06 碧落
帰路の馬車の中で、私はイリナに今回の命令のことを打ち明けた。イリナは始終静かに聞いていたが、魔女殿と出会ったと告げた時だけは、大きく目を見開いた。それも無理はない。この国の昔話。しかも、小さな子どもに話して聞かせるような昔話に、登場する人物と実際に会ったと言っても、到底信じられる話ではない。それでも、私はイリナにすべてを話した。魔女殿との生活、魔女殿を殺してしまうところだったこと。そして、王に、魔女殿の住む森を焼けと言われたこと。
すべてを聞き終えたイリナは、やはり困惑した表情をしていた。
「本当に、この世に存在していたのですね……」
「信じられないのも無理はない。私も、未だにすべてが夢だったのではないかと思う時がある」
「ベルタ様に語って頂いた英雄のお話は、今も私の中で色鮮やかに息づいています。祖国を守るために命を落とした英雄と、彼の帰りを一心に待ち続けた魔女。幼心に、彼女がその後どう生きたのか、気になってはいたのですが、大人になった今になってから、その続きが分かるなんて、とても不思議な気持ちです」
イリナはそう言いながら、目を伏せた。
「……ベルタ様が生きていらっしゃったら、きっとお喜びになったはずですね」
「どうだろう。彼女の瞳に写っていたのは、結局のところ地位だけだった。あとに残ったのは、愚息だけだ」
「そのような言葉、死者への冒涜です」
イリナは静かに、私に告げた。その瞳には、隠しようのない怒りが浮かんでいた。
そう、イリナは、彼女のことが大好きだったから。本当の彼女を知らないから、そんなことが言えるのだ。いつまでも、幼い頃の甘い幻想に浸っていられるから。
「……すまない」
謝る言葉に、その意はこもっていない。それを知りながらも、諦めたようにイリナがぼそぼそと謝罪を受け入れる。
「なぁ、イリナ。私がもし、彼女のようにすべてを投げうってまで手に入れたいものがあったとしたら、それを、許す?」
「い、いきなりなにを、おっしゃるのですか」
引きつったイリナの顔。
「たまに思うんだよ。しがらみなど何もない世界に行けたら……って。すべてを捨てて、自分のどうしても手に入れたいもののために生きるって、どんな気持ちだろう……って」
ごとん、と馬車が揺れた。
「……彼女のことを憎む気持ちは変わらないというのに、彼女と同じ道を辿ることを願っている自分がいる。どうしたら良いだろう」
自嘲するように笑った私は、窓の外の景色を見た。
青空が広がっている。高い、高い空。
昨晩悩んで悩んで、そして出た答えがこれだった。
自分でも、馬鹿げた妄想だということは分かっている。人生はそう上手くいくものではないことくらい分かっている。それでも、私は彼女に、彼女の優しさにもう一度ふれたかった。許されない想い。そうなのかもしれない。
母が語ってくれた昔話。幼い頃にこうなりたいと願った英雄。
母に受け継がれた英雄の血を、母は平和という大義名分のために使った。私には、母の崇高な正義など分からない。それでも、すべてを知った私にはやはり、ただ地位を望むだけの女にしか見えなかった。自分の身体を使ってまで、欲しかったモノ。実の子どもを売ろうとしてまで、欲しかったモノ。それは、正義なのだろうか。
それでも、今ならそんな母の気持ちが分かるような気がした。すべてを捨ててまでも欲しいモノ。
私を見る彼女の瞳が、私を通して誰かを懐かしむように細められるのも、彼女が寝言で、英雄の名を呼ぶことも、仕方のないこと。頭のどこかで、そう分かっていたのに、自分を見て欲しいと、痛む胸の中で叫ぶ自分がいるのも事実だった。
幼い頃に死んだ母。大切なモノを手に入れるために、死んでいった母。
祖国を守るために死んだ英雄。もしかしたら彼は、彼女と暮らす幸せを手に入れるために戦い、そして死んでいったのかもしれない。
その血を引く私だって、大切なモノを手に入れるために死んでも良いだろう。
イリナは、静かにうつむいていた。イリナには、この感情は分からないだろう。きっと、この狂おしいまでに何かを欲する気持ちは、イリナには分からない。それでも良い。イリナには分かって欲しくない。この気持ちを知ってしまった先にあるのはきっと。
――奈落の底。