ASI
昼休み、俺は理素とともに屋上へ行き、ふたりだけで昼食を取る。
屋上は緑色の転落防止フェンスで囲われている。隅にエアコンの室外機が何台か並んでいて、塔屋の上には貯水タンクがある。
俺たちの他にも、ひとりやふたりきりになりたい生徒がいることがある。
俺はたいていコンビニで買ったおにぎりとかパンとかを食べる。
理素は手づくりのお弁当。
俺を憐れんで、おかずを恵んでくれる。
こんなことをしていると、理素をますます孤立させ、俺も新たな友達ができにくいのだが、しょうがない。
中学のとき教室で食べようと言ったら、震える手で箸を運び、苦しそうに嚥下していた。翌日はひとりで屋上へ行った。気になって見に行くと、さめざめと泣きながら食べていた。
俺は今日、鮭と梅干しのおにぎりとコロッケパンを買った。
理素が卵焼きをくれる。
彼女のおとうさんがつくったもので、甘くてたいへん美味しい。
食事しながら、俺たちは会話する。
「昨日から義妹さんと一緒に住んでるんですよね?」
「うん。義母も越してきた。四人暮らしだよ」
「あの美しくて有名な明日葉美舟さんですよね?」
「今は白根井美舟だけど、そのとおりだよ」
理素はしばらく沈黙し、目に少しばかりの迷いを漂わせて言った。
「す……好きになっちゃったりしませんか?」
彼女は息を止めて俺の返事を待っている。
俺はゆっくりとかぶりを振る。
「ならないよ。高嶺の花すぎてそういうふうには見れない」
「高嶺の花って……明らかに手が届くところにいるじゃないですか」
「物理的な距離は近くなったかもしれない。でも所属してるカーストは遠いままだよ。あっちは学園のアイドル的存在で、こっちは友達の少ない凡人だ」
「すみません。鍵くんに友達が少ないのは、私とつるんでいるせいですよね」
「気にしないで。理素と一緒にいる時間を、俺は大切に思ってるよ」
心の底からそう思っている。
理素は命を賭けて俺を守ってくれたことがある。
たくさんの友達をつくるより、彼女と過ごすことの方が重要だ。
理素が微々笑する。唐揚げをくれる。
きみのおかずがなくなってしまうとことわっても、彼女は箸を下ろさない。結局ありがたくいただくことになる。
「授業中に考えたんです。何者が『サービス終了のお知らせ』を世界中にばら撒いたのか」
「授業中に考えたの? だめじゃん」
「ASIの仕業じゃないかと思うんです」
「ASIって、人工超知能だよね? そんなもの存在するの?」
「Artificial Super Intelligence」
理素は流暢に発音した。彼女はあらゆる科目で抜群の成績を残している。そんなにガリ勉しているようすはないのだが、高一の定期試験では毎回トップだった。地頭がいいのだ。
体育の実技だけが不得意。
「ASIがすでに実在し、ネットを秘かにコントロールしているとすれば、起こり得る現象です」
シンギュラリティという概念がある。
アメリカの未来学者、レイ・カーツワイルが提唱した。
人工知能が人間の知能を大幅に凌駕したとき、人間の制御を離れてAIが新世代のAIを開発し、爆発的に進歩して、人類には何が起こっているのかわからない世界が到来する。
そのときネットを支配しているのは、ASIだ。
「ネットを支配する者は、リアルもまた支配します。現代社会はネットに全面的に依存していますから」
「シンギュラリティが来たとは、まだ聞いたことがないけれど」
「私だってないですよ。でもAI研究は日進月歩というより、時進日歩で進んでいます。科学の最先端で、あるいはどこかで思いがけず、ASIが生まれたのかもしれません」
「一度人工超知能が生まれると、人間の制御を逃れて跳梁跋扈し、世界を意のままにする……」
俺と理素はごくりと喉を鳴らし、顔を見合わせた。
「ヒャッハー、俺たちは新時代を生きている!」
「どどどどうしましょう。心躍ります。う、ふ、ふ、ふ、ふ」
俺は高笑いし、理素はうっそりと笑った。
直後、我に返った。
「そんなはずあるかあっ」
「そうですよね。荒唐無稽です。先走りすぎました。まだAGIだって生まれてないはずです」
AGIは人工汎用知能。人間レベルの知能を持ったAIのこと。
「授業中にくだらないことを考えてたらだめじゃないか、ミジンコ少女」
俺がいじると、理素はきゅっと黙り込んだ。
自分で自分のことをミジンコ女子と呼ぶのはいい。しかし他人から言われると、繊細な感受性が悲鳴をあげるらしい。
「ごめん」
俺は頭を深く下げた。
少しの間、会話が途切れた。
俺はASI実在仮説について考える。
カーツワイルは2045年頃にシンギュラリティが到来すると予想した。
今すでに技術的特異点が来ているとしたら?
人工超知能が人間にばれないように電脳空間に隠れて、人類を支配する作戦を進行させ、宣戦布告として「サービス終了のお知らせ」というメッセージを点灯させたのだとしたら?
「私、朝、感じ悪かったですよね……」
理素がつぶやいた。彼女もASIのことを考えているのかと思っていたが、ちがったようだ。
「せっかく宮田くんが話しかけてくれたのに」
宮田くんというのは、今朝理素に話しかけてきた男子生徒。
「きちんと相手の目を見て、あいさつを返さないといけないのに。話しかけられたら、返事しなきゃいけないのに。あたりまえのことができない。私、幼稚園児未満です」
理素が人間関係面でまともなことを言っている。
「あの男子と仲よくなりたいのなら、全力で応援するぞ」
「そういうんじゃないです。むっかー」
非常に珍しいことに、理素が感情をあらわにした。むっかーなんて擬態語を聞いたのは初めてだ。
「ごめんごめん。普通に人間関係を築けるようになりたいんだよね。わかってる」
「本当にわかってますか」
「わかってるよ。でも宮田くんはかっこいいよね」
「むかむっかー。わざと言ってますね。じゃあ全力で応援してください。何をしてくれるんですか?」
「えーっと……よく撮れてる理素の写真を彼に見せる」
「絶対にやめてくださいね。鍵くん嫌い!」
やさしい彼女を完全に怒らせてしまった。
反省しなければならない。
「話は元に戻るんですけど」
理素は肺の空気をすべて吐き出すようなため息をついてから、会話を再開させてくれた。
「サービス終了のお知らせを表示させたのは、なんらかの全知全能的存在であると思います」
俺は唖然とする。
「全知全能……神?」
「神ということばに象徴される何かと言ってもいいでしょうね」
理素はまた無表情になっている。俺でもそこから感情を読み取ることがまったくできない完璧な無表情。
「仮に鍵くんがインターネットを終わらせる力を持っていたとしたら、終わらせますか?」
「は?」
義妹は困ると言っていた。
「何それ? 壮大すぎて即答できないよ」
「できませんか」
理素はスマホを手に取り、電源を切った。
「私、ネットなんていらないと思うんです。こんなもの、役に立ちません。世界をぐちゃぐちゃにするだけです」