04 夕影
――かあさま。ぼく、えいゆうになりたい。だってね、えいゆうってすごいんだよ。まじょのなかまもいるんだ。まじょとえいゆうは、こいびとなんだよ。ふたりはりょうおもいなの。それでね、けんでわるいやつをこらしめるの。せいぎのみかたなんだよ。
ガタガタと揺れる馬車の中で過ぎてゆく景色を眺めながら、そうやって、幼い頃母に宣言していたことをぼんやりと思い出した。そう言った私の頭を撫でて、母はどこを見ていたのだろう。
夜毎母が語ってくれた、英雄の昔話。悪を憎み、正義を貫き、愛する人を守るために戦う英雄の姿に、幼い私は憧れていた。
『イシアも、大きくなったら英雄みたいな人になるんだよ』
母の話は、いつもその言葉で締めくくられた。何も考えずに、ただ頷いた。そんな自分を見て、母も満ち足りたような笑顔を向けてくれるのが、幼心にも、嬉しかった。
私のもつ母の記憶は、その頃から薄れてくる。きっとあの頃から、母は少しづつ壊れていたのだろう。無邪気で何も知らなかった幼い私は、次第に離れてゆく母に、英雄の話をねだった。母の困ったような顔が、ふっと頭の中に浮かぶ。そして、一人涙をこぼす母の顔も。
幼い私は、母の愛が欲しかった。母の苦しみを知らず、ただ母の愛を願った。今思えば、そんな自分の存在も、結果的に母を壊す要因となっていたのだろう。
いまとなっては分かる大人の事情。それにこれっぽっちも気づかず、ただただ『えいゆう』に憧れていた。『えいゆう』なんてものが幻想だなんて、これっぽっちも疑わずに。
城が見えた。茜色に沈んでゆく夕日が、馬車の窓から綺麗に見えた。遠い地平線の方に見える町々では、たくさんの家族が身を寄せ合って暮らしているのだろう。今日の晩飯にありつけた家族は、果たしてどれほどいるのだろろうか。内乱が始まってからの五年という長い年月は、人々にどれだけの負担を強い、そしてどれだけ暮らしを変えてしまったのだろう。私たち上に立つものが作り出した劣悪な世界が目の前には限りなく広がっている。今は、今だけは、そんな現実を見るのが嫌で、私はそっとうつむいた。
「イシアさま?」
私の視線に気づいたのか、目の前に座っている女性――イリナが訝しげに私の顔を覗き込む。
「いや、なんでもない」
「そうですか。それならよろしいのですが。長いご公務でお疲れになっているのですから、無理はなさらないで下さいね」
「あぁ。ありがとう」
イリナは王から私に付けられた補佐官だ。女性であるのにもかかわらず、こうして高い地位についている彼女は、実は私の身辺のこともすべてやってくれるメイドのような存在でもある。高く頭の上にきっちりと結いあげられた茶髪に、猫のような切れ長の青い瞳。ぴんと伸ばされた背中。
私よりも五つ年上の彼女は、幼なじみであり、憧れの姉のような存在であり、厳しい母親のような存在だった。
そんな彼女の顔には少なからず疲労のあとが残っていて、彼女をはじめとする使用人たちには苦労をかけてしまったと、申し訳なく思った。はじめは魔女殿に会ったあと、どちらにせよこの世から消えるつもりだった。そのつもりで、遺書代わりの手紙を残してきた。魔女に会いに行くことは、国家機密だったため、それを隠して。
だから、使用人たちは私は自殺してしまったと考えていたらしい。山から自分の家へ戻ってきた私の姿を見て、使用人たちは泣いたり喚いたりと大変だった。
「イリナも、大丈夫か?」
「ご心配には及びませんよ」
そう言って、イリナは微笑む。
「イシア様の今回のご公務のことは、いつになったら公表出来るのでしょうか? 私もご公務のことを把握しておりませんと、またイシア様の負担が増えてしまいます」
「……いつになるだろうな。最近の王は、どうしてる?」
「陛下……ですか? リベリア地方の反乱軍の鎮静に手を焼いているご様子です。リベリア地方の領主が、思った以上に曲者でして」
「そうか。戦況は相変わらずといったところか」
「そうですね。五年も内乱が続いているのです。国民の疲労も最大限にたまっています。これまでになかった大規模な反乱がいつ起きてもおかしくはありません」
イリナが物憂げに言う。
「……そして国にはそれを鎮圧出来るだけの軍もない。そうなったら、この国は終わりだな」
私が言うと、イリナは顔をしかめた。
「そんな不吉なこと、言わないで下さいませ。どこで誰が聞いているか分かりません。それに、そんなことを起こさないために、イシア様が動いているのでしょう?」
「……それも、そうだな」
この国を救った英雄レイがこの状況を見たら、果たしてどう思うだろう。
国王の圧政。貴族たちの怠慢。蔓延る悪吏、不正、野盗。そして極めつけのような天候不順。
彼が命をかけて守ったこの国は、いま滅びようとしている。それでも良いのかもしれない、と思う。
この国に、英雄などいない。
これ以上待っていても、何も変わらない。むしろ悪くなるだけだ。これほどまでに地の底に堕ちようとしているのに、なぜ最後の最後までもがこうというのか。なぜ私は、最後まで足掻かなければならないのか。この地位がなんだというのだろう。私にとってのこの地位は、ただの足枷だ。王の命令には逆らえない、ただの操り人形。影で自分が何と言われているのか、それ位分かっている。それを分かっていても、逆らえない自分。そんな自分が嫌で、このしがらみから抜け出したくて堪らなくて。
そんな時に、彼女に出会った。彼女のあたたかさに溺れた。久方ぶりの人のぬくもりに、私は安堵を通り越して危機感を覚えた。このぬくもりをいつか壊してしまう日々が来るのではないか、と。そしてそれは危惧した通りになった。彼女を傷つけた。それなのに、私は愚かにも、約束で彼女を縛った。返事を紡ごうとする彼女の唇を、無理やり奪って、そして何も言わずに彼女の前から去った。彼女に拒絶されるのが、どうしようもなく怖かった。ただの強がりでも、これ以上みっともないところを見せるわけにはいかなかった。私にはやらなければならないことがある。
彼女の愛した国を、彼女が英雄とともに守ったこの国を。王が、貴族が、これ以上穢すならば、いっそ滅びてしまえばいい。私が、この国を壊して、そして作り変える。彼女が愛した英雄にはなれないけれど、それでも、私はきっとやり遂げてみせる。
――彼女も、きっとそれを望むはずだから。