暗い目の幼馴染
高校の最寄り駅で下車して、美舟と話しながら歩く。
義妹は目を輝かせて、駅前に新しくできたパン屋さんを指さした。
「あそこのクリームパン、異様に美味しいの。すごく上品な生クリームを使ってて」
「異様に?」
「でもかなり高いのよ~。なかなか買えない。相当な勇気が必要なの」
「俺買って帰ろうかな。家族四人分」
「キーくん、無理しなくていい」
「無理はしないよ。お金はおとうさんからもらう」
ならいっか、と美舟が笑う。
笑顔の彼女は信じられないほど可愛くて、こんな子と並んで歩いていいのかなと思うほどだ。
ありふれたデザインの濃紺ブレザーの制服も、彼女が着るとおしゃれに見える。
学校に近づくと、道に同じ高校の生徒が増えてきて、予想どおり視線を感じるようになる。
なにしろ俺の隣にいるのは、校内トップクラス、ぴっかぴかの美少女なのだ。
平凡な容姿の俺は、気後れしてしまう。
「なんであんなやつが明日葉さんの隣にいるんだ」というような嫉妬混じりの声が聞こえてくる。
ただ単に義兄妹の関係になっただけですよ、と俺は心の中でつぶやく。
でもそれを言ったら、ますます羨ましがられてしまうだろう。
同じ屋根の下で暮らしていると知ったら、怒り狂う男子生徒だっているかもしれない。
美舟は声のした方に鋭い目を向ける。
「わたしはもう明日葉じゃないよ。それは旧姓。今は白根井なの」
さっきまでの朗らかさとは打って変わって、冷たく抑揚のない声で彼女は言い放つ。そこには静かな怒りすら感じられた。
「わたしの義兄をあんなやつなんて言わないでほしいなあ」
声を張りあげているわけではないのだが、周囲は美舟に注目している。彼女のことばは鶴の一声という感じで、全員を一瞬で黙らせた。
俺たちを怪訝そうに見ていた生徒たちは、慌てて視線をそらし、校門へ向かって歩いていった。
俺の義妹、綺麗なだけじゃなくて強いんだな……。
校舎三階の廊下で美舟と別れ、俺は自分の教室に入る。
座席は、窓際の後ろからふたつ目。校庭を見下ろせる好位置だ。
一番後ろに座るとても背の高い女子生徒と目が合う。
身長百八十一センチ。
今年の身体測定後、「また背が伸びてしまいました」と暗い目をして嘆いていた。
暗い目なのはそのときだけではなくて、常に暗い。目に光というものがない女、空原理素。
幼馴染だ。
顔は悪くない。むしろ目鼻立ちは整っているのに、その目のせいで、美人感がまるでない。
癖のない黒髪を腰のあたりまで伸ばしている。
「鍵をください」
理素が言って、おずおずと左手の小指を突き出す。
「鍵はないけど、俺ならあげるよ」
俺は答えて小指を出し、指と指を絡ませる。
そうすると、暗い目暗い顔の理素がほんの微かに笑う。
それは微笑というにはほど遠いもので、たぶん俺にしかわからない笑みなのだが、確かに彼女は笑っているのだ。
その微々笑のために、俺はこの変わったあいさつに応じている。
気恥ずかしくはあるが、一度応じなかったとき、理素が途轍もなく落ち込んだことがあるので、やらないわけにはいかない。
このやりとりは、事件のあった日からずっとつづいている。
「『サービス終了のお知らせ』のこと、知ってる?」
「知ってます」
理素は同い歳でつきあいが長い俺にも敬語を使う。誰にでも敬語で話すのだ。
それは小動物的な繊細さを持った彼女の処世術なのだろう。
丁寧なことばの鎧で、壊れやすい心をあらかじめ守っている。
「どう思う?」
「アメリカの超巨大情報企業の陰謀です」
「その情報の出どころは?」
「SVR」
SVRはロシアの情報機関だ。理素はCIA、MI6、中国サイバー軍、モサドなどともつながりを持っている。
というのはジョークで、彼女は暗い目で表情ひとつ変えずにぼそぼそとそんなことを言う。
面白い女の子なのだが、慣れないとちょっとわかりにくい。
「冗談抜きでどう思う?」
「なんにもわかるわけないじゃないですか。私は一介のミジンコ女子ですよ」
「ミジンコというには背が高すぎるけどね」
理素は黙り込む。極めて繊細な女子を傷つけてしまったようだ。
「ごめん」
「許します。ていうか鍵くんを許さないと、私の友達はひとりもいなくなってしまいます」
彼女は俺の名前を漢字で聞こえるように呼ぶ。そういう人は珍しい。
友達は本当に俺しかいないようだが、その原因は理素自身にあると思う。
自分では気づいていないのかもしれないが、常に緊張しているのが見え見えで、話しかけづらい。
あまりにも繊細すぎて、無意識に見えない壁をつくり、クラスメイトを遠ざけている。
でもよく見ると綺麗な顔で、話もちゃんと聞くと面白いのだ。
心を開けさえすれば、友達はおろか彼氏をつくることだってできるだろう。
そんな彼女の魅力に気づいているクラスメイトも少しはいるようだ。
ちらちらとこちらを見ている男子がいる。彼の目は俺ではなく、はっきりと理素に向けられている。
話しかけてみたら?
邪魔はしない。
ただし手助けもしないけどね。
俺は理素のただひとりの友達が俺であることに、秘かな優越感を抱いている。
家族以外では、俺だけが彼女の素晴らしさをきちんと理解している。
その状況が嬉しい。
それはどうしようもなく湧き出てしまう気持ちで、止められない。
もちろん彼女自身が積極的に俺以外の人とかかわろうとするのなら、そのときは絶対的に応援しようと思っている。
理素の意志を最大限に尊重したい。その日が来たら、俺の優越感なんてゴミ箱に捨てるつもり。
「おはよう」
なんということだろう。
理素を見ていた男子が立ちあがり、彼女の目を見てあいさつしてきた。
幼馴染はきゅっと硬直し、それからこわばった動きで俺の陰に隠れ、「おはようございます……」と小さな声で答えた。
理素は極端な人見知りで、俺以外の同級生と話す機会なんてめったにない。
俺は胸の内で叫んだ。
理素しっかりしろ。クラスメイトと普通に話せるようになるんだ。
「空原さんと白根井くん、仲がいいんだね」
「あ、はい……」
理素のことばは短くて、弱々しすぎる。
俺が間に入ってしゃべった方がいいのだろうか。
だけど、彼は明らかに彼女と話したがっている。
「邪魔してしまったかな」
彼は小首を傾げて、理素の返事を待っている。
彼女は返答せず、俺の顔を見たり、机に視線を落としたりしている。
間が持たない。俺は介入することにした。
「邪魔なんかじゃないよ。一緒に話そう」
「いや、もうすぐ先生が来るからいいや」
男子は首を横に振って、席に戻ってしまった。
俺とは話したくなかったようだ。
俺はまた理素に話しかける。
「一時間目は物理だっけ?」
「そうです」
「むずかしいよね」
「むずかしいけれど、興味深い教科です」
彼女はほんのわずか表情を変えた。ほっとしている。その表情変化はおそらく俺にしかわからない。