第1話:誕生、そして…
「光の勇者……ヒカリ……聞こえますか……。」
「!?」
暗闇の底。意識の濁流の中で、妙に響きのいい、それでいて少し鼻にかかった声が脳内に直接響く。
「わたくしの声が、聞こえますね……。」
「うわっ、誰!? どこよここ、新手のサウナ? 湿度がすごすぎてメイクが落ちるじゃない!」
「黙って導かれなさい……。わたくしは、全てを司る者。あなたは、やがて真の勇者として、わたくしの前に現れることでしょう……。」
声の主は、自らを「精霊王ヨシアキ」と名乗った。その姿は見えないが、漂ってくる雰囲気からは、高級ブランドの香水と、隠しきれない「お調子者」の気配がする。
「それでは、この世界の真実を教えましょう。ヒカリ……この世界にいるNPCたちはね、全員、かつて異世界から召喚された『元・勇者候補』なのよ。」
「はあ? NPCって、あの街角で同じセリフを365日繰り返してる、感情の死んだ連中のこと?」
「そう……。魔王を倒す意志を失い、心を折られた者は、魂の自由を奪われ、決まった場所で決まった言葉を繰り返すだけの『背景』となる。これを『虚無の侵蝕』と呼びます……。」
突如、目の前に半透明のウィンドウが浮かび上がった。
【NPCになるまで、あと100日】
「……え、ちょっと待って。なんだこれ……? カウントダウン? ギャグにしては笑えないんだけどー!」
「これがこの世界の構造です。魔王を倒し、世界を救う。その明確な意志だけが、人間として自分を繋ぎ止める楔となるのです。さあ、そろそろ夜が明ける頃。」
「ちょっとヨシアキ! 説明が雑よ! アタシ、まだ魔王となんて戦う心の準備が――」
「あなたも、この眠りから目覚めることでしょう。いつの日か、あなたに会えることを、楽しみに待っています……ハッピー、ラッキー、勇者様……。」
声が遠ざかる。意識が急浮上し、鼓膜に現実的な「音」が叩きつけられた。
「起きたまえ……」
「……」
「……起きなよ……。おい。起きろ。いい加減に起きたまえ!」
強烈なビンタが頬を張った。
「痛っ……! なによ、アタシの美貌に傷がついたらどう責任取ってくれるのよ!」
勢いよく跳ね起きた万城目 光の目に飛び込んできたのは、見たこともないほど「記号的」な風景だった。石造りの家、不自然なほど青い空、そして――。
「……あら。まあ……。これは……逸品じゃない。」
目の前に立っていたのは、一人の男だった。
アイロンのきいた清潔なシャツ。使い込まれているが上質なバックパック。驚くほど整った横顔には、世捨て人のような哀愁と、深い井戸の底を覗き込むような静かな知性が宿っている。
「やれやれ。ようやく目が覚めたかい。君が草むらで『あんたの顔、食べていい?』なんてうわ言を言いながら倒れていたときは、どうしようかと思ったよ。」
男は困ったように眉を下げ、傍らに置いたイタリア製の古いコーヒーミルを回し始めた。
「あんた……名前は?」
「サエキだ。それ以上の自己紹介は、あまり意味をなさない。所有も名前も、人を縛るだけの鎖にすぎないからね。……飲むかい? 完璧な沈黙には、深煎りの豆がよく合う。」
「サエキ……ね。いいわ、気に入った。あんたのその、この世の終わりみたいな冷めた瞳、アタシの審美眼に合格よ。合格ついでに一つ聞くけど、ここ、どこなの?」
サエキは遠い山脈を指差した。
「ここは旅立ちの村オルナ。そして君の目の前に浮かんでいるのは、残酷な『タイムリミット』だ。」
ヒカリの視界には、依然として赤い文字が点滅している。
【NPCになるまで、あと99日】
「……マジなのね。アタシ、勇者として魔王をぶっ飛ばさないと、その辺で『今日はいい天気ですね』って言い続ける置物になっちゃうわけ?」
「その通りだ。君だけじゃない。僕も、そしてこの街を歩くあの『村人A』も、かつては君のように名前を持った人間だった。……見てごらん。」
サエキが指差した先には、村の広場の噴水前で、一定の歩幅で四角形を描くように歩き続けている老婆がいた。
「彼女はもう1年、あのアスファルトの角を曲がり続けているらしい。話しかけても『旅の安全を祈りなさい』としか答えない。思考がルーチン化し、定点観測モードに入った……完全なNPCさ。」
「……最悪。そんなの、社畜以下の地獄じゃない。」
ヒカリはどっしりと地面に座り込み、自らの武装――派手な衣装と完璧なメイク――を確かめるように扇子を広げた。
「いいわよ。やってやろうじゃない。アタシみたいな異形が、魔王を倒して世界を救う? 脚本書いた奴の顔が見てみたいけど、このまま背景の一部になって消えるなんて、アタシのプライドが許さないわ。あんた、サエキ。あんたも来なさいよ。そのイケメンな顔が、定型文しか言わなくなるのは国家的な損失よ。」
サエキは「やれやれ」と肩をすくめた。
「僕は、バックパック一つ分の自由があればそれでいいんだ。でも、君のような『激しい炎』の隣にいれば、少しは僕の冷めたコーヒーも温まるかもしれない。……行こうか。世界を救うために。あるいは、自分が自分であり続けるために。」
その時、二人の視界に「システムログ」が乱入した。
【PARTY STATUS】
ヒカリ:Lv.1 / NPCになるまで、あと 99日[状態:イケメン(サエキ)をロックオン中]
サエキ:Lv.3 / NPCになるまで、あと85日 [状態:やれやれ]
▼ 現在の目的(Quest)
王都へ続く「王都街道」を進み、仲間をあと3名補充せよ。
(※注意:一人で進むと寂しさからNPC化が200%加速します)
「なによこのステータス画面! 『イケメンをロックオン中』って、アタシの崇高な美学をパパ活女子みたいに書かないでくれる!? それにサエキ、あんたレベル3なの? 先に始めてたなら攻略本くらい持っていなさいよ!」
「やれやれ、攻略本なんてものは、結末を知っている退屈な人生と同じだよ。……おっと、足元に気をつけて。そこには『プチスライム』という名の、思考停止したデータの残骸がいる。」
ヒカリは扇子をビシッと突き出した。
「いいわ、バケモン勇者ヒカリの誕生よ! ついでにそのスライム、アタシの美容液の材料にしてやるわ!」
二人の歩みが、村の出口へと向かう。
それは、魔王を討伐する旅というよりは、「自分たちが『ただのデータ』ではないことを証明するための、大人げない悪あがき」の始まりだった。
NPCになるまで、あと:99日。




