「恋愛って、どこで売ってますか?」
第1話「恋愛って、どこで売ってますか?」
「……はい、お疲れさまでしたー! 失礼しまーす!」
パタパタとオフィスから人がいなくなっていく午後6時過ぎ。
それを見届けながら、私は溜息をひとつ。
「……はあ。今日も定時で帰る勇気が出なかった……」
周囲に人の気配がなくなったのを確認して、私はこっそり、自分のデスクの引き出しを開けた。
中にはミニ羊羹と小さなココア、そして……“婚活ノート”。──婚活ノート。それは私、作倉美里(30)独身・彼氏いない歴=年齢が、地道に人生を変えようと作った、極秘のノートである。
(第一章:いい感じの人を見つけよう!)
(第二章:笑顔は武器!)
(第三章:言い訳しない勇気を持つ!)
──ページをめくるたびに、過去の自分が痛い。けど、捨てられない。
「……ていうか、そもそも“いい感じの人”って、どこにいるのよ……」
誰に向けてるでもないぼやきが、オフィスに虚しく響いた。
翌朝・出勤途中
電車の中。満員すぎて、自分の両肩にリュックがめり込む。
「いったたた……あっ、ごめんなさい」
「いえ、大丈夫ですよ」
低くて優しい声が、耳に入った。
(……え? 今の誰?)
目を上げると、目の前にいたのは──黒縁メガネにスーツ姿の、ちょっとだけ猫背な男性。
「あっ……」
目が合った瞬間、彼が軽く会釈した。
(え、なにこの人……やさしい……!)
心の中で何かが“カシャッ”と音を立てた気がした。
オフィス・お昼休憩
「ねえ美里、最近なんかあった?」
「えっ、な、なにが?」
「今日ちょっと……顔が、柔らかい」
「それはたぶん……あれ。電車で転びかけて、支えてもらったから……」
「なにそれ、きゅんイベントじゃん!」
「いやいやいや、違うって!」
「……で、名前は? 連絡先は?」
「ないよっ!! 名乗ってもないよ!!」
「……でた、“通りすがりの王子様”現象」
私の同期・亜紀は、冷静にジャッジしてくる。
「でもさあ、いつも言ってるじゃん。美里は“出会いをスルーしてる”って」
「してないし。あれはスルーじゃなくて、通り風みたいなもんで……」
「通り風でも、袖ぐらい引っかけないと、春は来ないよ?」
(……袖、か……)
夜、ベッドの上。
ぼんやりと天井を見上げながら、私はそっと、スマホのメモに書き足した。
【婚活ノート・新項目】
■電車の彼:黒縁メガネ・やさしい声・猫背?
→また会える可能性:限りなく低い(が、祈る)
→もし会えたら、今度は「ありがとう」だけじゃなく、ひとこと会話する。
「……お願い、明日も同じ車両に乗ってくれますように……!」
その夜、私はいつもより少しだけ早めに眠った。
第2話「再会、でも言葉が出ない」
朝。出がけに鏡の前で無意味に3回まわってみた。
「よしっ……今日こそ、しゃべる。ありがとうだけじゃない、“ひとこと”……!」
けど、そんな決意をしてる自分がちょっと痛い気もする。
30歳。彼氏いない歴30年。恋に関しては小学5年生レベル──それが私、作倉美里。
駅のホーム
電車が入ってくる。車両の窓に映った自分が、やけに真剣な顔をしている。
(乗ってるかな……いや、いないかも……でもいたら……)
ドキドキしながらドアが開く──そして。
「……!」
いた。いた!
黒縁メガネの彼。前回と同じ車両、同じ角の手すりに寄りかかって、スマホを見ている。
(うわ、心臓が、変な動き……!)
足が勝手に近づいていく。もうすぐ彼の真横──
「……おっと」
少し揺れて、私の肩が彼の腕にふれた。
「……あ、ごめんなさい!」
「……いえ、また、ですね」
「えっ……?」
「前にも、ぶつかりましたよね」
(しゃべった……彼が、話しかけてくれた!)
「は、はいっ! 前回、あの、電車の中で──あの、そのときも、ごめんなさいっ!」
(ちがうちがう!“ありがとう”を言うんだったでしょ!?)
「いえ……あれ、全然気にしてないです。むしろ、ちゃんと謝ってくれるの、えらいですね」
「えらい……!? いえいえそんなこと……あの……その……」
(しゃべれ!何か言葉を!自己紹介でも!天気の話でも!なんでもいい!)
「…………」
結果:無言。
彼はやさしく笑って、視線をスマホに戻した。
私は……心の中で机に突っ伏した。
(なにやってんの、私……!)
会社・昼休み
「どうだった!?」
ランチタイムのファミレス。私の顔を見るなり、同期の亜紀が身を乗り出す。
「……再会した」
「マジで!? で!? で!?」
「“またですね”って、言ってもらった」
「で!? で!?」
「“えらいですね”って、言われた……」
「で……?」
「…………(それだけだった)」
「おっそ!!!」
「……わかってるよ……」
亜紀はハンバーグにフォークをぶっ刺してため息をついた。
「じゃあさ。次に話しかけられたら、“名前”聞こう」
「な、名前!?」
「出会って、再会して、次も話して、名前も知らないって、さすがに3アウト」
「それって……もう“告白レベル”じゃない?」
「違うよバカ。自己紹介だよ」
(……たしかに。次こそ、“私は作倉美里です”って、言わなきゃ)
夜・自室
婚活ノートを開いて、今日のページに書き足す。
【進捗】再会した。しゃべった。だが、固まった。
【彼の発言】「またですね」「えらいですね」
【次の目標】名前を聞く/名乗る
→“きっかけ”は、こっちから作るべし!
「よし……! 明日こそ、リベンジ……!」
頬に枕を押しつけながら、私は決意した。
電車の中の恋は、まだ、始まったばかり。
電車内・例の車両
──いた。
彼は今日も同じ位置で、スマホを片手に立っていた。
私は意を決して近づき、横に立つ。
ちょっと手が震えてるの、ばれないといいな……
「……あ」
電車が揺れて、少し身体が触れた。
彼がこちらに気づいて、にこっと笑った。
(今!今ならいける!!)
「……あのっ!!」
びくっ、と彼がちょっと驚く。
「え、あ……はい?」
「えっと、その……っ!」
(自己紹介、自己紹介……名前言うだけ!ただの名前!)
「さ、さ、さくら……っぽい顔してる……じゃない、わたしがさくらで……!?」
(!?)
彼の目が一瞬、キョトンとなる。
「えっと、つまり……あなたが“さくら”さんで……?」
「違います違います!!名前が!!作倉!作倉美里です!!」
「……あっ、自己紹介、ですね?」
うわああああ!!!!!
「はいっ!!その!!この間もありがとうございました!!」
「いえ、どういたしまして。……僕、杉本です。杉本悠一」
(すぎもと……!? 名前、ゲットォォォ!!!)
「杉本さん……!」
「はい。……なんか、急に自己紹介されて、ちょっと嬉しかったです」
(え、今の言い方……うれしかった、って……)
心臓が、急にバクバク鳴りだす。
「……また、会えますか?」
「えっ……えっと……電車、同じ時間なら……!」
「よかった。じゃあ、明日もこの車両で」
にこっと笑って、杉本さんは次の駅で降りていった。
昼休み・会社
「うっそ。名前聞けたの? マジで? てか名乗れたの? え、ほんとに? 誰? あなた?」
「う、うるさい……! もう、めっちゃ噛んだし……“さくらっぽい顔”とか言ったし……!」
「それはマジで意味不明すぎるww」
「自分でも意味わからないよ!」
でも、笑われてもいい。あの瞬間、私は自分の足で一歩踏み出したんだ。
夜・自室
婚活ノートに、慎重に書き足す。
【達成】名前を名乗れた/相手の名前:杉本悠一
【失敗】“さくらっぽい顔”など意味不明な発言
【評価】顔から火が出るほど恥ずかしかったが、結果オーライ。
【次の目標】話を続ける。LINE交換……は、まだ早いか?
「……私、ちょっとずつだけど、進んでるよね?」
そう思いながら、ベッドに入った。
スマホのアラームは、“同じ車両”に間に合うための時間に、しっかりセットしてある。
第4話「傘、一本しかないんだけど──」
朝、出がけに見た天気予報は、外れた。
(晴れって言ってたじゃんかぁ……)
会社帰り、改札を出た瞬間にザーッと本格的な雨。
空はもう真っ暗で、駅の屋根の下には人が溜まっている。
「うそでしょ……」
傘、持ってない。
ていうか、今朝は自己紹介の復習でいっぱいいっぱいで、天気予報なんて見てない。
いや、たしか見たけど「曇り時々晴れ」だったよね?ね?
(……はあ。とりあえず、雨宿り……)
そのとき。
「……あれ? 作倉さん?」
──杉本さんだった。
仕事帰りのスーツ姿に、黒い折りたたみ傘。そして、笑顔。
「あっ……杉本さん!」
「すごい雨ですね。傘、持ってない……?」
「はい……まさか、降るとは……」
「……じゃ、入ります?」
「え?」
「一緒に。傘、一本しかないけど。……さすがに放置できないですし」
(き、きたぁぁぁ……!!これが!憧れの“相合い傘”!!)
「お、お願いしますっ!」
駅からの道
「……濡れてませんか?」
「だ、大丈夫です! あの、ちょっと近いですけど、大丈夫です!!」
「いや、傘だからね。これ以上はみ出すと、びしょ濡れですよ」
「そ、そうですよね……あはは……」
(近い! いや、ほんと近い! 横顔きれいすぎるし、肩が触れてるし、無理!!)
「でも、びっくりしました。まさか帰りも同じ駅だなんて」
「はい……わたし、会社近いんです」
「そっか。じゃあ、これからもちょくちょく会いそうですね」
(それ、フラグってことでいいんですか!?)
「えっと……もしまた雨だったら……その……」
「うん?」
「その……また、一緒に……傘、入ってくれますか?」
「もちろん。むしろ、誘ってくれてもいいですよ」
(…………これは死ぬ)
コンビニ前
「ここ、家の近くですか?」
「はい。あ、じゃあ……ここで大丈夫です!」
「そっか。じゃあ、気をつけて」
「……ありがとうございました。ほんとに、助かりました」
「いえ。……それじゃ、また明日」
「はい。……あっ、杉本さん!」
「うん?」
「……風邪、ひかないでくださいね」
そのとき、杉本さんはふっと笑って、小さく言った。
「優しいですね。……じゃあ、僕も言っときます。作倉さんも、風邪ひかないで」
そして、静かに傘をたたみ、帰っていった。
夜・自室
婚活ノート、今日も更新。
【進捗】相合い傘達成(!!)
【会話】自然な流れで“また誘って”と言われた(これは……脈あり!?)
【次の目標】LINE交換。もしくは、次の約束をする
【メモ】雨の日=チャンス
「……なんか、ちゃんと恋してるなぁ、私……」
雨の音が止んだ夜。
傘の下で交わした小さな会話は、心にぽつぽつと温かく染みていた。
第5話「LINE交換、いけるかもしれない日」
最近、朝の支度が早くなった。
髪も丁寧に巻いて、リップの色も少しだけ明るくして、
駅のホームに立つ時間は、毎朝、5分早い。
──彼に会いたいから。
杉本悠一さん。
通勤電車で偶然隣り合ってから、もう何度も会話をして、傘にも入った。
(そろそろ……LINE、聞いてもいいかもしれない)
そんな淡い期待を胸に、私は今日も同じ車両に乗る。
そして──
「おはようございます、作倉さん」
彼のやさしい声が、すぐ隣から聞こえた。
電車内
「今日、雨じゃなくてよかったですね」
「うん。でもちょっと寂しいかも。……また傘、入りたかったな」
「えっ……」
「冗談ですよ」
(冗談って、ほんとに冗談? 本気だったら、困る?)
「……杉本さん、あの、今度よかったら」
「ん?」
「LINE、交換しませんか?」
一瞬、彼の動きが止まった。
「あ……ごめんなさい。ちょっと、それは……」
「……えっ?」
「いや、あの……僕、彼女がいるんです」
──頭が、真っ白になった。
「え……あ、そう、なんですね……!」
「言ってなかったですよね、ごめんなさい。何か勘違いさせちゃってたら……」
「い、いえっ、そんなこと全然! ただの、通勤仲間ですし! はい!」
言葉が、上ずってるのが自分でもわかる。
顔から火が出るってこういう感じなのかもしれない。
「ほんと、すみません。いや、でも……作倉さんって、いい人だなって思ってたから……」
そのフォローが、逆に刺さる。
「ううん、大丈夫です! わたしも、ちょっと調子乗っちゃってただけなんで!」
笑う。精一杯、明るく。だけど目の奥が、にじんでいる気がした。
職場・昼休み
「……で、どうだった?」
「……ふられた」
「えっ、まじで!? ふられるような段階だったの!?」
「いや、LINE交換しようとしたら……彼女いるって」
「うわぁ……」
亜紀は絶句し、箸を止めた。
「……でも、言ってくれてよかった。ずるい人じゃなくて、ちゃんと誠実だったし」
「それはそうだけど……つらくない?」
「つらい。でも、少し……自分のこと、好きになれたよ」
「え?」
「昔の私なら、何も言えないまま、見てるだけだった。でも今回は……ちゃんと、一歩踏み出せたから」
夜・自室
婚活ノートのページを開く。
【進捗】LINE交換→失敗
【理由】彼女がいた(泣)
【学び】「踏み出す」ことに意味があった
【未来】また好きになれる人は、きっと現れる
「……ありがとう、杉本さん」
書きながら、ぽろっと涙がこぼれた。
でも、涙のあとには不思議と、ひとつの決意が残った。