鍵を探す鍵
店内は強烈なスパイスの香りで満ちていた。
俺たちの嗅覚はまだ健在だ。刺激的な匂いに鼻孔のセンサーが反応する。
美味しそうなカレーを想像させる複雑で芳醇な匂いだが、残念ながら味覚はすでにない。
「いらっしゃいませ」
カウンターチェアに所在なさげに座っていた黒髪ポニーテールの麗しい大人の女性が、俺に顔を向けた。
「こんな日にお客さんが来るとは思わなかった……」と彼女はつぶやいた。
店内にはカウンター席とテーブル席があり、見たところ店員はひとりだけのようだ。フユの面影がある。この人が冬里サトリさんだろう。
「お好きな席にどうぞ」と言われたので、俺と理素は入口に近いテーブル席に向かい合わせに座った。
さて、なんとかして洋館に入る許可をもらわなければならない。
サトリさんがお水を持ってきてくれたとき、「美味しい紅茶とカレーがあると聞いて来ました」と俺は言った。それ以外になんて言ったらいいのかわからなかった。初対面でいきなり洋館の話を切り出すことはできない。
「たぶん美味しいと思いますが、今朝味見しても、何もわからなかったです」
「店の中の香りはとてもいいですね」
「わかります?」
サトリさんはうれしそうに笑った。
「カレーが好きなんです。インドに三年間滞在して、理想の味と香りを追い求め、スパイス調合の研究を繰り返しました。今日は最高と信じるレシピで、理想のチキンカレーをつくりました。人生最後のカレーライスです」
「もうつくらないんですか?」
「信じたくないですが、私は味がわからなくなってしまいました。あなたがたも同じなんでしょう? どういうわけかよくわからないけれど、とにかく味覚サービスは終了してしまいました。世界中の人が味覚をなくして、それでもカレーをつくる意味はあるでしょうか?」
ないだろうなと思ったが、そう答えるのは残酷な気がして、黙っていた。
くっきりした木目の壁に掛けられた黒板に、「本日のカレー チキン」と白いチョークで書いてあった。
「チキンカレーをください」と俺は言う。
「セットにすると、紅茶とアイスクリームがつきますが、どうします?」
サトリさんが言う。
理素を見ると、彼女はうなずいた。
「それをふたつお願いします」
「承知しました。本日のカレーセットおふたり分ですね。紅茶とデザートは食後でよろしいですか?」
「はい」
「辛さはどうなさいますか? 甘口、中辛、辛口、激辛、痛辛の五種類からお選びください」
痛辛なんて選ぶ人はいるのだろうか。
「辛口で」と俺は言う。
理素は蚊の鳴くような声で、「甘口をお願いします……」と言った。
チキンカレーは香ばしかった。
百点満点の香りで、本格的なスパイスカレーのようだが、残念ながら味はまったくわからなかった。
辛みが舌をぴりぴりと痺れさせた。唐辛子の刺激を感知するのは味覚ではなく、痛覚なのだろう。
カレーライスの熱と食感も感じることができた。チキンは柔らかかった。
だが、旨味や塩味はまったくわからない。
砂を噛んでいるよりマシだが、美味しいはずなのに味を感じられなくて、物足りなさが半端ない。
全部食べるのは苦役でしかなかったが、サトリさんがつくった人生最後のカレーを残すわけにはいかない。俺は耐えた。
理素は虚無を見るような目をしながら、機械的にスプーンを動かし、カレーを完食した。
サトリさんがカレー皿を下げ、紅茶とアイスクリームをトレーに載せて運んできた。
これも本当は美味しいんだろうなあ。残念だ……。
店主は空になったトレーを持ち、俺と理素をじっと見た。首を少し横に傾ける。
「あなたたち、白根井鍵くんと空原理素さんではないですか?」
「俺たちを知ってるんですか?」
「知ってますよ。ふたりとも有名人だもの。動画を見たわ」
「俺たちの幼い頃の動画」
「ええ。ネットで成長した姿も見られましたよ」
「それは盗撮ですよ。『爪をはがされた子たちの今』『あの子たちは生きていた』とかなんとかタイトルをつけて、ネットにアップするんです。肖像権の侵害ですよ」
「お気の毒ね」
サトリさんの表情がどことなく険しくなっている。
「ねえ、あなたたちは私の素性を知ってるんでしょう?」
「冬里サトリさんですよね。フユさんの妹」
彼女の顔にはっきりと警戒が表れた。
「単なる偶然で、世界が終わりかけている日に、被害者が誘拐犯の妹の店にふらりと入ってくるはずはない。何が狙いなの?」
俺は紅茶の香りを嗅いだ。
心を鎮めて、サトリさんの目を見る。
「俺たちは、もう一度洋館に入りたいんです。許可をいただけませんか?」
単刀直入に頼んだ。
サトリさんは怪訝そうに俺を見つめる。
「何のために? あそこはほとんど手入れしてなくて、廃墟同然になってるわよ」
「あの日、なくした物があるんです。どうしても見つけたくて、探させてもらいたいんです。お願いします。洋館に入る許可をください」
俺は頭を下げた。
「ふーん……」
端正な容貌の女性は、首を傾げながら俺と理素の顔を舐めるように見た。
「もう何もかもどうだっていいんだけどさあ。それにしても、舌が利かなくなったのは嫌だったわ。あなたたち、料理人にとって、味覚を失うのがどれだけショックかわかるかなあ?」
わかると安易に答えることはできなかった。
「わからないです。でも俺も何もかもどうだっていいと思っています。鍵を探すことさえできれば、心残りはありません」
俺の最後の望みは、理素の望みを叶えることだ。
サトリさんはまだ険しい表情のまま、俺たちを睨んでいる。
「サービス終了のお知らせって何なのよ。宇宙2.0が終わるってどういうことなの。あなたたちにわかる?」
どうしよう。俺と理素は仮説を持っているが、それをこの人に話していいかどうかわからない。
VR宇宙仮説を伝えたら、美舟は不機嫌になってしまった。
理素を見ると、彼女は話してみてと言うように俺を見つめ返した。
「この世界はシミュレーションゲームなんです」と俺は言った。
「は? 何それ?」
「俺の死んだ母はVRゲームの研究者でした。母が言っていたんです。俺たちはよくできたシミュレーションゲームの中で生きているノンプレイヤーキャラクターです。自分のことを現実世界で生きている人間だと思っているバーチャルヒューマンです。自覚はなかったけれど、実はそうでした。だから味覚の消失なんていう奇妙な現象が起こったんです」
サトリさんは俺の話を聞いて、まばたきした。
俺は紅茶を飲んだ。熱を感じただけで、味はない。
理素は儀礼的にアイスクリームを口に入れた。
「俺たちはそう信じています。証拠はありませんが」
「私たちは生身の人間ではなく、ゲームのNPCだった。そう言っているの?」
「そういうことです。そしてこのゲームはまもなく終わります。そのとき俺たちはきっと消えてしまうでしょう」
サトリさんの表情が歪んだ。
しばらくして、彼女の顔にあきらめのようなものが宿った。
「そういうことかあ……。インド哲学でも、この世は幻影だと言っているわ。あなたの言ったこと、私は信じられる」
サトリさんは俺たちの前からしばらく姿を消した。
戻ってきたとき、彼女は銀の鍵を持っていた。
「ごめんなさい。姉が悪いことをしたわね。せめてものおわびのしるしに、これをあげる。洋館の玄関の鍵よ」
サトリさんは鍵を俺に手渡した。
「返さなくていいわ。どうせ宇宙が終わるんだもの」
俺たちは鍵を探す鍵を手に入れた。