第8話:空っぽのバックパックと、茹でられないパスタ
第8話:空っぽのバックパックと、茹でられないパスタ
鉱山都市バラムの熱気は、重機竜ギガドリルを倒した後も一向に引く気配がなかった。むしろ、勝利の報酬としてばら撒かれた色鮮やかなエフェクトが、街の空気から「生活の匂い」を奪い、代わりに無機質な電子の輝きで塗りつぶしていく。
「……ねえ、サエキ。さっきから何してるのよ」
ヒカリは、酒場の片隅で黙々と作業を続けるサエキの背中に声をかけた。
サエキは、いつものようにイタリア製の古いコーヒーミルを膝に乗せ、ハンドルを回している。しかし、その手つきには、かつての優雅なリズムがない。一定の速度で、機械的に、ただ円を描き続けている。
「ふむ……。不思議なんだ、ヒカリ。ミルの中に豆は入っていない。香りはもう思い出せない。なのに、僕の体は『コーヒーを淹れる』というルーチンを要求している。……これは、比喩的に言うなら、読み終わった本のページをめくり続けるような虚無感だね」
「比喩なんていいから、その手を止めなさい。怖いから」
ヒカリが吐き捨てた瞬間、サエキの頭上に半透明のウィンドウが音もなく滑り出してきた。
【システムログ:自意識侵食の進行】
対象:サエキ
進行度:第2段階:定点観測
症状:特定の動作(ミルを回す)への固執。行動範囲が半径2m以内に制限されました。
「……嘘でしょ」
ヒカリの喉が鳴った。サエキの足元を見ると、彼が愛用していた上質なバックパックの中身が、道端に散乱している。小さなラジオ、読みかけのペーパーバック、そして空になったオリーブオイルの瓶。彼はそれらを拾おうともせず、ただ椅子に深く腰掛け、視線を一点に固定していた。
「ヒカリ、僕は気づいてしまったんだ」
サエキが、感情の抜け落ちた声で呟く。
「魔王を倒すことに、何の意味があるんだろう。僕たちは、この鮮やかな檻の中で、少しずつ『自分』というノイズを消していく。……パスタを茹でる必要なんて、最初からなかったんだ。腹が減らなければ、食べる必要もない。食べなければ、作る必要もない。……やれやれ。僕は、自由だと思っていたバックパックの重みそのものに、飽きてしまったのかもしれない」
「何言ってんのよ! アンタ、あの難解な比喩でアタシを煙に巻くのが仕事でしょ!? 自由なんて、不自由な中から無理やりひねり出すもんなのよ!」
ヒカリはサエキの肩を掴んで激しく揺さぶった。だが、その感触は驚くほど硬く、冷たい。まるで、精巧に作られたマネキンを揺らしているような、生理的な拒絶感がヒカリの掌を刺した。
「ヒカリさん、どうしたんですかぁ? そんなに怒ったら、お肌に悪いですよぉ」
背後から、場違いに明るい声が響く。ハルカだ。彼女の瞳は、もうヒカリを見ていなかった。ただ空中に浮かぶ何かの演算結果を追いかけるように、焦点が合わずに泳いでいる。
「ハルカ、アンタは黙ってなさい! ……サエキ、目を開けなさい! 次の街へ行くわよ。水上の都ヴェーゼよ。あそこなら、アンタの好きな綺麗な運河があるわ。ねえ、立ちなさいよ!」
サエキは、ゆっくりと首を振った。
「……ヴェーゼ。運河。……データ上は、美しい場所なのだろうね。だが、僕はもう、そこへ行く理由を見失った。……ここで、ミルを回しているのが、一番効率がいいんだ。誰にも迷惑をかけず、ただ、背景として完成される。……それが、僕の辿り着くべき『完璧な沈黙』だったんだよ」
その瞬間、サエキの体が淡い青色の光に包まれた。
世界が彼を「重要キャラクター」から「背景オブジェクト」へと格下げしたことを告げる、冷徹なシステム音が響く。
『――処理完了。個体名:サエキ。役割を「思索する旅人」から「酒場の隠居男」へ変更します。』
「……サエキ?」
ヒカリが恐る恐る手を伸ばすと、サエキの姿がわずかに透過した。彼はもう、ヒカリの毒舌を聞くことも、それに対して洗練された比喩を返すこともない。ただ、話しかけられた時にだけ起動する、虚ろな自動人形(NPC)へと変質してしまったのだ。
「やれやれ。……パスタを茹でよう。塩とオリーブオイルがあれば、世界は完結するんだ」
サエキが口を開いた。だが、それは先ほど彼自身が拒絶したはずの言葉を、システムが無理やり言わせているだけの「定型文」だった。
「……あ、あ、ああ……」
ヒカリの視界が、ぐにゃりと歪んだ。
これまで、どんなクソみたいな設定も、ふざけた魔法の名前も、毒舌という武装で笑い飛ばしてきた。だが、目の前で「知性」と「友情」の象徴だった男が、ただのテクスチャへと成り果てた事実は、彼女の強固な自意識に致命的な亀裂を入れた。
『警告:プレイヤー「ヒカリ」の精神に深刻なノイズを検出。自意識の防壁が崩壊を開始します。』
視界の端で、絶望的なカウントダウンが猛烈な勢いで数字を削っていく。
【システム警告:自意識侵食モニター】
ヒカリ:NPCまで あと 53日(激甚な精神汚染:絶望により42日分を一気に喪失)
「……嘘よ。こんなの、冗談じゃないわよ……」
ヒカリは力なく膝をついた。サエキは、もうそこにいない。椅子に座っているのは、サエキの形をした「何か」だ。
「タツヤ! クニオ! アンタたち、何とかしなさいよ! サエキが……サエキが死ぬより酷いことになってるのよ!」
「へへ、ヒカリさん。サエキさん、落ち着いちゃいましたね。でも、これで移動の時に歩くのが遅いって文句言われなくて済むじゃないですか。効率的ですよぉ」
タツヤが、壊れたラジオのように笑いながら、見えないスロットのレバーを回し続けている。
クニオは、抜いた刀を鞘に収めることすら忘れ、壁に向かって四角く歩く練習を始めていた。
「……誰も、いない」
ヒカリは、自分の手を見た。指先が、少しずつ彩度を失い、背景の壁と同じような灰色に染まり始めている。
孤独。現実世界で自分を苛んでいた、あの「誰とも繋がれない」絶望が、この極彩色のゲーム世界で、より残酷な形で彼女を飲み込もうとしていた。
「……なによ、これ。……アタシ、一人でこの世界を歩けって言うの?……こんな、感情のゴミ捨て場みたいな場所を?」
ヒカリの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。それはデータ上の水分ではなく、彼女の中に辛うじて残っていた「人間としての最後のリソース」だった。
酒場の隅で、サエキ(であったもの)が、空のミルを回し続けている。
「やれやれ。パスタを茹でよう。塩とオリーブオイルがあれば、世界は完結するんだ」
その定型文が、ヒカリの耳に、呪いの詠唱のように響き続けた。
NPCになるまで、あと 53日




