9. 災い転じて
「…ルティーナさま……アルベルティーナさま?」
「あ…」
私を呼ぶ声にぼんやりとしていた意識がはっきりとし出す。
そして私の視界に、心配そうな顔をして私を見つめるドロテアさまが入った。
「どうかなさいまして? ずっとぼんやりとしていらっしゃるようですけれど…」
「なんでもありませんわ。ご心配をお掛けして、申し訳ありません」
私は目を伏せて謝る。
先日の夜会以来、旦那様とまともに顔を合わせていない。
いや、違う。私は旦那様に避けられている。
最近は一緒に取っていた朝食と晩餐も、今では結婚当初と同じように一人きりだ。
あの時はなんとも思わなかったけれど、二人で会話をしながら取る食事と、一人で取る食事では味が全然違う。伯爵家の料理人が腕を振るって作っているものに違いないのに、一人だと味が素っ気なく感じるのだ。
それにぽつんと広い部屋で一人で食べるのは、とても寂しい。
これも自業自得だとわかってはいるのだが。
しばらくじっと私を見ていたドロテアさまは、すべてを見通すような笑みを浮かべた。
「なにかお悩み事があるのではありませんか?」
「……どうしてそう思われますの?」
「女の勘、と言いたいところですけれど…実はとある方からアルベルティーナさまがなにか悩んでいるようだと伺ったのですわ」
「とある方…?」
ドロテアさまの言葉に私は首を傾げた。
確かに最近の私はぼんやりとすることが多いかもしれないが、それは家の中が中心だ。
こういった社交の場ではぼんやりとしないように意識をしている。
とはいえ、先ほどのようにうっかり気を抜くとぼんやりとしてしまうのだけど。
しかしそれも数えるほどしかしていないはずで、たった数回ぼんやりしただけで悩み事があると思われるだろうか。そもそも、その数回を全部目撃している人がいるのかどうかすら疑問だ。
「ふふ。あなたもよく知る方ですわ。あまり知られてはいないのですけれど、実はわたくし、アリーセとは大の仲良しなのです」
「……え? ド、ドロテアさまと、アリーセお義姉さまが仲良し…?」
「えぇ。親友と言っても過言ではありませんわ」
歳も同じですしね、とドロテアさまは悪戯っ子のような笑みを浮かべた。
ま、まさかの組み合わせだ。
確かに両方とも美人だが、片方は嫁ぎ遅れ、片方は未亡人。なんと両極端な二人だろう。
「わたくしとアリーセはよく手紙を書くのですけれど、その手紙に、『なんだか最近、弟と弟の嫁の様子がおかしい。特に嫁はなにか悩んでいるようだ。どこかで嫁に会うことがあったら相談に乗ってあげてほしい』と書かれておりましたの」
「お義姉さまが、そのようなことを…?」
意外だ。お義姉さまは私のことが嫌いなのだと思っていたのに。
なんだかんだと言って、お義姉さまも私のことを気遣ってくれているのだろうか。
「意外でしょう? あれでもアリーセは、あなたのことを義妹として大切に想っておりますのよ。ただ、それ以上に弟が好き過ぎるだけで」
「…ああ…なるほど。納得しましたわ」
一番最後の台詞ですべて納得した。
お義姉さまは旦那様が大好きですものね。
「アルベルティーナさまは何を悩んでおりますの? わたくしでよろしければ、相談に乗りますわ」
「ドロテアさま…」
優しいドロテアさまの言葉に、私はドロテアさまに旦那様のことを打ち明けることにした。
ドロテアさまはお義姉さまの親友なのだし、この話を言いふらすようなことはなさらないだろう。
それに、誰かに聞いてほしいとも思っていたところだったので、まさにドロテアさまの言葉は私にとって渡りに船だった。
私の話を聞き終えたドロテアさまは「なるほど」と小さく呟き、そして私を微笑ましそうに見つめた。
「アルベルティーナさまは、ヴィンフリート様に恋をなさっているのですね」
「………え」
ここここ恋ですか!?
どうしてそうなる…? 私はただ、旦那様と仲直りをしたいだけなのに。それがどうして恋に繋がるのだろう?
ぱくぱくと口を開閉させる私にドロテアさまは微笑んだ。
「ヴィンフリート様が一緒にいないのが、会えないのが、寂しいのでしょう? ふふ、わかりますわ。わたくしも昔、アルベルティーナさまと同じような状況になってことがありました」
「ドロテアさまも…? あの、ドロテアさまはどうやって旦那様と仲直りを…?」
「わたくしの場合は、旦那様が折れてくれましたの。だからすぐに仲直りをできましたわ」
「旦那様が…」
私たちには当てはまりそうもない仲直りの経緯だ。
旦那様のあの態度を見る限り、旦那様から折れるということはないような気がする。
ならば、私から折れるしかないのだろうか?でも、どうやって? 私は旦那様に避けられているのに。
「ねぇ、アルベルティーナさま。わたくしは思うのですけれど、そんなに仲直りしようと焦らなくても良いのではなくて?」
「え? で、ですが…」
「時間が解決してくれることもありますわ。思いがけない形で仲直りができたりするかもしれませんし、もう少し様子を見てみたらいかがでしょう」
「様子を見る…」
確かに、時間を置くのもいいのかもしれない。
ドロテアさまの言うように、時間が解決してくれるということは恐らくないとは思うが、時間を置いて、頭を冷やした方がいいのかもしれない。そうすれば、旦那様も私の話を聞いてくれるのではないだろうか。
「…わかりましたわ。しばらく様子を見てみます」
「えぇ、そうなさるといいと思いますわ。…わたくしも頑張りますから」
「はい?」
頑張る? ドロテアさまは何を頑張るというのだろう?
聞き返してもドロテアさまはふふ、と笑みを浮かべるばかりで答えてくれなかった。
お義姉さまとレオさまの婚約が正式に決まった。
そのお披露目を今度するのだと、執事のフランツから聞いた。
旦那様は未だに私を避けていて、家にいる皆から心配されているが、私は「大丈夫」だと言い張った。大丈夫ではないなんて言えるわけがない。
そんな中で、お義姉さまだけは相変わらずで、会えば嫌味を言ってくる。そんなお義姉さまの変わらない態度が嬉しくて、思わず笑顔になってしまった。それを見たお義姉さまの「……あなた、頭がおかしくなってしまったのではなくて?」と不気味そうに言った顔が忘れられない。
あんなに腹が立ってしょうがなかったお義姉さまの嫌味が嬉しく感じるなんて、私は本当にどうかしてしまったのかもしれない。
決して、新たな性癖に目覚めたというわけではない、と信じたい。
お義姉さまの婚約お披露目のパーティーは、レオさまのご実家であるハラヴァティー侯爵邸にて行われることになった。
義妹である私も、参加しなければならない。──旦那様と共に。
とても気まずいけれど、それは私の自業自得なので仕方ない。
支度をし終えると、旦那様が待っていた。久しぶりに見る旦那様の姿に、私の胸がきゅっと締めつけられた。
私の方を全然見ない旦那様。それがとても寂しくて、だけどそれ以上に旦那様の姿を見ることができて嬉しい、と感じた。
気まずい雰囲気のまま、旦那様にエスコートされてハラヴァティー侯爵邸を訪れると、旦那様はすぐ人に呼び止められてしまい、私とは別行動になった。
その時に私を気にしたように見つめた旦那様の優しさが嬉しかった。だけど、すぐに旦那様は私から視線を逸らしてしまう。そんな旦那様の行動に一喜一憂してしまう私がとても滑稽に感じる。
ため息をついて会場内を歩いていると、視界に幸せそうなお義姉さまとレオさまの姿が入った。幸せそうなお二人の姿に、良かった、という想いと、羨ましいな、という想いが同時に生まれた。
私はお二人から視線を逸らし、再び歩き出す。
すると「そこの美しい方」と声が聞こえた。
私の事を指しているわけでないと思っていた私はその声を無視して歩くと、腕を掴まれた。突然のことに私は目を丸くして、腕を掴んで来た相手を見つめた。
その相手はそれなり整った顔立ちをしている青年だった。落ち着いた茶色い髪の、自分の容姿にとても自信を持っていそうな感じの人だ。
しかし私は旦那様という、人形のように整った容貌の持ち主と一緒に暮らしているのだ。彼くらいの顔立ちは、私の中では決して“かっこいい”部類ではなく、“普通”な部類に所属する。
私の美青年のレベルは、伯爵家に嫁いだことでかなり高基準になってしまった。
「無視するなんて酷いな」
「…申し訳ありません。私のことだとは思わなくて…」
「謙虚な人だ。そういうところも素敵だと思うな」
「はあ…」
なんなんだろう、この人は。
初対面な人であることは間違いない。なのに、馴れ馴れしすぎではないだろうか?
「あちらの方でボクと少し話をしないか?」
「ごめんなさい。私には…」
「少しくらいいいじゃないか。さあ、行こう」
そう言って私の腕を強引に引っ張る彼に、私はむっとした。人の話を聞け!
「申し訳ありませんが、私はあなたと一緒にいけません」
私は彼の腕を振り払い、きっぱりと告げた。
見ず知らずの男性と仲良くしているところを見られるのはよくない。旦那様だって良い気持ちはされないはずだ。
「どうしてだい?」
彼は少し苛立った様子で質問をしてきた。
よほど自分の容姿に自信があったのだろう。自分ならば、私くらい余裕でおとせると、そう思っていたに違いない。
ですが残念! 私にとってあなたは、フツメンですから!!
「私には愛する旦那様がおりますの。旦那様に勘違いをされたくありません」
ですので、ごめんあそばせ。
そう言って立ち去ろうとした私の腕を、再度彼が掴んだ。
キッと彼を睨むと、彼は蔑むような目をして私を見ていた。
「ボクの誘いを断るのか? キミ程度の顔のレベルで? どうせ夫がいるというのも嘘なんだろう。キミのような女に夫がいるわけが…」
彼は途中で言葉を止めた。そして急に顔を青ざめて震え出した。
さっきまでの勢いはどこにいったのだろう、と疑問に思っていると、吹雪よりも凍えそうな声が響いた。
「俺の妻に何をしている?」
「フ、フフフフレンツェル伯爵…!?」
ガタガタと震えて旦那様の名を叫んだ彼。
私がハッとして振り向くと、そこには不機嫌そうな表情をした旦那様が、凍てつく目で彼を睨んでいた。
「俺の妻に何をしている、と聞いているのだが?」
「ひっ…! い、いえっ。これはその…! あ、あなたはフレンツェル伯爵の奥方様でしたか…! そうとは知らず、申し訳ありませんでした…!」
「で、では急用を思い出したのでボクはこれで…!」と言って彼は逃げるように去っていった。
どうして彼はそんなに震えているのだろう。旦那様が原因だろうか? だとしたら旦那様はいったい彼に何をしたのだろうか…。
「…あいつ、後でシめる…」
「あの、旦那様…?」
なんか、怖ろしい台詞を聞いたような気がしたのですけど?
「あいつに、何かされなかったか?」
「は、はい…特には…」
「そうか。なら、良かった」
少しだけ瞳を和らげる旦那様。久しぶりに旦那様と目を合わせた気がする。
これはもしかして、謝るチャンスだろうか?
「あの、旦那様…」
「アルベルティーナ…」
「申し訳ありませんでした!」
「すまなかった!」
同時に名前を呼び、同時に謝る私たち。思わず私たちは互いの顔を凝視した。