ネガティブモード
空原理素はコミュニケーションが苦手な女の子だ。
そういう子はネットを憎むのかもしれない。
ネットは情報収集と情報発信の場だが、理素がSNSで何かを発信したのを見たことがない。
なんにもやっていないわけではない。エックスだのインスタ、フェイスブックだのを意外とよく見ている。しかし自分から何かを発信したことはない。見る専だ。
実は理素の情報はネットの中にありふれている。
俺と彼女と彼女の姉は、五歳と六歳のときに誘拐された。
犯人グループは自分たちの行動を動画で実況しながら、犯罪を進行させた。
犯人たちの動画は削除されたが、一度拡散され、非常に注目された情報を完全に消去することは不可能。
恐怖に泣き叫ぶ幼い理素の顔を見ることはたやすい。
理素の姉と俺の泣き顔も同じだ。
たいていの日本人が空原愛素と理素姉妹の名前を知っている。
白根井鍵よりも圧倒的に有名。
同じ犯罪被害者でも、可愛い姉妹の方が平凡な男の子より注目されるということだろう。
今でもたまに「愛素ちゃんと理素ちゃんって生きてんの」みたいな無頓着なナイフがタイムラインを流れることがある。
そういうのを理素はまったく光のない目で眺めている。
俺もネットってどうしようもないと思うことがある。
そんなことを想いながら午後の授業を受ける。教師のことばには集中できていない。
やくたいもない。
理素に知られたら、「だめなのは鍵くんじゃないですか」と言われてしまいそうだ。
放課後、俺と理素は旧校舎二階にある歴史研究会の部屋へ行く。
歴史好きな愛素さんが会長をしている。
俺も理素も帰宅部になりたかったのだが、会長に必死の形相で土下座されて入らざるを得なかった。会員はその三人だけ。
旧校舎は耐震補強工事されていて、音楽室や美術室などの特別教室があり、運動部や文化部の部室も入っている。
弱小同好会である歴史研究会も部屋をあてがわれている。
会室の居心地は悪くない。
古いソファーが二つあり、愛素さんが持ち込んだ新しい電気ケトルがあり、やはり会長が用意してくれている各種の飲み物やお菓子がある。
古書店員も真っ青になるような黴臭い歴史の本が詰まった本棚もある。かつて歴史部だった時代にたくわえられた蔵書らしい。
会室に愛素さんはいなかった。
俺は熱いコーヒーを淹れた。
理素は甘いココアを飲み、スマホを見始めた。
ふたり並んで大きなソファーに腰掛けてくつろぐ。
ソファーの前には折りたたみ式のテーブルがあって、カップを置くことができる。高さがやや釣り合っていないが、ささいな問題だ。自分の家ではないのだし、文句を言うつもりはない。
理素と一緒にのんびりできる。歴史研究会に入ってよかったと思えるひととき。
「マッコウクジラの立ち寝姿が美しいです」
彼女は鯨の動画を見ているようだ。
「鯨の脳は半分眠って、半分起きるという芸当ができるそうです。半球睡眠と呼ばれています」
「渡り鳥にもできるらしいよ」
「私は眠れるときはぐっすり眠りたいです。夢のない熟睡ほどのしあわせはありません」
理素はよく悪夢を見るそうだ。
俺も鯨動画を見始めたとき、扉がバンと勢いよく開けられた。
「やあやあ会員諸君、こんにちは。今日も元気に歴史研究をしようじゃないか」
俺たちは今鯨の研究をしている。
「こんにちはです、姉さん」
「今朝ぶりだな、妹よ。キーちゃん、鍵はあるかね」
愛素さんが俺に向かって右手の人さし指を突き立てて言う。
「鍵はありませんが、俺ならいます」
俺は自分の胸に人さし指を突き立てて答える。
「よしよし。キーちゃんがいればそれでいいや」
このやりとりは俺と愛素さんのあいさつのようなものだ。
会長は肩にかかった長い金髪をさっと払って、颯爽と歩き、対面のソファーに座った。俺たちの高校の校則はゆるく、髪をどんな色に染めようとお咎めはない。
愛素さんは派手なルックスの人だ。
理素と同じく背は高い。正確に教えてもらったことはないが(いつも隠そうとするのだ)、百七十センチ台の後半であることはまちがいない。妹より少し低い程度。
胸は理素より大きくてボリュームがある。
顔の造形は整っていて、ちゃんと目に光があるので、まごうことなき美人だ。
二年生のアイドルが美舟であるように、三年生のマドンナは愛素さん。
「到着が少し遅かったですね」
愛素さんはたいてい俺と理素より先に会室にいる。俺たちが着くとすぐにあいさつして、「何を飲むかね?」と訊いてくれる。そして淹れてくれる。親切な先輩なのだ。
彼女は日本茶を愛している。俺は急須に茶葉を入れ、お湯を注いだ。
「バスケットボール部がアタシに助っ人を頼んできてね。ことわるのに難儀した」
愛素さんは成績優秀で、妹とちがって運動も得意なので、完璧超人に近い。
「嫌だよ試合に出るなんておしっこちびっちゃうじゃないか決めるべきときにゴールに決められなかったらどうするんだあああああ怖い怖い怖い試合なんて絶対ヤダ」
だが、突如としてネガティブモードに入る癖があるのだ。このとき目から光は消える。
今もソファーの上でダンゴムシのように丸まって、両手で頭を抱えてぶつぶつぶつぶつと何事かを唱えつづけている。
その姿を初めて見る人はぎょっとするようだ。
「姉さん……」
理素はあきれ果てている。
愛素さんはメンタル面が弱点で、完璧ではない。
「きみたちは試合は好きかい?」
想像しただけで怖くなるらしく、目に涙がにじんでいる。
俺は首を横に振り、「競うのは好きじゃないです」と理素は言う。
「そうだろう何を好き好んでボール遊びなんかで争わなくてはならないんだしかもうちの女子バスケ部は強豪で注目されているんだよアタシなんかお呼びじゃないだろうなんで頼んでくるんだよおおお」
一度発動したネガティブモードはしばらくつづく。
俺は愛素さんの前にぬるめのお茶を置いた。
「あああああ嫌だ嫌だ嫌だ。はー、はー、はー」
彼女は荒い息をしていたが、ぬるいお茶を飲んで、少し落ち着いてきた。
次にやや熱めのお茶を出した。
「ふうむ……」
そして最後にかなり熱いお茶を淹れた。
「こ、これは三成の三献茶じゃないか。ありがとう」
石田三成が豊臣秀吉に仕えるようになったエピソード。
喉の乾いていた秀吉に最初にぬるいお茶を提供し、それからしだいに熱いお茶に変えていった。
「ご満足いただけましたか、愛素さん」
「きみは最高だよ、キーちゃん」