第10話「映画と距離と、知らなかった一面」
第10話「映画と距離と、知らなかった一面」
夜7時。渋谷の映画館。
人通りは多いけど、なぜか“ふたりの世界”だけ、ゆっくりと時間が流れていた。
「夜に会うの、なんか不思議ですね」
「ほんとに。昼間のパスタ屋とは、別世界って感じ」
「……今日、誘ってくれてありがとう」
「こちらこそ。観たかったんです、この映画」
ふたりで観るのは、話題の恋愛映画だった。
ポスターには《これは、大人になれなかったふたりの物語》というコピー。
(あんまり恋愛映画って得意じゃないけど……川嶋くんとなら、大丈夫)
劇場内
席に着いて間もなく、館内が暗くなる。
「……始まるね」
「うん……」
スクリーンの光がふたりの顔を照らす。
距離は近い。でも、触れられない。
少しずつ高まる鼓動と、沈黙が心地よい時間を包んでいく。
(……恋って、こんなに静かなのに、うるさい)
映画終了後・場内
「……よかったですね」
「うん。ちょっと泣きそうになった」
「……途中、泣いてませんでした?」
「そ、そんなこと……!」
立ち上がろうとしたとき──
「あっ、半券落ちたよ」
「あっ、ごめ……」
川嶋くんが屈んで拾おうとしたそのとき──
シャツの襟元から、ネックレスが覗いた。
そこには、細いチェーンと、小さな指輪が通してあった。
「……」
「え?」
彼はすぐ気づいて、慌てて襟元を直した。
「あ、ごめん、見えちゃった?」
「う、うん……それ、指輪……?」
「うん……あの、これ──」
彼が口を開きかけたが、一瞬、迷うような沈黙があった。
「……昔の彼女から、もらったやつ。捨てられなくて」
「……」
「未練とかじゃない。もう終わってるし、連絡もとってない。
ただ……なんていうか、きっかけになった人、っていうか」
(……わかる。でも……)
「なんか……ごめん。気を悪くした?」
「……ううん、そんなことない。
誰にだって、忘れられない人はいるもんね」
笑ったつもりだった。でも、ちょっとだけ、胸が痛かった。
駅前・帰り道
「今日は、ありがとう。ほんとに楽しかった」
「うん、私も」
ふたりの距離は、確かに縮まったはずだった。
でも、どこかに「触れちゃいけない影」があることに、気づいてしまった夜だった。
夜・自室
ノートのページを開いた。
いつもより、ペンが進まない。
【2ndデート】夜の映画/いい雰囲気/隣の時間が静かで、幸せだった
【気づき】ネックレスに指輪。彼にも“過去”がある
【感情】寂しいというより、……少しだけ、こわい
→この先へ踏み出すには、“ちゃんと知る勇気”が必要
そっと、こう書き添えた。
※でも、私にも過去はある。誰かを忘れようとした夜が、何度もあった
第11話「問いかける勇気、黙る彼の横顔 ――前編:ランチタイムのざわめき」
昼休み。会社近くのカフェ。
コーヒーの香りと、パスタランチの湯気に包まれながら、私はためらいがちに口を開いた。
「……ねえ、亜紀」
「ん?」
「もしさ、デート中にさ──男の人のネックレスから、指輪が見えたら、どう思う?」
「……え? リアルにあったの?」
私は無言でうなずいた。亜紀の手がピタッと止まる。
「え、マジで? どんな感じの? リング、ちゃんとついてたの?」
「うん。小さくて細いやつ。ネックレスのチェーンに通してて、しかも、隠すみたいにシャツの下に……」
「うわ、それ……」
亜紀は眉をひそめ、ストローをくわえたまま数秒フリーズした。
「……もしかしてだけど、結婚指輪じゃない?」
「……え?」
「元カノどころか、元・奥さんだったとか。ありえるよ?」
「でも……そんな話、一度も出てないし」
「出てないからこそ、じゃない? たとえば、離婚してるとか、別居中とか、言いにくいことって、最初は言えなかったりするし」
「……」
「ねえ、美里。正直、今のあんた、すっごく浮かれてたじゃん。久しぶりの恋だし、嬉しいのはわかるよ。でもね」
亜紀は、まっすぐ私の目を見た。
「そういう“大事なこと”から目をそらすと、絶対あとで傷つくよ」
「……うん、わかってる。わかってるけど……」
「怖い?」
「うん」
「……だったら、ちゃんと聞くべき。怖くても」
私は、ストローをくるくる回しながら、小さくつぶやいた。
「……まだ、その人のこと、好きなんだと思う?」
亜紀はため息をついて、コーヒーをひとくち飲んだあと、言った。
「それは──本人にしか、わかんないよ」
夜・自室
婚活ノートに今日の出来事を書く。
【相談】亜紀に指輪の話をした
【意見】「もしかしたら元奥さん」「ちゃんと聞くべき」
【心情】怖い。でも聞かなきゃ、この先に進めない
【決意】次に会ったら、ちゃんと聞く。「まだ、好きなの?」って
書いた文字の下に、ふと、追記する。
※「ちゃんと聞ける自分」になりたい。傷ついても、逃げないでいたい
第11話「問いかける勇気、黙る彼の横顔 ――後編」
夕方、会社帰りの公園。
ベンチの上には、紙コップのカフェラテがふたつ。
仕事終わりの空気は少し肌寒くて、だけど彼の隣は、あたたかかった。
「静かですね」
「うん。こういう時間、好きかも」
川嶋くんが、ふっと空を見上げながら言った。
私はずっと、言うタイミングを探してた。
そして──
「……あのさ」
「ん?」
「こないだ、映画のとき……ネックレスに、指輪、ついてたよね」
彼の表情が、すっと動きを止めた。
「……ああ、うん」
「もしかして……それ、元カノの?」
「……うん。そう。……元、婚約者だった人の」
「……婚約者」
「籍は入れてなかった。でも、結婚寸前までいった。いろいろあって……別れたけど」
風が、ふたりの間を吹き抜けた。
少しだけ、紙コップのコーヒーが揺れた。
「聞いても、いい? ……まだ、その人のこと、好き?」
川嶋くんは、しばらく何も言わなかった。
その横顔は、すごく静かで、でもどこか脆くて。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「……“ちょっとは、まだ好きかも”って、思うときは……ある」
心臓が、ぎゅっとなった。
「でもそれって、たぶん……“思い出に縛られてる”っていうだけで、もう戻りたいとかじゃないんだ。
あの頃の自分とか、あの時間に……未練があるのかもしれない」
「……うん」
「でも、作倉さんといるときは、そのこと、あんまり思い出さない。
“今”の話がしたくなるし、笑えるし、次のこと考えられる」
「……ほんと?」
「うん。本気でそう思ってる。
だから、ちゃんと整理する。もう、“引きずってる”って思われたくないから」
私は小さくうなずいた。
「……ありがとう。言ってくれて」
「こっちこそ、ちゃんと話せてよかった。……怖かったけどね」
「私も。怖かった。……でも、聞いてよかった」
しばらく無言で、風の音だけを聞いていた。
そのあと、彼がポケットから小さな箱を取り出した。
中には──あの指輪が入っていた。
「これ、処分してくる。……“過去”は、もう、ポケットの中じゃなくていい気がした」
その姿を見て、私の胸の奥で、何かがふっとほどけた。
夜・自室
【記録】
川嶋くん:「ちょっとは、まだ好きかも」→正直な気持ち
私:「聞けてよかった」→それでも、信じてみたい
→“過去がある”からこそ、大事にできる“今”があるのかもしれない
ページの下に、そっと書いた。
第12話「“まだ好きかも”って、どういう意味ですか?」
夜、部屋のライトを消したあとも、私はずっと天井を見ていた。
「……“ちょっとは、まだ好きかも”」
川嶋くんの言葉が、何度も頭の中でループする。
(ねえ、それって……何?)
翌日・昼休み/会社の休憩スペース
「ねえ亜紀、“ちょっとはまだ好きかも”ってさ……それって、“脈ナシ”ってこと?」
「……でたな、美里節。いやいや、ちょっと落ち着いて。なに、また続報?」
私は深くうなずいて、全部話した。
指輪のこと。婚約していたこと。そして、
──「でも、作倉さんといるときは、その人のこと、あんまり思い出さない」って言ってくれたことも。
「……なるほどねぇ」
亜紀はサラダのフォークを止めて、真剣な顔で言った。
「それ、“めちゃくちゃ迷ってる”ってことだよ、美里」
「迷ってる?」
「うん。完全に吹っ切れてるなら、ネックレスに指輪なんか付けてないし、
“ちょっとは好きかも”なんて表現、逆に出てこないでしょ」
「……そっか。でも」
「でも?」
「私さ、“好き”って気持ちの“基準”が、わからないの。
一回も恋愛してこなかったから、“どのくらい好きか”って言われても、それが重いのか軽いのかもわからない」
亜紀はふっと笑った。
「うん、それはたしかに……わかる」
「でもさ、恋愛経験ゼロの私にとって、“まだ好きかも”って、めちゃくちゃデカい爆弾なんだよ。
“じゃあ私は何なの?”ってなるし、“またその人に戻るかも”って不安になる」
「それ、ぜんぶ相手に聞けばいいじゃん」
「……怖いよ」
「うん、わかる。でもね──
“好き”って言われたいなら、“自分もちゃんと踏み込む”覚悟ないと。
“受け身のまま安心したい”っていうのは、恋じゃなくて幻想だよ」
(……刺さる……けど、たしかに)
夜・自室/婚活ノート
【心の声】
“まだ好きかも”って言葉は、嘘じゃない。だけど、私には重たい。
過去に気持ちが残っていることと、今私を見てくれていること──
それって、両立するの?
【亜紀の言葉】
「好きって言われたいなら、覚悟を持って踏み込め」
【今の私】
正直、まだそこまでの覚悟はない。でも、怖くても、ちゃんとこの人を“知って”から判断したい。
ページのすみに、こう書いた。
たとえ答えが出なくても、“逃げない”って決めた恋は、いつか自分を助けてくれる。