事件の経過
「どうしてこんなひどいことをするんですか……?」
泣きながら理素は訊く。
「貧乏人を救済し、平等を実現するためだ」
痣のある女は答える。
「なぜ私たちの爪をはぐんです……?」
「これは上級国民との戦争だ。やわなデモなんかじゃ、あたしらの要求は絶対に実現できない」
「私もお姉ちゃんも鍵くんも、悪いことは何もしていません……」
「キーはどうだか知らないが、おまえらは生まれながらの上級国民じゃないか。護衛に守られて、カラフルなビオトープで遊べる。あたしらの敵の一員だ」
「理不尽です。私はもっと自由にいろんなところで遊びたいんです。でもおかあさんからの言いつけで、遊べるところは限られているんですよ……」
「この世は理不尽なものなんだよ。その点は上級国民も下級国民も変わらないようだな」
フユは瞳を爛爛と輝かせ、熱を込めて語った。
「この痣はある日突然、知らない男にぶん殴られ、劇薬をかけられてできた。歩道橋の上でまったく知らない男から突然やられたんだ。もしかしたら相手はあたしのことを知ってたのかもしれないけどな。熱かった。痛かった。わけがわからなかった。男は逃げた。たぶん今もどこかでのうのうと生きている。理不尽だ」
アキはカメラをフユと理素に向けている。
「格差はもっとも大きな理不尽のひとつだ。あたしらはこの世の理不尽を減らすために死ぬまで戦う」
「助けてママ助けてママ助けてママ!」
愛素さんは絶叫する。
「痛いよママ痛いよママ痛いよママ!」
「姉はむやみやたらとうるせえな」
「いやだあ帰りたいママーパパー助けて助けて助けて助けてえ!」
痣のある女は銃床で愛素さんの頭を叩いた。
愛らしい少女はびゃーびゃーと激しく泣いた。
「理素と愛素さんの爪をはがさないで。俺の爪は何枚はがしてもいいから」
俺はなけなしの勇気を振り絞って言った。
「おまえの爪はついでなんだよ」
痣のある女の返事はそっけなかった。
「姉妹の爪をはがすことが肝要だ。でなければ菱形智素は痛みを感じない。あたしらは菱形グループを動かすことにより、日本政府に揺さぶりをかけたいんだ」
結果から言うと、智素さんは犯罪者とは交渉しないという主義で、娘たちを救う政治的な行動をしなかった。
それどころか後で、愛素さんの態度を見苦しかったと非難し、途中からまったく無抵抗になってしまった理素を冷たく見放したのだ。
ふたりを「菱形の面汚し」とまで罵った。
「なんで戦わなかったの。どうしてさっさと私を殺しなさい、あなたたちには何もできないくらいのことを言えなかったの。テロにはなんの力もない。それどころかマイナスなの。むしろ事態を悪化させるものなの。法律がきびしくなり、国家の権限が強化され、個人の自由は減る。アメリカ同時多発テロ事件は、その後の長い対テロ戦争を生んだ。そういうものに対して、愛素と理素は敢然と立ち向かうべきだったのよ。それなのに愛素は見苦しく泣き叫ぶだけで、理素はすぐに抵抗をやめてしまった。菱形の面汚し!」
智素さんは天才かもしれないが、頭がおかしい。
救出されたばかりの五歳と六歳の娘に、なぜそんな罵倒を投げつけなければならないのか、理解に苦しむ。
これこそ理不尽の極みだと俺は思う。
「ううっ、うっ……理不尽な世界なんてなくなった方がよいですね……」
左手の爪がすべてなくなったとき、理素は滂沱の涙を流しながら言った。
「ああ、理不尽な世界はなくなるべきだ」
「私が死ねば世界はなくなる……」
「あ? おまえひとりが死んだところで、世界も理不尽もなくならねえぞ」
「私にとっての世界は終わります……」
「そういうことか。確かに死ってのは、一種の世界の終わりだな」
俺はひどいことになったと心の底から思いながら、理素とフユの会話を聞いていた。
細身の男が話に割って入った。
「待てよ。おまえはまだ子供だ。自殺するのは、せめて大人になってからにしなよ。俺は自殺も同然のこの戦いに身を投じたが、長く悩んだ末に決めたことだ。おまえらはまだ自殺なんてしてはいけない」
「アキ、明日死んでもらうかもしれない子にそんなことを言うな」
「あ、そうだったな。すまない」
「明日死ぬ……」
そのことばを最後に、理素は高校生になる現在に至るまで、家族や俺以外とまともに話せなくなった。
「大丈夫。アタシは助かるわ。だって世界はアタシが見ている夢なんだもん。死ぬわけがない」
愛素さんは突如としてそんなことを言い出したり、脈絡もなくアハハアハハハと笑ったりした。
「この痛みはなんなのこんなの現実じゃない早く目覚めてよ痛い痛い痛い痛い痛いここは地獄だったのねヤダヤダヤダ……」
鬱々とつぶやいたり、急にぎゃーっ死ぬぅなどとわめいたりもした。
彼女はこの後、長く双極性障害の治療をつづけることになる。
NHKは総理大臣、官房長官、財務大臣の発表を二時間ごとに放送した。
あたりまえだが、政治家たちの発言がフユを満足させることは、けっしてなかった。
俺たち三人の身代金が消費税額すべてというのは、要求として途方もなさすぎる。
そんなことは実現できっこない。
フユは冷たく俺たちの爪をはがしたが、政治家はそれ以上に冷徹に犯人の要求をはぐらかした。
痣のある女は素晴らしい映像作品を創ると豪語したが、それも達成されなかった。
犯人グループと俺たちが出演する動画が、緊張感があり見応えのあるものだったのは最初だけ。
すぐに醜悪で退屈な作品に堕した。
苛立つフユたち、泣く俺たち、警察官らが潜んでいる山腹。
そんなものが延々と映りつづいている動画が面白いわけがない。
山腹には警察だけでなく、マスコミ関係者も詰めかけていた。
NHKと民放はこの誘拐監禁事件を放送しつづけた。
空にはテレビ局のヘリコプターが飛んだ。
フユはヘリが洋館を制圧しようとしている機動隊のものではないかと疑い、「ヘリを飛ばすな。どこかへ行け。さもないとすぐにキーを殺すぞ。こんなやつはいなくなったっていいんだ!」と叫んだ。
俺は肝を冷やした。
幸いヘリコプターは去った。
痣のある女が政府に発破をかけてから四十四時間が過ぎた午前四時。
愛素さんの八枚目の爪がはがされたとき、身長二メートルの警察官、菱形頑児さんが命令を無視して動き出す。