞳がぴくぴく震えて、もしかしたら起きるのかな? なんてどきどきするけれど、今日も魔女は眠ったままだ。
だからその日も、僕は魔女はきっと起きないだろうな、なんて思いながら、温かい魔女に寄りかかって歌を歌っていて――気がつけば、僕は眠っていたんだ。
――そして、目が覚めた時。
目覚めた僕の視界に飛び込んできたのは、血よりも尚、真っ赤な紅い瞳だった。
**********
……眠い。とても眠い。
私は真っ暗な暗闇の中を当てもなく揺蕩っていた。
ふわり、ふわふわと宙を支えのない状態で浮かんでいるような感覚は、まるで揺り籠の中にいるようで、なんとも眠りを誘う。
更に暖かなものが全身を包んでいて、それがまた気持ちいいのだ。
なんとなく、それは魔女の匂いがするような気がして、私は幸せな気分で微睡んでいた。
……王子様と会えるはずだったのに、どうして、こんなところでうとうとしているんだろう?
そんな疑問も涌いてくるけれども、それ以上に心地いい微睡みが、私の思考能力を奪っていく。
……うう、駄目。もう耐えられない。
私はとうとう、誘惑に負けて、眠りに落ちていった。
どれくらい経ったのだろう。
よくわからないけれど、次に目が覚めた時、目の前に魔女の顔のドアップがあった。
「……っ、わあ!」
「あら。人の顔を見てそんなに驚くなんて。失礼ね」
「もう、魔女。わざとでしょう」
「うふふ。そうね、わざと」
私はぷん、と頬を膨らませた。それをみた魔女は、意地悪そうな笑みを浮かべた。そして、ふたり視線を合わせると、ぷっと吹き出して、けらけらと笑った。
ひとしきり笑い終わると、魔女は私にこう言った。
「さて、愛しい化け物。お勉強の時間よ」
「お勉強?なんの?」
「何って、魔女の勉強」
「どうして、いきなり」
そう言った私に、魔女はいつもの少し怖い笑みではなくて、柔らかな笑みを浮かべ、更には優しげな声でこう言った。
「……お前が、幸せになるためによ」
途端、魔女は細かい黒い粒子となって、その場から掻き消えてしまった。
それを、私は呆然として眺めたあと、魔女を探して暗闇のなかを彷徨った。けれども、魔女の姿はどこにもなくて、途方に暮れてしまった。
……その時、頭の中に魔女の知識が流れ込んできた。
……これが、魔女の勉強なの?
恐ろしいほどの情報量に、私は思わず目を瞑って耐える。
ああ、また、頭に霞がかかってくる感覚がする。
目を瞑っている私の顔に、誰かがそっと触れた。
それは、とても優しげな手つきで、ぎゅうっと時たま、私を強く抱きしめる。
撫でられたことならあるけれど、誰かに抱きしめられたことなんて無かった私は、そのあまりの心地よさに、頭の中に知識が流れ込んでくる嫌な感覚も、耐えられるような気がした。
長い、長い時間をかけて、私は頭に流れ込んできた魔女の知識を噛み砕いていった。
時折、魔女の記憶の断片なのだろうか。優しげな男の人と、魔女が笑いあったり――抱きしめ合ったり、そして、口づけをしたりする姿が見えた。
不思議と、魔女の甘くて、切ない気持ちを、私も同時に体験することが出来た。
好き、大好きよ――愛してる。
王子様に私が感じた感情よりも、もっともっと深いその気持ちは、魔女の中でとても重要な部分を占めていたのだと、実感する。
そして、私もいつか――魔女のように、好きな人と、こんな風に触れ合えたら。
そう思うようになった。
けれども、私は醜い化物。化物には、こんな風に触れ合ってくれる人なんて居るわけがない。
そのことに気がつくと、私の気持ちはどうしようもなく沈んでいって、それを紛らわすために、私はまた深い眠りの底に落ちていった。
そして、次に意識が浮上した時。
どこからか、綺麗な歌声が聞こえた気がした。
澄み切った高い声。男の子の声なのだろうか。綺麗なボーイソプラノは、聞いていてとても心地いい。
たまに遊ぶように適当な節で歌い出すから、思わず笑いそうになることもある。
不思議とその歌声が聞こえてくると、私の中の眠気は薄れていって、その歌が終わると途端に強烈な眠気に襲われる。そんな浮き沈みを毎日繰り返していたときだった。
ある日、何故かいつもより歌声が近くに聞こえた。
それに、誰かが私の身体を撫でている感触がする。
優しく優しく何度も撫でてくるのだけれど、その触り方が、心地いいというよりはどちらかと言うとくすぐったくて。
どうにも耐えられなくて、とうとう、私は――永い間、閉じていた目を開けた。
――久しぶりに目を開けた私の目の前に飛び込んできた光景。
それは、私の大好きな王子様が、何故か私の羽に埋もれてすやすやと眠っている光景だった。