救貧平等軍
五歳の理素は、特別に人見知りでもコミュ障でもなかった。
少なくとも俺の記憶の中では、彼女は誰にでも笑顔を向けるかわいい女の子だった。リーダーシップの萌芽さえあった。
今とは真逆で友達に囲まれて、みんなの中心になって遊んでいた。俺も理素を追いかけた。彼女は天性のやさしさや正義感を持っていたように思う。
理素が普通とちがっていた点は、親が桁はずれに金持ちであったこと。
母親の菱形智素さんは巨大企業グループの創業家の娘で、飛ぶ鳥を落とす勢いのあった株式会社ネビュラの社長だった。
愛素さんと理素の当時の名字は菱形。
智素さんは高校在学中にネビュラを起こした。親から将来何をやりたいか訊かれて、「インターネットを使って起業したい。将来じゃなくて今すぐやりたい」と答えたのは有名な話。
資金を与えられ、智素さんは仕事を始めた。
彼女は人の資質を見抜く天才的な眼力とえもいわれぬカリスマ的な魅力を持っていた。
高校生でありながら日本中の主要な大学を訪問して、数多の教授や学生を魅了し、いくつかのゼミに潜入した。そして四人の大学生をスカウトし、智素さん自身を含む五人でインターネットビジネスを開始する。
誰でも知っているとおり、ネビュラは大成功した。
理素の父親は空原頑児さん。身長二メートルの警察官。智素さんとのなれそめは、暴漢から救ったというベタなもの。頑児さんは婿養子になった。
俺と理素は同じ幼稚園に通っていた。家が近かったから、よく愛素さん、理素、俺とで遊んだ。
お気に入りの遊び場は智素さんがつくったビオトープ公園。清らかな湧き水があり、珍しい昆虫や植物が生きていて、特権的な人しか入れないところだった。俺は姉妹の友達という特権的な立場を持っていたわけだ。そんなことは意識していなかったけれど。
ビオトープはもちろんボディガードに守られていた。
春の夕暮れ、俺たちは大きな破裂音を聴く。
気がつくと、銃器を持った四人の男女に囲まれていた。後で知ったが、ボディガードたちは奇襲されて全員息絶えていた。
「このビオトープを撮影しな。まだ実況はしないで。録画開始」
顔に痣のある女が言う。
カメラ付きのライフルを持った細身の男が撮影を始める。
愛素さんと理素は、筋肉質な女と鼻ピアスの男に捕らわれた。抵抗したが、五歳と六歳の幼女と大人では勝負にならない。
俺は男女に囲まれたが、捕まえられはしなかった。彼らは俺には興味がないようだった。
「この男の子はどうするんだ? 一緒に連れていくのか?」
細身の男が訊く。
「邪魔よ。殺して」
痣のある女が指示する。細身の男は躊躇したが、筋肉質な女はためらわず、俺に拳銃を向けた。
理素がすぐに叫んだ。
「鍵くんを殺さないで!」
痣のある女が理素を見る。
「勇気がある。友誼に厚い。だが今ここでは無力だ」
「殺さないで! 殺したら私は自殺するから」
「驚いたな。その歳で交渉するのか。どうやって自殺する?」
「舌を噛むわ」
「やってみろ」
理素は舌を突き出し、噛んだ。血が流れる。俺はそのときほど鮮やかな赤い血を見たことがない。
愛素さんがわあわあと大声で泣き出した。
声こそ出していなかったが、俺も涙を流した。
泣いていない子供は理素だけ。
彼女は舌を噛みつづけ、血がだらだらと流れつづける。
「ぐずぐずしてるとやばい。さっさと殺そう」
鼻ピアスの男が叫ぶ。
「いや、気が変わった。勇気ある行為に敬意を表して、男の子も連れていこう。おい、自殺をやめろ」
痣のある女が俺の襟首をつかんで、「来い。抵抗したら秒殺する」と言う。
俺たちは三人とも黒いドイツ車のトランクに押し込められた。
その後パトカーとのカーチェイスがあったが、筋肉質な女の運転技術が異常に高く、運もあって、誘拐犯たちは逃走に成功する。
そのカーチェイスを俺たちはトランクの中で体験した。高速で走り、急に曲がる車のトランクにいるのは、拷問に等しかった。愛素さんは吐いた。
カーチェイスのようすは今でもネットで見ることができる。
犯人グループはパトカーを撒いた後、山上の洋館に立て籠もった。俺たちはそこに監禁された。
「あなたたちはバカなのですか。こんなところ、すぐに捕まります」
理素が言う。
このとき以後、彼女はすべての人に対して敬語で話すようになる。以前はそうではなかった。
「あたしたちはあたしたちの命を使って、後世に残る映像作品を創るんだ。舞台は絵になるところでなくてはいけない」
痣のある女は笑う。
「あたしたちも撮影するし、もうすぐテレビクルーも撮影するだろう。もしかしたら野次馬がどこかから動画を撮るかもしれない。総合的に素晴らしい映像作品が生まれることになる」
細身の男がライフルカメラを彼らのリーダーに向けている。
「おまえはなかなかいいキャラクターだ。作品に深みを与えてくれそうだ」
痣のある女は理素を見ながら言う。
「実況を始めろ」
そして、リアルタイムで誘拐監禁事件の映像がネットに流れ出る。
「あたしたちは救貧平等軍だ。日本国政府および国会に要求する。三日以内に消費税をなくせ。財源は国会議員を含む上級国民から取り立てろ」
痣のある女は声明し、細身の男は撮影する。
「もしあたしたちの要求が受け入れられなければ、菱形愛素、理素は死ぬ。それとおまえ、名前はなんていうんだ?」
「白根井鍵……」
「シラネイキーもついでに死ぬ。繰り返す。あたしたちは救貧平等軍だ。三日以内に消費税を完全に廃止しろ」
彼女の痣は赤紫色で、左頬に広がっている。それがなければ、モデルになれただろう。堂々とした態度と話しぶりを見るに、俳優になれた可能性も高い。痣のある女は華麗な容姿をしていた。
髪の色は明るいブラウンで、短く刈っていた。ジーンズが似合っていた。
「鍵はある?」と愛素さんがつぶやいた。
「鍵ならあるよ」
俺はズボンのポケットから金の鍵を取り出した。純金ではなく、金メッキ。病気がちなおかあさんからもらったものだ。
「鍵をください」と理素が言う。
「鍵をあげる」
俺は理素に鍵を渡した。
彼女は大事そうに左手でぎゅっと握った。
どうしてそんな会話がそのときに成立し、なぜ大切な鍵を理素にあげたのか、よくわからない。
「今のやりとりを撮影したか?」
「途中から」
「ちっ。名シーンだったのに」
痣のある女は鍵を握る理素の手をじっと見つめた。
「ナツ、鍵を奪え」
筋肉質な女が嫌がる理素から鍵を奪った。
「消費税がなくなったら、鍵を返してやる」
「なくならないです。あなたたちは死にます」
そう言った理素の顔を鼻ピアスの男が殴った。
「消費税がなくならなければ、死ぬのはおまえらだ」
理素の目から光がなくなり、「死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない」と愛素さんが繰り返す。