03 落葉
自然と目が覚めたのは、朝早くのことだった。窓から見える空は暗く、しかし、その端っこは淡い紺色に色づいてきていた。もしかしたら、今日は雪が降るかもしれない。澄み切った空気と、長年の勘がそう伝えていた。つきん、と胸が痛んだ。
暖かい寝具の中に包まっていたい気持ちもあるが、私が起きなければきっとイシアは、ずっと寝たままだろう。思い切ってベットから起き上がる。寝具から出ると、底冷えするような寒さが伝わった。
まだ薄暗い部屋の中を音を立てないように歩いてゆき、テーブルに飾ってあるキャンドルに火を灯す。柔らかい橙色の炎が、あたりを照らした。
イシアはソファでぐっすりと眠っていた。私のベットを使っても良いと言ったのに、彼は頑として承知しようとしなかったのだ。
いつもとは違う、どこかあどけない寝顔をみると、どこか不思議な気持ちになった。まるで私がイシアの姉になったような、そんな錯覚をしてしまう。
彼が起きる前に朝ごはんを作って、部屋も暖かくしておこう。
いつものことだというのに、彼のためだと思うと自然と顔がほころんだ。誰かのためにやることが、こんなに楽しいことだったなんて。
暖炉に薪をくべ、その上に鍋をかけてスープを作る。寒い朝にはこれが一番温まる。体の芯から温まるには、温かい食べ物を食べるのが一番だ。スープが出来るころには、部屋もすっかりあたたまっていた。
そろそろイシアも起き出す頃だ。この間作っておいたパンを出して、食器も並べる。
窓の外で、先ほどまでは淡い水色しかなかった空が、キャンドルの炎のような、柔らかい橙色に染められてゆく。あまりにも綺麗な光景に、私は一瞬声を失い、それに見入っていた。
その時だった。
――ガシャン。
何かが割れる音がした。なんだろう、と後ろを振り向くと、イシアが起き上がるところが見えた。間違って触れてしまったのだと思い、気も止めずに言う。
「おはよう、イシア」
声をかけてから、どこかがいつものイシアとは違うと気づいた。体が、固まった。
「……」
私の目を見るイシアの瞳は、私を通り越して、どこか遠くをみつめていた。いつもと同じ、紺色の瞳に、キャンドルの炎がゆらゆらとうつっていた。
「……イシア?」
私の問いに、彼は何も答えない。
ただ遠くをみて――。
――ガシャン、とまた音がした。
イシアが、食器を投げていた。スープがこぼれ落ちて、湯気が揺らいでいた。頭がそれをすっかり理解するその前に、テーブルに置いてあったものがすべて、ひっくり返った。
キン、とスプーンが落ちた音がした。
イシアを止めなくちゃ。悪い夢を見ているはずだから。
そう思うのに、体はまったく動かなかった。頭のどこか違うところで、そんなんじゃないと、大声で訴えているというのに、私はつとめてそのことを考えないようにしていた。
そうしているうちに、彼はゆっくりと、立てかけてあった剣を握り、刃を抜いた。冷たい笑みを浮かべて、私を見つめていた。
動かない体と、動かない頭で。
そうだったのか、と思った。
そう。彼は私を殺しに来たのだ。国の命令を聞かない魔女を殺しに来たのだ。私に心を許したふりをして、いつもその機会を狙っていたに違いない。
何百年も前に、あの人が私の同胞たちを殺したように。遠い昔に、あの人が殺しそびれた私を殺しに来たのだ。
それで良い。
いつか、私の前から彼がいなくなってしまうのなら。それなら彼が私を壊してしまえば良いんだ。
だから、だからこれは、私が望んだミライ。
目を閉じて、次にくる斬撃を待った。
死にたくない、なんて思えなかった。私はもう長い時を生きすぎてしまったから。
「……ッ!」
「いいの。これで良いの」
何をためらっているのだろう、と思った。はじめからそのつもりだったのなら、躊躇など、しなくて良いというのに。彼になら、殺されても良いというのに。彼がそのつもりで私に近づいたのだとしても、私は、幸せだったから。
ふと、目を開けると、こぼれ落ちそうな涙を湛えた瞳と目が合った。
キン、と音がして、剣がこぼれ落ちた。
時間が止まったかのような錯覚を覚えた。
私もイシアも、ピクリとも動かない。ただお互いを見つめ合う。
ぱちり、と薪の爆ぜる音がした。
「魔女殿……」
それが合図だったかのように、イシアは私を呼ぶ。『魔女殿』。イシアはそうとしか私を呼んでくれない。結局彼は、魔女としての私しか、私を見てくれていなかったのだ。
再び、薪の爆ぜる音が鳴る。
「……殺しても、良かったのに」
気づくと、そうつぶやいていた。目を見開いたイシアの顔を見て、私は何を言っているのだろうと、鈍い思考で考えた。
「私を殺しに来たのでしょう? 初めから、そのつもりだったのでしょう?」
自分でも驚くほど、冷静に言葉が飛び出た。頭はこんなにも混乱しているのに、どうしてこんなに冷たい言葉が出るのだろう。
「……」
イシアは答えない。ただ悲痛な面持ちで、私を見る。
イシアの瞳には、窓の外の日の出がうつっていた。
純粋に、綺麗だと思った。いつのまにか、初めて彼と会った時に彼の瞳に映っていた絶望が、徐々に薄れていくことを、私は密やかな楽しみにしていた。そう、心待ちにしていた。それなのに、私はいつからか恐れていた。彼の闇がすべて消えたとき、彼はきっと私の元から消えていってしまう。ほんの少しの間。長い時を生きる私にとっては、取るに足らないほどちっぽけな時間。そのはずだったのに、気づけばその日々がこぼれ落ちてゆくことに焦りを感じていた。心の中で、彼がこのままでいることを望んでいる自分がいた。
そして、雪が降るのを、何よりも心待ちにしている自分がいることにも、愕然とした。
雪が降ってしまえば、彼はこの森から出られなくなるから。そうすれば、この冬中は彼と一緒にいれるから。
狂ってる。私は狂ってる。
だから、これで良かった。これで、私は彼を解放してあげられる。
「私を殺すのが目的だったとしても、私は楽しかった。本当に、久しぶりに……」
「違います!」
突然、イシアが大きな声を上げた。瞳が揺れる。
「最初は、そのつもりでした。こちらに協力しないなら、殺せと。そう言われていました。でも、私は嫌でした。これ以上この手を穢したくなかった。だから、自己満足のために、一人で死ぬつもりだった。それで私は満足だった。それでこそ、私は……、苦しみから救われるのだと。そう思っていました。絶望の淵にあった私を、魔女殿が救ってくれた。……さっきは、悪い夢を見ていたのです。昔の夢を。魔女殿を傷つけるつもりではありませんでした。信じて下さい」
イシアの瞳は濡れていた。外からは朝日が照らしているというのに、私の頬も濡れていた。
「……大切な人を、殺したいなんて思うはずがありません」
彼の瞳が、まっすぐに私を見つめる。
彼も私と同じなのだ、と思った。真っ暗の闇に現れたあの人のように、私にとってあの人がかけがえのない存在だったように。私の存在が、彼の心に何かを残したのだったら、嬉しい。あの人が消えてしまったあとも、私が生きることを諦めなかったように、彼は、これからもきっと生きてゆける。
それでも、彼の未来に私が入ることは出来ない。私と彼の生きる道は違いすぎから。
――だから。
「ねぇ、イシア。私を殺してよ」
「……もうそれ以上言わないで下さい」
歯を食いしばるようにして、彼は言う。
「そんなに死が好きですか? 貴女は言ったじゃないですか。死の淵にいた私を救ってくれたじゃないですか。それと同じ口で、殺してなんて言葉を軽々しく口にしないで下さい」
「だって貴方は、いなくなってしまうじゃない」
我ながら、駄々っ子のようだと思った。それでも、口にせずにはいられなかった。大切なものを失った時の悲しみを知っているから。もう一度、あの悲しみに耐えられるとは、到底思えなかった。
「……すべて片付けたら、戻ってきます。来年の春には、必ず」
そんな約束してはいけない。いまここで彼を解放しなければ、彼は私の作る檻から抜け出せなくなる。
答えは決まってる。そんな約束など出来ない。してはいけない。
それなのに、私の心は傾いている。
何も言えなくなった私は、ただ俯いた。
窓の外から見える森の外れは、まだ紅葉した葉っぱが落ちずに残っていた。木枯らしが吹くのに合わせて、ゆらゆらと揺れている。
「待っていて下さい」
残っていた葉が、風に吹かれて散った。