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雪月花の時  作者: 橘 花香
魔女
2/16

01 枯葉

 木の葉がさらさらと揺れた。まるで血のように真っ赤な葉が風に吹かれ、地で待つ仲間のもとへ舞い降りる。私の足元には、そうして作られた赤い織物が出来上がっていた。


 あまりに綺麗に出来上がっているそれが、なぜかどうしようもなく憎らしくて、私はわざと蹴散らすように落ち葉を蹴る。再び吹いた弱い風が、私の黒髪を撫でた。


 それと共に香るのは、散りゆく枯葉の香ばしい香りと、そして香るはずのないーー血の香り。秋の中にひっそりと紛れ込んでいるそれは、紛れもなく、怨恨や怨みの充満した、穢れた血の香りであった。


 何百年も前に嗅いだっきりの懐かしい香り。顔をしかめたくなるほどに不愉快な香りだというのに、なぜか涙が出そうなくらいに嬉しかった。まだ自身の体は、その香りのことを覚えていたのだと、嬉しくなったから。


 それにしても、誰がこんな山奥に来たのだろう。ここは、この国の人々から死の森と言われるほどに恐れられている場所で、住民はおろか、他国の人々でさえ訪れなくなってから久しい。この森の噂は、今や世界中に広まっているのだろう。少なくとも、私の記憶にある限りでは、何かの香りがするほど近くまで人が入ってきたのは、百年以上昔のことだ。ちなみに、どういう経緯で入ってきたのかは覚えていない。どうでもいいと、私は思う。世を捨てた身だ。そんなことを記憶して何になるというのだろう。


 そろそろ日が落ちてきた。今しがた摘んだばかりの薬草を籠にいれ、そして小さく伸びをする。その時だった。


「――貴女が、魔女」


 視線を上げたその先にいたのは、遠い昔に忘れたはずのあの人の顔だった。夕日が照らす、紺碧の髪。癖のない少し長めの前髪が静かに風に揺れる。日に焼けた端正な顔立ち。髪と同じ色の深い青の瞳。


 夢だと思った。私は夢を見ているのだと思った。あの人が生きているはずはないのだ。


あの人は、遠い昔に死んだ。


 何も答えない私を見て、彼は少し怪訝そうに顔を曇らせ、そして私に近づこうと一歩踏み出した。


「来ないでーー」


 それと同時に響いたのは、私の声だった。無意識に漏れていた言葉。体が震える。視界がぼやける。彼はあの人ではない。あの人は、死んだ。


 分からない。

どうしてこれほどまでに体が震えるのか。


 ただ、先ほどまでは感じなかった強すぎる血の香りに倒れそうになる。これまでどれほどの人を殺してきたのだろう。そう思わせるほどの、強い血の香り。怨嗟と怨みの香り。まだ若いであろう彼には似つかわしくない、ただただ重い怨恨。


 突然大きな声を上げた私をみて、彼は歩みを止めた。


「私は貴女に危害を加えるつもりはありません」


「……ごめん、なさい。そうじゃないの」


 表情を険しくする彼に思わずそう声をかけた。倒れそうなくらい濃い香りにいまだに慣れることが出来ずに、私は崩れ落ちそうになる体を必死になって抑える。


その時、私はこの香りが彼の腰に下がっている剣から放たれていることに気づいた。


「貴方の剣を、遠くにやってくれないかしら?」


ゆっくりと、彼に尋ねる。


 少しは抵抗すると思っていた私の予想に反し、彼は何も言わずに剣を遠くの木立の元へと置いてきた。彼が帰ってきたとき、彼の香りは先ほどまでとは全く違う香りになっていた。悲しみにも似た、それでいて違う香り。ただ彼の年齢とは似つかわしくない暗い何かが、瞳の奥にはあった。


 その瞳が、違う。彼はあの人によく似ている。あの人にたしかにそっくりなのに、その瞳だけが明らかに違うのだ。あの人は、そんな悲しい瞳をしていなかった。あの人の周りではいつも笑顔が溢れていて、あの人の瞳はいつもあたたかさで溢れていた。なのに、彼の瞳はあの人とは正反対。


「……?」


じっと彼を見つめていた私に、彼は不思議そうな顔をする。


「貴女が、魔女殿……ですか?」


「ええ。貴方方の恐れる、魔女よ」


 そう自嘲気味に言うと、彼はほっとしたように息を吐いた。


「……やっと見つけることが出来ました」


 彼はいきなり腰をかがめ、そして私の前にひざまずく。それはあたかも騎士が主君にするような恭しいそれで、私が動けないでいるのを知ってか知らずか、彼は私の手をとって囁いた。


「どうか、私どもの国を救って下さい」


 そう言って顔を上げた彼の瞳は、あの人とは全く違う趣を宿していた。見た目は彼にそっくりだというのに、その正反対の瞳がやけに目につく。冷え切った彼の瞳。氷のように、分厚く、つめたくて、何も見えない。


「……私は、もうどの国にも関わらないと決めたの。残念だけど、お引き取り下さるかしら?」


「出来ません」


彼は掠れた声で言った。


「お願いします」


何も言わない私に、畳み掛けるように彼は言う。


「……ごめんなさい、出来ないわ。軽い気持ちでここに来たのなら、今すぐ帰りなさい。私はどこにも協力するつもりはないの」


 彼は私の手を離して立ち上がる。彼の方が背が高いので自然と彼を見上げる形になる。夕焼けを浴びる彼の顔には、やはり年齢には合わない影が差していた。


「どうしても、でしょうか?」


静かに彼は問う。ざわり、と木々が揺れる。


「ええ」


「……ならば、私を殺して下さい」


「……なっ」


声にならない声が漏れる。


「貴女が私を殺さなくても、私は自分で死にますよ? 役立たずの私は城に帰っても死ぬだけですから」


 そう言って彼は懐から短刀を取り出した。そして何も映さないその冷え切った瞳で、その短刀を首に当てる。素早く、そして無駄がないその動きに、私は動くことができなかった。彼は何でもない様子で短刀を構えている。震えも、そして恐怖の色もない。彼は本気のようだった。


「や、やめてっ」


悲鳴のような声をあげると、彼はやはり何でもない様子で、短刀を放す。


「どうしました? 気が変わりましたか」


「分かったわ、協力するから。だからお願い、その短刀を下ろして」


彼は何も感じ取れない瞳で私をじっと見つめた。


「良いのですか?」


「良いもなにも、貴方がそうさせたのでしょう!?」


「嫌ならば断ってくれても良かったのです」


「そしたら貴方が死んじゃうでしょ!?」


「……不思議な人です」


彼はポツリと漏らした。


「貴方は魔女で、魔女は人間の命など気にしないかと思っていました」


「……ごめんなさいね。期待外れで。あいにく私は人が死ぬのは嫌いなの」


彼はまた私をじっと見つめて、そしてまぶたを伏せた。


「……それでは、本末転倒です。すみません。今の話はすべて忘れて下さい。貴方は、私に会ったことは誰にも話さないで下さい。必ずですよ」


「ど、どうしたの?」


思わず尋ねると、彼はぞっとするほど暗い瞳でこちらを見た。


「貴方が人を殺せないなら、貴女に協力して貰う意味がないからです」


「それじゃあ貴方が死んでしまうじゃないの」


「貴方は、私一人の命と、何十万の命と、どちらを優先しますか? どちらかを守るためにどちらが消えるとしたら、どちらを消しますか?」


「それは……」


「そうでしょう? 私は特に何も感じないのです。生きるとか死ぬとか、そんなことは至極関係ない。申し訳ありませんでした」


彼は短刀を仕舞い、私に背を向けて去ってゆく。その姿は確かにあの人と酷似していた。


「待ってーー!」


声をかけてしまったのは、だからかもしれない。


「貴方を、見殺しにするわけにはいかないわ」


彼はピタリと歩みを止め、そしてゆっくりと振り向いた。


「お気遣いは無用です」


「貴方を見捨てるのは、私が貴方を殺すのと一緒よ。そんなの、私が許さない。かくまってあげる。貴方が一人で死ぬと言うのなら、私も死ぬわ」


 そう言って、私は彼を見据える。そのつめたい瞳の奥のいろを。分厚い氷に閉ざされたその心を。







「……不本意ですが、貴女の命を守るためにはこれしか方法はなさそうですね」


 しばしの沈黙の後、彼は静かに言った。私の言うことを聞かずに帰ることも出来たのに、彼はそうしなかった。そのことが、私の胸をあたたかく灯す。それだけのことなのに、なぜだろう。こんなにも、嬉しい。


 そう、私は手放したくなかったのだ。彼はあまりにあの人に似ているから。彼はあの人じゃないと、あの人の代わりではないと知っているのに、それなのに私は彼をあの人としてしか見られなくて。だからこそ、もう二度と離したくないと、醜い独占欲が湧いたのだ。


「さ、帰りましょ。私のうちはこっちよ」


 彼の手を引く。それだけで、忘れかけた昔の記憶が蘇る。懐かしくて、あたたかい記憶たち。またあの頃に戻ってきのではないか、そう錯覚してしまうほどのあたたかさ。



枯葉は舞い落ちる。

今この時も降り積もる時を表すかのように。



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