宇宙2.0
朝起きてスマホを手に取ると、「サービス終了のお知らせ」ということばが表示されて、すぐ消えた。
昨日とちがうのは、その後「長らくのご愛顧どうもありがとうございました。宇宙2.0はまもなく終わります」という文章がつづいて映し出されたことだった。
宇宙はバージョン2.0だったのか。
そして終わるのか。
おかあさんのことばは当たっていたんだな。
俺はそう思った。
ほとんど驚きはなく、自然に受け止めることができた。
何かの冗談だとは思わなかった。宇宙2.0は本当に終わるのだろう。
終わることへの哀しみとかもなかった。
俺の心が擦り切れているからか、おかあさんのことばが心の奥深くに定着して、信じているからなのかはわからない。
俺には自分の心が正常なのか、壊れているのかもわからないのだ。
まもなくって、どのくらいの時間なんだろう。
宇宙が終了するまでに何をしようかな。
そんなことを考えながら階段を下り、「おはようございます」と俺はあいさつする。
「おはよう。『ございます』はなしにしてほしいって言ったよね?」と義母の貴船さんが言う。
「おはよう。どうしよう、宇宙が終わっちゃう。嫌なんだけど」と義妹の美舟が言う。
「宇宙は終わらないだろ。しかしこの謎表示、誰が何のためにやってるのかな。そのうち宇宙を終わらせたくなければ、消費税を廃止しろとかなんとか言い出すのかな」と父が言う。
「おとうさん、それ、ジョークになってないよ。事件を思い出すからマジでやめてほしい」
「すまん……」
朝ごはんを食べ、支度を済ませて、俺は美舟と一緒に登校する。
「キーくん、落ち着いてるね」
「そう? ふだんと変わらないつもりだけど」
「ふだんと変わらないっておかしくない? 宇宙が終わるかもしれないんだよ。それともお義父さんと同じように、まったく信じてないの?」
「いや、俺は信じてるよ。宇宙が終わるのは、あり得ることだと思う」
「じゃあ、その落ち着きはなんなの? 宇宙が終わるって、人生が終わるのと同義なんだよ。死んじゃうかもしれないんだよ」
「ふつう人は死ぬよね。あたりまえのことだから、特に焦りはないかな」
「まもなく死ぬかもしれないの! ま・も・な・く! ちょっとは焦ってよ、もう」
「困ッタナア。宇宙、終ワラナイデホシイナア」
「棒読みじゃん! わたし、キーくんの心情がまったくわからないんだけど!」
俺には、美舟がなんでそんなに焦っているのかがわからない。
やはり俺の心は壊れているのかもしれない。
「ねえ、別の話題に変えてもいいかな?」
電車の中で、美舟がこそっと言う。
「いいよ」
「ものすごく気になってることがあるの。訊くつもりはなかったんだけど、宇宙が終わるかもしれないから、やっぱり訊いておこうという気になった」
「なんだろう? 話してみてよ」
「キーくんは、空原理素さんとつきあってるの?」
なんだそんなことか。
「つきあってないよ」
「ホントに? 毎朝小指を絡ませあってるのに?」
「よく知ってるね」
「誰でも知ってるよ。『鍵をください』『鍵はないけど、キーならあげるよ』って言ってるよね。このやりとりを知らない人は、うちの学校にはいないよ」
「そんなに知られてたのか」
俺は「宇宙終了のお知らせ」よりよほど驚いた。
「めちゃくちゃ仲がいいんだね?」
「それほどでもないよ。理素に友達がいないだけ。あの子に友達がいたら、今より離れると思う。彼女は俺以外の人とのつきあい方を学ぶべきだ」
「じゃあじゃあ、わたしが空原さんの友達になろうかな?」
「なってもらえるとうれしいかも」
「ホント? じゃあなってみるね」
美舟はにまっと笑った。
電車が高校の最寄り駅に着き、俺たちは降りる。
「鍵をください」
教室に入り、理素と目が合って、あいさつされた。
「鍵はないけど、俺ならあげるよ」
あいさつを返して、俺たちは小指を絡ませる。
彼女は暗い目のまま微々笑する。
「宇宙が終わるらしいね」
「宇宙は無数に存在する可能性があります。そのうちのひとつがなくなるのは、それほどたいしたことではありません。あるいは宇宙はひとつしかなく、かけがえのない存在が消えるのかもしれません」
淡々とそんな返事をする。やはり彼女は面白い。
「理素はどっちだと思う?」
「宇宙は複数存在すると思います」
「どのくらいあるの?」
「どのくらいでしょうか。かなりたくさんあると思います。そうですね、世界人口くらいあるのではないでしょうか」
「世界人口は八十億を超えているよ」
「そのくらいはあるかと思います。今この瞬間も宇宙の数は増えつづけているのではないでしょうか。宇宙とは、単に仮想現実のことですから」
「理素はおかあさんの信者だったっけ?」
「はい。絵さんのお話は興味深かったです」
俺の実母の名は、白根井絵。
「聡明な方でした。尊敬していました。畏れ多くて話しかけることはほとんどできませんでしたが、あの方と鍵くんの会話は、聞いているだけで楽しかったです」
理素は遠い目をした。暗くて遠い目。
誘拐事件後の彼女は人見知りが激しくなって、俺の母にも懐くことはなかったが、そのことばによく聞き耳を立てていた。
「おはよう」
そのとき、宮田くんがまた理素に話しかけてきた。
「お、おはようございます」
理素はどもりながらも、彼の目を見てあいさつした。俺の陰に隠れようともしていない。
「空原さんって、ユニークな考え方をするんだね」
「そうでしょうか」
「そうだよ。宇宙が仮想現実だなんてあり得ないだろ」
理素は黙り込んでしまった。頭から否定されて、かなり傷ついている。
そのことに気づかず、宮田くんは「ネットでいたずらしてるやつは、懲らしめてやらなきゃだめだよな。空原さんもそう思うだろ?」とことばをつづけた。
理素は黙りつづけた。
「ちぇっ、つまんね……」
彼は席に戻った。
理素は一瞬、宮田くんと仲よくなろうとした。
彼女はかなり意志の力を振り絞って、彼にあいさつを返した。
そのことが俺にはよくわかった。
だが、もう理素が彼に歩み寄ることはないだろう。
彼女は森の中の臆病で小さな動物のように、度を越して繊細なのだ。
仲よくなるチャンスはめったにない。
美舟は果たして、理素の友達になれるだろうか。