スーパー警察官
菱形頑児さんは警視庁特殊急襲部隊の隊員だった。
愛素さんと理素を救うために真っ先に動こうとし、菱形姉妹誘拐監禁事件対策部隊に志願したが、部隊長に拒否された。
「おまえは人質と関係が近すぎる。冷静に行動できないだろう。この事件は私と他の隊員に任せろ。必ず無事に娘さんを救出する」と言われたそうだ。
頑児さんはその命令に従った。
休暇を取り、ネットやテレビで事件の経過を見つめた。
そして部隊長が言ったとおり冷静ではいられなくなり、怒りに震えた。
部隊長の言う無事と頑児さんが願う無事には大きな齟齬があった。
部隊長は人質を生還させればそれでよいと考え、頑児さんは傷ひとつないまま助け出したいと思っていた。
彼は三人の爪がはがされていく映像を見て、液体が入ったままのエナジードリンクの缶を握りつぶす。
怒髪天を突く怒りを覚えながら、頭の芯を精神力で冷却して、頑児さんは考えた。
対策部隊は政治家の決定がなければ突入できない。
政治家はなかなか決断しないだろう。
一方、作戦立案者は犯人グループを疲弊させてから人質を救出しようと考えるはずだ。
政治家と作戦立案者の思惑は最終的に一致し、救出作戦の実施は犯人が殺害を予告したリミットタイムの少し前ということになる。
「そんなに待てるかよ」
頑児さんが握りつぶした缶からジュースが絨毯にこぼれ落ちる。
「愛素と理素とキーくんは今すぐに助けなければいかん。誰も助けないのなら、僕が助ける」
高級なシルクのカーペットが濡れたのに気づいて、ぞうきんで拭く。頑児さんの給与で買える品ではない。智素さんの収入で購入したものだ。
彼は拭きながらさらに考える。
「でも、僕ひとりの力で今すぐ助けるのは、リスクが高い。やはりそれなりに成功率の高い時間帯を狙うしかないか」
彼はリミットの十六時間前、未明の午前四時に独断独力で救出作戦を実行することにした。
頑児さんは特殊部隊の制服で身を包み、必要と思われる装備を持ち、自家用車で現場の山の麓まで行った。そこからは何食わぬ顔で歩いて、洋館の裏側に接近した。
対策本部は東の正門側にあり、西の裏側には末端の隊員しかいなかった。
堂々と進む頑児さんを、誰も制止しなかった。
実はこのとき本部に智素さんがいたのだが、彼女も夫の行動を知らなかった。
頑児さんは妻の性格を知り抜いており、独断専行をけっして許さないとわかっていた。その上この頃ふたりは、娘たちに秘密で離婚交渉中だった。原因は智素さんの不倫。
部隊の中核に頑児さんと極めて仲がよい隊員がいた。
彼から情報を入手していた。
犯人グループは総勢わずか四人。
最初は人数を特定できなかったが、綿密な調査と観察でほぼ確実だと推定されている。
洋館の出入口は東の玄関と西の裏口。そこに犯人がひとりずつ伏せて張りついている。
一階の窓はコンクリートで塗り固められている。
敵の本拠は東に窓のある二階の部屋で、そこに犯人ふたりと人質三人がいる。
犯人グループが愚かにもネット実況をつづけているため、それも確実だとわかっている。
洋館は鉄の柵で囲われてるが、突入口としてトンネルを掘っている。
要するに部隊が総力を挙げれば制圧は容易なのだが、人質の生命の保証まではできないため、作戦実施が遅れているというのが実情だった。
頑児さんのはらわたは煮えくり返っていたが、頭は不思議に冴えわたっていたという。
事件発生四日目の午前四時、彼は単独で洋館の敷地に侵入する。
裏門にいて二丁拳銃を構えている鼻ピアスの男を、頑児さんは用意していた暗視スコープを使うまでもなく発見した。
「いた。素人じゃねえか。なんでさっさと狙撃しないんだ」
鼻ピアスはライトを煌々と点けていた。光を灯して警察側の動きを見ているつもりだろうが、自らをさらけ出しているだけだ。犯人はナイトビジョンすら持っていない。
頑児さんは消音ライフルでハルの眉間に穴を開ける。
すばやく北側に回り、側面から玄関を見る。
こちらは暗かった。
暗視スコープで見ると、筋肉質な女が暗視ゴーグルをつけ、ライフルを門に向けて構えていた。
「こっちはナイトビジョンを装備してるのか。ちぐはぐなやつらだ」
一発で仕留めるため、頭部を狙える位置へ移動する。
筋肉質な女は勘がよく、頑児さんのいる方を凝視した。
樹の陰に隠れたが、彼女は警察官が侵入したのに気づいたようだった。
すぐに撃てばよかったのに、彼女は銃身を下げて、トランシーバーを手に取った。おそらく「レッドタイム」と言おうとしたのだろう。
直後、筋肉質な女の左側頭部に穴が開き、弾丸は右頭蓋骨を割って抜けた。ナツは暗号はおろか、悲鳴をあげることもできなかった。かは、と息を漏らして即死。頑児さんは一階の敵を始末した。
「ナツ、何かあったか? 応答しろ。ハル、どうして答えない?」
トランシーバーから声が聞こえる。
「急がないとやばい」
頑児さんは玄関から洋館の中に入り、足音をほとんど立てずに走って階段を上り、二階へ急行する。
まったく迷わずに、東の部屋の扉を開ける。
そのとき愛素さんは爪をはがされたばかりで泣きわめき、理素は俺の膝枕で眠り、うなされていた。
俺は半分寝ていたが、ドアが開いたのに気づいて、瞬間的に覚醒した。
頑児さんは俺たちには目もくれずに、すばやく細身の男の後頭部を撃ち抜き、次の弾で痣のある女の右手首を砕いた。即座に駆け寄って手錠をはめる。
部屋に入ってから、十秒もかかっていない。
「一名逮捕。作戦成功」
頑児さんが口笛を吹き、フユは呆然とした。
泣きはらした愛素さんが叫んだ。
「パパ、その人を殺して殺して殺して殺して殺して!」
「殺さないでくれ。愛素さんと理素さんを殺す気はなかったんだ。もちろんキーくんを殺すつもりもなかった。殺すと言ったけれど、本気じゃなかった。あたしらは救貧平等軍だ。正義を重んじる。誓う。子供を殺すようなことは絶対にしない」
「殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺してぇ……」
頑児さんは、愛素さんと理素と俺の爪が少ししか残っていない手と、俺たちの指先から流れた血で汚れている床を眺めた。
「僕の愛する娘たちの爪をはいだ。キーくんの爪も。愛素はなんだか狂っちゃったみたいだ。やっぱり許せないね」
「助け……あが!」
頑児さんは救出のためでなく、復讐のためにフユを殺した。
ライフルカメラはそっぽを向いていて、その行為の映像は残らなかったが、音声はインターネットを通して世界中に届いた。