誘拐監禁実況
誘拐された翌日、午前七時に目が覚めた。
監禁されている部屋に古風な柱時計があるので、時刻はわかる。アンティークな木製の時計で、白い壁に掛けられている。
部屋の中には愛素さんと理素、俺、そして痣のある女と細身の男がいる。
痣のある女は俺たちに目をやったり、窓の外を見下ろしたりしている。窓からは灰色の空と緑の山腹が見える。
細身の男はライフルにつけたカメラで撮影を続行している。レンズを向けると銃口も撮影対象に向かうので、人間を撮っていいものではないと思う。そんなものを向けられて平然としている痣のある女はまともではない。
筋肉質な女と鼻ピアスの男はここにはいない。どこかの防衛地点で銃器を構えているにちがいない。
昨夜から犯人たちはトランシーバーを使って、ときどき連絡を交わしていた。
「山腹に複数のライトが見えた。おそらく警官たちに包囲されている。ハル、屋上のサーチライトを点けろ、オーバー」
「周囲を警戒しろ。ためらわずに撃て、オーバー」
「突破されたら、人質を殺す。殺す段階になったら、レッドタイムと言え、オーバー」
「仮眠を取りたいときはプリーズベッドと言え。あたしの許可なしに眠るな。起きたら必ず報告しろ、オーバー」
「許される睡眠時間は一日三時間までだ。三日間だけがんばれ、オーバー」
「オーケー、一時間の睡眠を許可する、オーバー」
「アキ、撮影を中断してナツの穴を埋めろ」
「了解だ、フユ」
俺が聞き取った犯人たちのことばだ(もちろん憶えてなんかいられない。彼らの言動は動画で残されている)。
痣のある女はフユ、細身の男はアキ、筋肉質な女はナツ、鼻ピアスの男はハルと呼ばれていた。おそらく全部コードネーム。
誘拐された夜はあまり眠れなかった。毛布を与えられたので、寒さはしのげた。深夜になってからようやく、眠ったり、起きたりを繰り返した。
理素は俺より多くの時間眠ったようだが、かなりうなされていた。
愛素さんはほとんど眠れず、「家に帰りたいお腹すいた眠いのに眠れない死にたくない死にたくない死にたくない怖い怖い怖い」などとつぶやきつづけていた。今頃うつらうつらしている。
部屋の隅に工事現場にあるような仮設トイレがあり、犯人と俺たちはそこで用を足している。
俺たちは手錠をかけられている。大小便をするときもはずしてもらえず、やりづらい。
ひとり一本ずつペットボトルの水をもらい、朝食としてアンパンとジャムパンを供された。俺たちは食欲なんてないが、フユは「食え」と強制した。
フユとアキはカップ麺を食べていた。
午前八時になって、「政府に発破をかける」と痣のある女が言った。
細身の男がフユにカメラを向ける。
「総理大臣、官房長官、財務大臣、聞いているか。これから二時間ごとに三人交代で、消費税廃止についての進捗状況をNHKで発表しろ。最初は本日午前十時、総理大臣の話を聞きたい。その話が満足いくものだったら、人質は無事だ。もしあたしが満足できなかったら、人質の爪をペンチではがす。愛素、理素、キーの順番で二時間に一枚ずつはがしていく。消費税完全廃止の刻限は今から六十時間後とする。明後日の午後八時だ。満足いく話がひとつもなかったら、三人の両手の爪は全部なくなる。良い話を期待している。もし話が後退したり、嘘だとわかったときは、同時に二枚はがす」
痣のある女はカメラと俺たちに、にぶく輝く銀色のペンチを見せた。
愛素さんは眠気が吹っ飛んだようで、「いやあああああ」と叫んだ。俺は震え、理素は泣いた。
フユは古いブラウン管テレビの電源スイッチを押し、チャンネルを1に合わせた。俺の家のテレビはリモコンで操作する。チャンネルを手で回すところを見たのは初めてだった。
午前九時三十分、外で動きがあった。
「誘拐犯に告げる。菱形愛素さん、菱形理素さん、白根井鍵くんを解放してください」
拡声器で大きくした声が聞こえてきた。警察から犯人への呼びかけだった。
鍵をキーではなく、かぎと発音された。
現場に届けられている情報は正確ではない。フリガナが振られていないのかもしれない。
「雑魚のことばは求めてないんだけどな」
痣のある女がカメラに向かって話す。
「現場の責任者に告ぐ。もっと有益なことを話さないと、すぐに愛素の爪をはがす。おまえらの人数を正直に教えろ。もしくは黙れ」
拡声器からの声はそれ以上聞こえてこなかった。
午前十時になって、総理大臣の姿がテレビに映る。
「指定の時刻となりましたので、消費税減税に関することを話させていただきます。税につきましては、六十時間で結論を出すというのは非常にむずかしく、不可能に近いことでありまして、せめて三か月は時間が欲しいわけであります。これは民主主義を守るためでもあり、早急に回答するのは、誰であろうとできないであろうと思うわけであります。もちろん政府与党といたしましては、前向きに減税の検討を推し進めております。昨夜の閣議では、私から閣僚に可及的速やかに検討するよう指示をいたしました。減税と財源は一体的に考えなければならないことはもちろんであり、財源についても検討するよう指示をしたしだいであります。個人的には菱形愛素さん、理素さんの生命を守ることを第一に考えなければならないと考えており、私の給与三か月分を国庫に返還することを決意しております。これはまずもってお約束できることです。お約束します。この時間にお話しできるのは以上となります。犯人の方々におかれましては、くれぐれも冷静な行動を取ってくださるよう深くお願いするものであります」
首相は俺の名前を言わなかった。現場の警察官よりひどい。
もちろんフユは切れた。
「減税じゃねえ。廃止だって言ってんだろ!」
愛素さんの左手の小指の爪がはがされた。
彼女がどれほど苦しみ、泣き叫んだことか。思い出したくない。
その後、理素と俺に対して行われた爪剥ぎのことも考えたくない。
わかりきっていることだが、愛素さんと理素の心は完膚なきまでに壊された。
愛素さんは感情の振幅が極端に大きい少女になり、理素は人間不信になった。
高校生になった今でも、ふたりの精神は正常とは言えない。
俺の心が壊れたのかどうか、自分自身のことなのに、不思議なことにわからない。
表面的には、事件前後で俺はあまり変わっていないように見えるらしい。
そうかな?
そう見えるのなら、そうかもしれない。
俺にはもう以前の俺がどんなだったかわからない。