第6話:消えた記憶と、鋼の街のマルゲリータ
霧の森を抜けた先に広がっていたのは、緑豊かな風景ではなく、赤茶けた大地と、空を突くような巨大な煙突群だった。
「迷妄のアルラウネ」を撃破し、手に入れた『真実の灯火』が、霧を焼き払ったのだ。
しかし、その代償として得た「レベルアップ」は、一行の心に抜き差しならない空虚を刻みつけていた。
「……ねえ、サエキ。さっきから思い出そうとしてるんだけど、アタシ、10歳の誕生日に何色のリボンをもらったんだっけ?」
ヒカリが、扇子で額を叩きながら呟く。その言葉には、いつもの鋭い毒はなく、どこか迷子のような心細さが混じっていた。
「やれやれ。ヒカリ、それは僕に聞くことじゃない。僕だって、初恋の彼女が最後に投げかけた言葉が、思い出せないんだ。覚えているのは、彼女の唇が動いたことと、その瞬間に僕の心に降った雨の冷たさだけ。肝心の『データ』は、さっきのテテッテッテーという音と共に、ゴミ箱へ直行したらしい。」
サエキは、いつものようにアイロンのきいたシャツの袖を捲り上げ、古いコーヒーミルを回そうとして――その手を止めた。
「……おかしな話だ。僕は今まで、このミルを回すことで自分を保っていたはずなのに、今はただ『効率的にカフェインを摂取する工程』をこなしている気分だよ。」
【PARTY STATUS:鉱山都市バラム・外縁】
* ヒカリ: Lv.5 / NPCになるまで、あと 97日 [状態:記憶の虫食いに困惑]
* サエキ: Lv.7 / NPCになるまで、あと 86日 [状態:情緒のドライクリーニング済み]
* ハルカ: Lv.8 / NPCになるまで、あと 21日 [状態:レベルアップの多幸感中毒]
* クニオ: Lv.8 / NPCになるまで、あと 60日 [状態:拙者のアイデンティティが迷子]
* タツヤ: Lv.6 / NPCになるまで、あと 78日 [状態:エフェクト過剰で眼精疲労]
「すごいですよ、ヒカリさん! 見てください、私のこの肌!」
ハルカが、自身の腕を差し出してはしゃいでいる。その皮膚は、毛穴一つない完璧な質感で、夕陽を弾いて不自然に輝いていた。
「アルラウネに吸い取られた疲れが、嘘みたいに消えて……。レベルが上がるって、こんなに素晴らしいことだったんですね! 私、もうずっとこの光の中にいたい!」
「……ハルカ、アンタ、それ以上その光に浸かったら、中身が空っぽの『動くマネキン』になっちゃうわよ。」
ヒカリは、ハルカのあまりに「整いすぎた」笑顔に、背筋が凍るような危うさを感じた。
レベルアップとは、この世界における「最適化」だ。
強くなるために、無駄な、人間臭い「ノイズ」を削ぎ落としていく。
ハルカの自意識ゲージは、今や危険水域に足を踏み入れようとしていた。
「……着いたわよ。ここが『鉱山都市バラム』ね。……なによ、この街。情緒もへったくれもないわね。鉄くずと油の匂いしかしないじゃない。」
目の前に広がるのは、複雑に絡み合ったパイプと、巨大な歯車が常に軋んだ音を立てる、迷宮のような工業都市だった。
バラムの街に入ると、そこにはこれまでの村とは違う、奇妙な活気が溢れていた。
住人の多くは、ずんぐりとした体格のドワーフたちだ。彼らは一様に、酒場で大声を上げ、ジョッキを叩きつけて笑っている。
「ガハハ! 今日も穴を掘った! 明日も掘る! 掘れば金になる! 金になれば酒が飲める!」
その笑い声は大きいが、ヒカリの耳には、それがどこかメトロノームの刻むリズムと同じ、無機質な反復に聞こえた。
「……ねえ、サエキ。このドワーフたち、笑ってるけど……目が全然笑ってないわよ。全員、第1段階の『ルーチン化』にかかってるんじゃないの?」
「ふむ。鋭いね。彼らは『掘る・飲む・笑う』というループの中に自分を閉じ込めることで、魔王討伐という絶望から目を背けているのかもしれない。……いわば、自ら進んでNPCの金型に飛び込んだ人たちだ。」
サエキがバックパックから読みかけのペーパーバックを取り出すが、そのページを捲る指が、わずかに震えていた。
「……ヒカリ。困ったな。この本の『比喩』が、理解できなくなっている。……『月は冷えた銀貨のように』という一文を読んでも、単なる『円形の物体』としか認識できないんだ。」
「サエキ、アンタまでしっかりしなさいよ! アンタからスカした比喩を取ったら、ただの『パスタを茹でるアイロン野郎』になっちゃうじゃない!」
ヒカリは、サエキの肩を激しく揺さぶった。
仲間の個性が、システムの「平坦化」に負けていく。
その恐怖をかき消すように、ヒカリは街の中心にある一番大きな酒場「鉄の胃袋亭」の扉を蹴り開けた。
「ちょっと! ここの店主! 一番高い酒と、一番手の込んだ料理を出しなさい! システムが予測できないような、不規則で贅沢な味じゃないと、アタシたちの脳みそがデジタル洗浄されちゃうわよ!」
酒場のカウンターの奥から、一人のドワーフが顔を出した。
彼の名前の表記は、すでに『酒場の店主』に変わりかけていた。
「いらっしゃい……勇者様。……本日の、おすすめは……ドワーフ特製……鋼の……マルゲリータ……です……。おいしいよ……おいしいよ……。」
店主の瞳には、かつてプレイヤーだった頃の面影は微塵もなく、ただ「客を迎え入れる」というプログラムだけが駆動していた。
「……鋼のマルゲリータ? なによそれ、歯が折れるじゃない。……ねえ、見て。あっちのテーブル。」
ヒカリが指差した先では、一人の若者が、何も入っていない皿に向かって、ひたすらフォークを動かしていた。
「……おいしい。レベルを上げれば、おいしくなる。もっと、効率よく、食べなきゃ。……あ、こんにちは。今日はいい天気ですね。」
「……第2段階。『定点観測』。彼はもう、食事をしている『フリ』をすることで、自分の存在を維持しようとしているのね。」
ヒカリは扇子を握りしめ、その若者の皿を叩き割ろうとしたが、目に見えない壁に阻まれた。
「無駄よ、ヒカリ。ここはもう、システムの監視が強い。……僕らの『ノイズ』が、ここでは異物として排除されようとしている。」
サエキがそう言った瞬間、酒場の壁に赤いエラーログが投影された。
【SYSTEM WARNING:不規則な挙動を検知】
【対象:ヒカリおよび その同行者】
【警告:個体識別データの『揺らぎ』が許容範囲を超えています。直ちに『定型行動』に移行してください】
「うるさいわね! アタシはアタシのやりたいように毒を吐くわよ! 揺らぎ? 当たり前じゃない、女の心は秋の空って言うのよ! まあ、アタシの場合は年中、大型台風並みの荒れ模様だけどね!」
ヒカリが叫ぶと、酒場の中心にある巨大な歯車の回転が止まり、床が激しく振動し始めた。
「ガガガ……! 効率を……乱す者は……排除……! 採掘の邪魔……! 笑いの邪魔……!」
酒場にいたドワーフたちが、一斉に立ち上がった。彼らの動きは完全に同期しており、まるで一つの巨大な機械仕掛けの怪物のように、一行を取り囲む。
【イベント発生:鉱山都市の自浄作用】
【重機竜ギガドリルの試作機が起動します】
「やれやれ。夕食の前に、一仕事しなきゃいけないようだね。ヒカリ、僕の『比喩』が消える前に、この無機質な連中に、生身のデタラメさを教えてあげよう。」
サエキがコーヒーミルを放り投げ、詠唱を始める。
「いいわよ! 全員、自分勝手に暴れなさい! 連携なんて取らなくていい! このクソ真面目な世界に、最大級の『バグ』を見せてやるわ!」
ヒカリは、消えかかった母のリボンの色を必死に胸の奥で探しながら、扇子を大きく広げた。
NPCになるまで、あと 97日




