女の戦い <後編>
第8話 女の戦い -Lyrical distortion- <後編>
部活を早退する件については、聡美が話を付けてくれた。
無理を通した、と言う方が正確かもしれない。
「で、今度は一体何をするつもりなの?」
四方を田んぼに囲まれた、真っ直ぐな道を並行して自転車で走りながら尋ねた。
強い日差しに炙られて、肌がほんの少しだけヒリヒリする。
「今からそれを決めるための話し合いに行く」
「話し合うって」
「部室に呼びつけて話し合おうと思ってたんだが、いつの間にかカレーの付け合せに何を入れるかという話になって、なんか雑談に興じる内に帰らせてしまった」
聡美が部室長屋の空き部屋を不法占拠しているのは有名な話で、美凪もそのことは聞き及んでいた。巷間、そこでは不純異性交遊が営まれていると噂されているが、まったくの事実無根であるのは言うまでもない。
「確か美凪君はカレーにはラッキョウだそうだな」
「なんで知ってるのよ」
「来生君に聞いた」
あのバカ兄貴め、余計な事をしてくれる と思う。
日頃から気をつけるように口酸っぱく言っているが、こういう細かいところで間が抜けているから困る。どんなに口で言っても、こればかりはまるで直らないので、もう諦めてしまっているのだが。
「そう言うあんたは何なの」
「カレーにキュウリは常識だろう。異論は認めんぞ、絶対にだ」
呆れる。
「キュウリなんて普通入れないでしょ?」
すると聡美は目を剥いて
「キュウリを冒涜するのか。君は何も分かっておらん。黙って一度試してみろ。カレーの味とキュウリの食感が新世界を開くぞ。ところでキュウリ食うか?」
自転車のかごに鞄と一緒に突っ込まれた白いビニール袋の中からキュウリを一本取り出した。
美凪は黙って首を振った。キュウリは嫌いじゃないが、さすがに切らずに丸かじりは無理がある。あんな水っぽいものを一気に食べたら腹を下しそうだ。
聡美は差し出したキュウリを引っ込めて、自転車をこぎながら、それを丸かじりにした。
つつましさの欠片もなく、ボリボリと音を立てて食っているのを横目で見ながら、本当に心の底から呆れる。
人通りも素っ気もない田んぼ道をひた走り続けているうちに、家屋がぽつぽつと姿を現し始めた。川沿いの道に出ると、犬の散歩やジョギングをする人が2・3人ばかり行き交っていた。以前は初夏の夜になるとホタルが見られたのだが、最近は上流の護岸工事の影響で、その数を年々減らしつつある。
いきなり、聡美が自転車を止めた。
あまりに急だったので、急ブレーキをかけた美凪は転びそうになった。
何があったのかと思って振り返って見ると、聡美はキュウリを口に咥えたまま自転車から降りていた。スタンドを立てて、鍵をかけ、鞄をかごから引っ張り出して、目の前の駄菓子屋へと入っていった。
さる1週間半前に、恭也が美凪にアイスを買った駄菓子屋だった。
店には小学生が3人ほど集まって、当たりつきのお菓子を吟味していた。キュウリを食いながらズカズカと入ってきた聡美に気がついて振り返ったが、すぐにお菓子の選別を再開する。聡美もその横に並んで、陳列されているお菓子を端から端までじっくりと眺めまわし始めた。
一方、美凪は店先の自販機の脇に寄りかかって、聡美が出てくるのを待っている。少し小腹が空いているものの、財布を持っていなかったし、聡美と並んで駄菓子を買おうという気にはなれなかった。
ほどなくして、駄菓子屋から聡美が出てきた。キュウリは食べ終わっている。自転車に乗るかと思ったら、そのまま直進して、店の真向かいの河川敷の坂に腰を下して、棒状のスナック菓子を食べ始めた。
「お兄ちゃんに用があるんじゃなかったの?」
「休憩だ」
「日が暮れちゃうじゃないの」
聡美はそれを無視して菓子を食っている。その様子が癪に障って、その背中を蹴り飛ばしてやりたくなった。早めに用事を済ませたいのか、後回しにしたいのか、お前は一体どっちなんだ。
腹を立てたら、腹が空いた。
聡美の横に、1メートル離れた所に座り、駄菓子の入った袋に手を伸ばして中身を一つ失敬した。聡美はそれを横目でちらりと見たが、気にする様子は無かった。
「ねえ」
お菓子の袋を開けながら尋ねた。
「この前のミステリーサークル作ったの、あんた達でしょ」
「無論だ。他にあんなことする奴がいると思うか?」
「あれを作るときに、ミリアを連れてったって聞いたけど」
実際は聞いてはいない。ミステリーサークルが目撃される前日に、兄とミリアが夜遅くに帰ってきたからだ。二人とも泥だらけで、草木の葉や種をあちこちにくっ付けていたのが気になって、何があったのか尋ねてみたが、兄は適当にはぐらかすばかりで、明快な答えは得られかった。
「いや、あれは任意同行だ」
「そんなのどっちでもいいの。どうしてミリアを連れて行かせたのよ」
「面白そうだったんで、つい」
「つい って」
聡美は2本目の袋を破いて半分くらいを一口でかじり、もごもごと咀嚼しながら
「ミリア君とはどうかね、仲良くやっているか」
「関係ないでしょ」
関係ないな と呟いて、残りを全て口の中に放り込み、ロクに噛みもせずに飲み込んだ。
「確か、語学留学か何かで日本に来たと聞いたが、本人と話してみたところ、流暢に日本語を話せていたな。わざわざ現地に出向いてまで勉強する必要も無いくらい」
「本場で実際に話して、もっと深く勉強するためじゃない? それとも日本の文化を知るためとか」
「なるほど一理ある」
聡美は感情を素直に表に出すタチだ。聡美が明らかに感心するのを見て、そんな些細なことであっても美凪は優越感を禁じ得なかった。それだけ聡美に対する対抗意識が強いのである。
「着替えとかはどうしてる。前に会ったときは服のサイズが合ってないみたいだったが」
「2、3日分ぐらい持って来てるみたい。後は私のお古」
「たった2、3日分か」
「来たときは殆ど手ぶらみたいだったもん」
この2、3日分の着替えは、恭也がミリアのために密かに買ったものなのだが、この事は美凪はもちろん、当人達を除いて誰も知らない。日本に滞在するにもかかわらず、荷物が極端に少ないのは『イギリスでは旅行のときに大荷物を持たず、ほとんどは現地調達』と、恭也が根も葉もない大ホラで誤魔化した。『外国の風習』と言われてしまえば、その真偽を知るような機会はほぼ皆無なド田舎の住民はあっさりと納得してしまうのだった。
「普段家では何をしている?小学校に行っているわけでもなかろう」
「家の手伝いしてる。食器を洗ったり、洗濯物を畳んだり。よくお兄ちゃんと一緒に出かけてるみたい」
兄が家に帰って私服に着替えると、すぐに二人で外へ出かけて行き、辺りが薄暗くなり始めた頃に帰ってくる。どこに行ってきたのか尋ねてみたところ、ミリアに町中を案内してあげていたらしい。せっかくこの町に来たのだから、と思うのは美凪も同感なのだが、泥や葉や種をあちこちに付けて帰ってくることがあったりと、一体どこをほっつき歩いてきたのか疑問に思うこともある。
自分が部活で帰ってくるのが遅い日はどうなのか知らないが、毎日のようにミリアと二人して外出している。
「あと、時々ノートに何か書いてるみたい」
「日記か、レポートか?」
「勉強してるみたい。なんか変な図とか式みたいなのがびっしり書き込まれてた」
「変な図?」
眉を顰めた。
「よく見たわけじゃないけど。なんだろ、ミステリーサークルみたいな感じ」
「こんなのか」
そう言いながら、聡美は以前ミリアに描いてもらったミステリーサークルの図案のコピーを見せた。
「だったと思う。でも、これってあんた達が描いたミステリーサークルの図案でしょ」
「いかにも。とすると何か。ミリア君は自国の文化の学習か何かでミステリーサークルに関するものがあった。で、それを元に自分なりのセンスとアレンジでこれを描いたと」
そんなの知るかと思いながらお菓子に荒っぽく噛り付いた。
「うえ、なにこれ?!」
舌の神経が奇怪な味を捉えると同時に、本能的にそれを吐き出してしまった。一体何の味なのかと思って手に持ったお菓子の袋を確認すると、水色背景に黄文字で『キャラメル味』とあった。キャラメル味は美凪の一番嫌いな味である。こんなものを買ってきた聡美を憎たらしく思ったが、食べる前によく確認しなかった自分が悪い。
とてもじゃないが、こんな物を食べたくないので、既に一口かじられたそれを聡美に押し付けた。聡美は少しだけ嫌そうな顔をしたものの、文句は言わずに受け取り、美凪は口の中に僅かに残る不快な味を消そうと、別の味を求めて袋の中に手を突っ込んだ。
「好き嫌いはいかんぞ、美凪君。そういえば」
「なによ」
「その袋の中身、全部キャラメル味だぞ」
フェリチターレを出た明菜は、これから何処へ行くべきか考えをまとめもせずに、小さなショッピングモールへ向かった。
様々な店のあるショッピングモールなら、次に何処へ行くかを考える手間も省けるだろうと踏んだからであるが、単純にここ位しか他に連れて行くような場所が、この町に無かったからである。正確に言うと、少し足を伸ばせば、国道に根を張って養分を吸い上げて成り立っているような新興商業地区があるのだが、今回は時間的な問題があった。
昼間は大して人通りの多くないこの通りも、夕食の買出しに来た主婦と、学校帰りの学生と、職場から帰って来たサラリーマンやOLで、それなり混んでいる。明菜はミリアがはぐれてしまわないかと気が気でなかったが、ミリアの手を握ってやるきっかけが掴めないまま、振り返りもせずにただただ歩き続けた。
商店街のアーチを抜けた頃、ちゃんとミリアが付いて来ているかが気になって、そっと後ろを振り返ると、ミリアの姿が見えなかった。慌てて今来た道を見渡すが、ミリアの金髪が黒髪だらけの中で一際目立つので、すぐに見つけられた。
交番のすぐ横で、道に背を向ける形で座り込んでいる。
こいつ心配させて、と思いながら近づくと、ミリアは両手で抱えられるぐらいの段ボール箱の中を覗き込んでいるのに気が付いた。
ダンボールの中を見ると、3匹の子犬がもそもそと蠢いていた。それが捨て犬であるのは、すぐに理解した。明菜に気が付いたミリアは、その子犬みたいな弱々しい表情をした顔を上げた。
考えるまでも無く状況を理解した。ミリアは自分の後を付けていた時に、この捨て犬に気が付いて、可哀相だから何とかしてあげたい ということだろう。
「捨て犬、だね」
明菜を見たまま、こっくりと頷く。
「おなか空いてるのかな」
明菜を見たまま、小さく首を傾げる。
「まだ小さいのに」
ミリアは目を伏せて、視線を子犬達に向けた。おそるおそる両手を箱の中に突っ込んで、その手に群がってきた子犬の一匹の頭をそっと撫でた。何とかしてやりたいとは思うが、自分の家では既に猫を飼っている。恭也の親がアレルギー持ちらしいので、家に連れて帰っても飼うことは出来ないだろう。
交番の人に言ってみようと思ったが、生憎と留守のようだった。
「行こう。ここなら、きっと誰かが拾ってくれるから」
しかしミリアは返事もせず、じっと子犬達を撫で続けていた。明菜が何度促しても、ミリアは頑として動こうとしない。
誰かが手を差し伸べてくれるのを待っているというよりも、寂しそうにしている子犬達が放っておけないから、ずっとここにいたいのだろう。しかし、もうすぐ日が暮れてしまうし、いつまでもここにいるわけにはいかない。
振り返ると、西の乙山の彼方に、日は没しつつあった。
青宮が思うに、交番に駐在する警察官の仕事とは、管轄地区内のパトロールや、他部署の応援などであって、少なくとも農協で野菜の出荷を手伝うというは、その中には含まれない。
とはいえ、おかげで野菜がタダで手に入るのはありがたいとは思う。どれも売り物にならない規格外作物というものらしいが、確かに妙な形をしたものや、色つやのよくない物が多い。しかしどう考えてみても半分くらいは普通に打ってもまったく問題なさそうだと思うし、少しくらい小さくたって問題はないのではなかろうか。しかし野菜はあくまで商品であり、買い手のニーズに沿った商品でなければ売れるはずがない。買い手が色つやがよく、形が綺麗だと思う物を求める限り、こうした作物は売り場に出されない。
「ほれ、これなんか一回転してる」
と、葉山は、180度近く反り返っているどころか、360度ぐるりと一回転したキュウリをペシペシ叩きながら青宮に見せびらかした。
「そんなの一体どうやって切るんすか」
「一回転してるところを真っ二つ。それか丸かじり」
段ボールに詰め込まれた野菜をあれこれ取り出してはじっくり眺める葉山を横目で見ながら、青宮は疲れ切ったため息を吐いた。
順風満帆のエリートコースを進んで、都心の刑事になろうと夢見ていたのが、丁度二ヶ月前までのこと。それに反して現在は、青い臭いが漂う農協の手伝いをして、これまた野菜の臭いの充満したパトカーの運転をしている。これが自分の人生かと思うと、悲しいと思う気にもなれない。
交番の手前の十字路の赤信号を待ちつつ、目の前の景色を眺めていると、交番の横に金髪の女の子が座り込んでいるのに気が付いた。そのすぐ横に、中学生ぐらいの女の子が立っていて、しきりに何か話しかけている。
交番の横の駐車スペースにパトカーを停めて、何かあったのかと尋ねようとしたとき、金髪の子が段ボール箱の中を覗き込んでいるのに気が付いた。あの箱の中にも野菜が山と入っているのを思わず想像してしまうが、よくよく見れば、中には毛むくじゃらの物体が2、3個ばかり入っている。
「子犬か、どれ、柴犬だなこりゃ」
葉山はミリアの隣にしゃがみ込んで、子犬の頭を撫で始めた。遠慮なく、ぐりんぐりんと撫でるもんだから、子犬は嫌がって何度も身じろぎをしている。あるいは気持ちが良いのかもしれないが、恐らくそれは無いだろう。
「捨て犬みたいなんです。それをミリア、この子が見つけて。かわいそうだからどうにかしてあげようって思ってるんですけど」
「いつまでも、ここにいさせるわけにもいかんからなあ。誰か育ててくれる人がおればいいんだが」
と言って、明菜を振り返ると、明菜は黙って首を振った。その意味を酌んだ葉山は、自分の腕時計を一瞥して、
「心配せんで、君らはもう帰りなさい。後はこっちがなんとかするから」
「わかりました。お願いします」
明菜は不器用ながらも丁寧にお辞儀をして、ずっと子犬を一匹抱いていたミリアに『行こう』と呼びかけるが、子犬を抱きかかえたまま、やはりその場を動こうとしない。
誰かがこの子犬を飼うと言わない限り、ミリアはずっとここに居続けるつもりだろう。子犬達のことが心配だから、今すぐにでも誰かに買ってもらって、幸せになってもらいたいから。出来ることなら自分が育ててやりたいのだろうが、今の自分は寄留の身である。恭也の家に連れて行っても、受け入れてくれるかどうか分からないし、母国に帰る時には恭也の家で引き続き飼ってもらわなければならないし、一緒に国へ連れ帰っても、家族は許してくれないかもしれない。
見るに見かねて、明菜は子犬の入った段ボール箱を抱え上げた。
「これから誰か飼ってくれる人を探そう」
これから風呂に入りにでも行くか。
その提案に対して、美凪はぐーパンチで返事をした。
聡美が我が家に侵入するのを防ぐという目的は達成されるが、一緒に風呂に入るなど論外だ。そんなことをするならドブ川に浸かる方がずっといい。
呆気にとられる聡美を尻目にこの場を去ろうとしたが、腕を掴まれて阻止されてしまった。それでも頑なに拒んで帰ろうとしたものの、聡美に言いくるめられてしまい、いつの間にか自転車の鍵まで取られていた。逃げ場を失った美凪は不承不承銭湯の『湯処』へ行くことにした。
丁度今は湯処が一番混む時間帯のはずなのだが、女湯には自分達二人しか居なかった。
今まで多少の補修工事こそ行われているものの、建てられた当時とほとんど変わっていない。浴場のペンキ絵は古臭く、脱衣場や待合室を歩けば床がミシミシと軋み、もとは白かったであろう天井は、黄ばみを越えて茶色く変色している。それらの様相から、その年季の入りようがひしひしと感じられた。
普段は近所のオヤジの語らい場としての役割が強いのだが、体育祭や文化祭などの行事の準備で帰りが遅くなったり、泊り込みをする生徒らがしばしば利用するようになる。夏場になると、帰りに一風呂浴びに来るようなジジ臭い手合いも増えるそうだ。
料金は美凪の分も含めて聡美が支払い、貸し切り状態の脱衣場で着替えを始めた。
美凪は制服のスカートを下ろし、ブラウスのボタンを外しながら、横目で聡美の様子を窺った。中学生の平均を超えた胸と、それを支えるブラジャーを目にして、美凪は思わず自分の胸元を見下ろした。小学生のときから、それよりも前から殆ど成長していない。歳も1つしか違わないのに、この違いは一体何処から来るのか。万人皆平等と言うが、絶対に嘘だ。
「なんだ、人の身体をジロジロと」
視線に気が付き、お返しとばかりに美凪の身体をわざとらしい目つきでなめ回すように見てくる。美凪が己の未成熟な幼児体型を隠すように背を向けると、脇の下から手を伸ばして美凪の胸を鷲掴みにした。とはいえ、平野の如き平らな美凪の胸に掴めるようなものは無く、手を当てているといった方が正しい。
頭で考えるよりも先にその手を振りほどいて、即座に聡美と距離をとる。
「なにすんのよ!」
「胸は揉めば揉むほどデカくなると言うだろう。成長期である今なら、その効能が顕著に現れるのではと思うのだが」
「そんなの自分の体で試せばいいじゃない」
「アホ言うな。君のその絶壁だからこそ正確な結果を得ることができあ痛」
聡美に拳骨を食らわした。そして聡美が怯んだ隙に、容赦も遠慮もなく頭に二発三発と拳を落とした。
「暴力はよせ。一体何をそんなに怒っとるんだ君は?」
「壁で悪かったわね!大体あんたの胸が大きすぎるのよ!」
「こっちだって好きでデカくなったわけじゃないぞ。これはこれで色々と苦労があってだな」
「やっぱり邪魔って思うの?」
「たまにな」
ヤスリで削ってやろうか、と本気で思う。そうすれば聡美も少しは静かになるかもしれない。きっと聡美の胸はラクダのコブと同じで、満々と湛えた養分があの異様な活力の源となっており、それを使い切ると、自分と同じぐらい平坦になるのではないだろうか。そう考えれば、この胸にもあの行動力にも合点がいく。
しかし、あるいは聡美はこの胸に対して少なからずのコンプレックスを抱いているのではなかろうか。人より胸が大きいことは、羨望の眼差しで見られると同時に、情欲の目を向けられることにもなる。15歳と言う多感な時期にあって、そのことを全く意識していないわけではあるまい。考えようによっては彼女のあの奇行も、他人の自分に対する関心を身体から逸らすためとも思える。
あるいはコンプレックスなどまるで無く、根っからの変人なのかもしれない。
二人一緒に浴場に入り、並んで髪と身体を洗う。石鹸やシャンプー、リンス、タオル等は湯処で売っているものを買っておいた。
「そういえば、お兄ちゃんに用事があるんじゃなかったの?」
「ああ、それなんだが」
使い切りシャンプーの封を切りながら答えた。
「それより先に確認しておきたいことがある」
「確認したいことって?」
聡美は適当に泡立てたシャンプーの泡を頭に盛り、肩まである髪を美凪が思っていた以上の丁寧さで洗い始めた。美凪はそれを見て、自分も髪を伸ばそうかなと思いながらシャンプーを泡立て始めた。
お互いに黙ったまま髪を洗い、聡美が髪をすすぎ終えた頃に美凪の問いへの答えが返ってきた。
「ミリア君が日本に来たのは何日?」
「確か・・・ほら、あのUFOが出たって日の次の日だったから、25日」
「ミリア君が家に来るのを知ったのは?」
いつだったっけと思い出そうとしたが、一体いつ頃聞いたのか思い出せない。ミリアが家にいたのを初めて見たときは、特に違和感を感じなかったのだが、それはそのことをどこかで聞いていたからなのだろう。しかしそれをいつ、どこで、誰に聞いたのかは全く記憶に無い。ただ『ミリアと言う名前の子が家に来る』という覚えだけがあった。
「どうした?」
「ううん、別に。いつ知ったのかは覚えてない」
「そうか。なら次の質問。ミリア君が来てから」
「ちょっと待ってよ」
思わず声が大きくなってしまった。
聡美は口をつぐみ、美凪は小さく深呼吸をしてから疑念を投げかける。
「どうしてそんなにミリアのことを聞くの?お兄ちゃんに用って、ミリアのこと?」
「そうなんだが、」
聡美はリンスの封を切るのに悪戦苦闘しながら答えた。
「なんなのよ」
「もしかしたら私の考えすぎかもしれんが」
リンスを髪にまんべんなく塗り込みながら話す。
「来生君の様子が最近どうも怪しい。と言うか、腹に一物あるというか、何か隠しているというか」
美凪は意味がつかめず
「どこが怪しいの?」
「最近の来生君はいやに早く家に帰りたがる。私が放課後に呼び出しても、忙しいだの何だのと理由を付けて早々に帰ってしまう」
それは単に関わりたくないだけではないだろうか。普段からあんな事につき合わされて嫌気が差さなかったら、それこそ異常だ。
「それで一体何をしているかと思えば、ミリア君にこの町を案内してあげていたそうじゃないか。それも毎回。だがこの町に案内してやるほどの場所がいくつもあるわけでもないだろう。強いて言うならば、乙山炭鉱跡のエレベーターぐらいだ。それに、ミリア君が廃墟マニアなら話は別だが、普通はあんなのを見たところで面白くも何とも無かろう」
そうだよな と納得する。いくら兄といえども、どういった所を案内すべきかぐらい分かっているはずだ。廃墟のような危険な場所に連れて行ったりもすまい。普通は駅前の商店街や、国道沿いの商業地区とかに行くだろうが、それも長くても2・3日もあればあらかた見終えてしまう。考えられるとすれば、兄が重箱の隅をほじくるような場所にまで連れて行っているか、どこかミリアが気に入った場所へ行っているかだ。
「来生君はミリア君に入れ込んでいる と考えれば簡単な話なんだがな。しかし内気な性格のミリア君は、自分が外国人であるからと事でいじめられたりするのではと不安で、自分の金髪が目立ってしまうのを気にしているようだ。そして来生君もその事を心配している」
何かおかしくないだろうか。ミリアはちょっかい出されたりするんじゃないか不安で、兄もその事を分かっているのに、どうして毎日わざわざ外へ出かけるのか。
美凪の考えを見透かした聡美は続ける。
「どうやら薄々気がつき始めたようだな。ミリア君の性格からして、外国人だの何だのとからかわれるのではと不安がっていながら、毎日外出をしたがるとは思えん。来生君もその事を分かっているから外へ無理に連れ出したりはしないだろうし、出来もしないだろう。にもかかわらず、二人は連日どこかへ出かけていく。何故か」
美凪は黙ってうなずいた。
「あるいは、そうした懸念を持ちながらも、行かねばならぬような用事があるのかも知れん」
「用事って?」
「そんな事知るか。むしろ私が知りたい。一体何の目的で、毎日ミリア君を連れて出かけるのか」
聡美はシャワーヘッドを壁に掛け、顔面からお湯を浴びながら、両手でざぶざぶと顔を洗う。
「何を差し置いてでも優先すべき事、ミリア君が傷つけられるのではと言う懸念がありながら、それでもしなければならないような事。それが来生君が隠しているであろう事なのは間違いない」
いきなり聡美がひひひひと笑い出した。
「しかし実の妹として何とも思わんのか?兄貴が金髪の美少女に没頭していて、自分をあまり相手にしてくれない事に」
違う。
兄が自分を相手にしてくれないのではない。自分から兄を突き放したのだ。
兄妹そろって同じ中学校に通うことが恥ずかしいからと、距離を置き、鶴ヶ崎の腰巾着の妹だと暴露されたからと、拒絶した。豹変した妹の態度にうろたえる兄を『分かってくれない』と決め付けて、仲直りしようとする兄の手を払い除けたのは自分だ。
気にしなければどうって事無いのに、我侭な自分はそれに納得できず、兄にあたった。
思い出す。6月23日の夕暮れ、わざわざアイスを買ってきてくれた兄の笑顔。
兄が差し出したアイスは美凪が一番好きなイチゴ味だった。
美凪に背中を思いっきり蹴り飛ばされた聡美は、豪快な水飛沫を上げて湯船に沈んだ。すぐに起き上がってくるかと思っていたら、いきなり水中から聡美の腕が伸びてきて、蹴り飛ばしたときに伸ばした右足をつかまれた。悲鳴を上げる暇も、片方の足で踏ん張る間も無く、バランスを崩した美凪は湯船に引きずり込まれた。
水中で足を振り回して聡美の手を振りほどき、口から水を吐き出しながら起き上がる。聡美もその正面で海坊主の如く水面から出現した。
「いきなり何をするか!風呂場でふざけてはいかんという事など、小学生低学年でもおぶわっ」
全体重をかけて聡美を押し倒し、再び二人とも浴槽の底に沈んだ。
そのまま水中で、のた打ち回るように殴り合い、蹴り合い、お互い距離をとったところで水底から這い上がる。そして美凪は悲鳴にも近い叫び声を上げながら走り出し、聡美は湯煙の中を怪鳥の如き気合と共に飛び上がる。
浴場の片隅に貼られた『風呂場で暴れないこと』の張り紙が、二人のぶつかり合いを傍観していた。
交番の電話を借りて、番号を覚えている限りの友人の家に電話を掛けた。
そして電話を掛けた相手からさらに地元の知人の電話番号を尋ねて、子犬をもらってくれるように頼んだ。
半分は家がペットを飼えないからと断られ、既に犬を飼っているから結構だと言うのと、他の動物を飼っているから無理だと言うのがもう半分だった。それでも、丁度犬がほしいと思っていたという人が1匹育ててくれることになり、交番の前を通りかかった学生が、1匹ぐらいなら大丈夫と言ってもらってくれた。
人の良さそうな禿頭の警官が手伝おうかと言ってくれたが、ほとんどムキになっていた明菜はそれを断り、自力で貰い手を探すと断言した。
電話をかける相手のネタが尽きると、家が駅に近い人の家に片っ端から出向いて、子犬を飼ってはくれないかと頼み込むことにした。しかし見ず知らずの女子中学生と金髪の少女が押しかけて来て『この子犬をもらってください』と言ったところで、『はい喜んで』と言ってくれるほど気前のいい人は、そう滅多にいるものではなかった。家族と軽く話し合った結果断るならいい方で、大半は渋い顔で少し考え込むポーズをしてから断り、中には二人と一匹を見るなり、即お断りという手合いもいた。
27件目を断られたあたりで、さすがの明菜もついに気力が尽きてしまい、27件目の家の塀にもたれて座り込んでしまった。
脇に置いた段ボール箱の中で最後の一匹が、人の苦労も知らずにのん気に眠っていた。数十分前なら、この寝顔を見てもう少し頑張ろうという気持ちになれたのだが、もはやその気配すらなかった。
頭上を見上げると、濃紺の空にたくさんの星が瞬き、その中に有明月が浮かんでいる。
散々歩き回った足は棒のようで、次へと向かうための気力も集まらない。
もしも最後の一匹の貰い手が見つからなかったら、どうするのだろう。また道端に放り出すことになるのだろうか。それとも保健所へ連れて行かねばならないのだろうか。いずれにしても、ミリアは絶対に納得しないだろう。それは明菜も一緒だ。保健所に連れて行けば、間違いなく処分される。元の場所に戻しても、きっと同じことになる。保健所が捕獲した野犬は、飼い主が現れない場合は安楽死として殺処分されるそうだ。
想像する。炭酸ガスの血中濃度が上昇し、意識が朦朧とした後に息を引き取る子犬の姿。焼却炉の中で炎に焼かれて塵灰となる子犬の姿。
溜め息が出る。
明菜は歯を食いしばり、猛獣のような唸り声を漏らしながら立ち上がった。
明菜とミリアが炭山駐在所に戻ってくると、葉山はカップラーメンを食べていた。
葉山はヤカンに茶葉とお湯を直接ぶち込みながら、ここでしばらく休むように言った。体の芯まで疲れ切っていた明菜はそれに応じ、足を投げ出してパイプ椅子に座った。
体を休ませながら、周りをぐるりと見回すと、中背所の中は自分のイメージに反して、随分と散らかっている。掲示板には茶色く変色した文書や、当の昔に逮捕された指名手配書が乱雑に貼り付けられており、その横のホワイトボードには、今月の予定や諸々の覚え書きが汚い字で書き込まれている。壁の防犯キャンペーンのポスターは、すっかり色落ちしているし、机の上もあまり綺麗とは言えない。積み上げられた書類や本の山のバランスもかなり危うい。気になったのは机の横に置かれた段ボール箱で、中は売り物になりそうもない、形の悪い野菜が詰め込まれていた。
葉山は冷蔵庫の冷凍室からアイスを何故か三本取り出し、二本を明菜とミリアに差し出した。明菜は好意だけ受け取っておくといって遠慮したが、あまりにしつこくすすめてくるので、仕方が無く受け取った。
「結局、最後の一匹の貰い手は見つからなんだか」
葉山はそう言ってアイスを食べ始めた。ハゲの警官とアイス、なんとも珍妙な組み合わせである。
「いったん家に連れて行って、飼ってもいいかどうか親と相談してみます」
無理に明るい調子で言ったが、内心は暗い気分だった。相談したところで、親は猫がいるからの一点張りだろう。猫と子犬が喧嘩して怪我をしてしまうかもしれないし、そもそも父は犬が嫌いなのだ。
その気持ちを知ってか知らずか、葉山は尋ねた。
「しかし親御さんがダメと言ったら、どうする」
明菜は返事が出来ずに押し黙ってしまう。ダメと言われれば、また元の場所へと残していくしかない。夏場だから寒さの心配は無くとも、野生の動物に襲われる心配がある。何より、この子犬は一人きりになってしまったのだ。兄弟から引き離された挙句、誰にも引き取られないまま、暗い夜道に残されてしまうのだと思うと胸が痛んだ。その痛みを押し殺すように、明菜は拳を握り締め、唇を噛んだ。
重々しい空気が駐在所中に満ちていく中、その原因の片棒を担いでいる葉山はのん気にアイスをかじっている。明菜も不安を誤魔化すように、アイスを食べ続けた。
やがて葉山が一番に食べ終えると、ヤカンから湯呑みにお茶を注ぎ、音を立てて啜り、
「青宮ぁ、犬好きかぁ」
「・・・一応は。まさか、葉山さん」
葉山はにかっと笑って
「おう。貰い手が見つからないんじゃあ仕方が無い。この子犬を引き取るよ」
「だけど、それじゃなんだか悪いです」
「気にしない気にしない。別に困るわけでもないだろうに」
困る事などまったく無いし、むしろありがたいくらいだ。
が、今まで多少の迷惑をかけて、更に子犬を託そうというのは何だか気がひけた。
明菜は少し考え込むみながら、横目でミリアの様子をうかがった。ミリアは子犬をどうするかの判断を明菜に任せて、明菜がどのような答えを出すのかをじっと見ている。その目には期待の色に満ち満ちていた。明菜が首を縦に振ってくれるのを待っていた。
どうせ路上に放り出すぐらいなら、迷惑を重ねて子犬を託す方がずっとマシに違いない。
深呼吸をする。
考えるのをやめた。
「じゃあ、お願いします」
そして葉山は段ボール箱の中から子犬を抱き上げた。
ミリアと明菜は顔を見合わせて、笑った。
気がつくと、見知らぬ和室の真ん中に敷かれた布団に横になっていた。
目の前には木目の天井と、蛾に体当たりを挑まれている照明器具があった。遠くで虫が鳴いているのが聞こえる。
起き上がろうとすると、急に頭がズキズキと痛んだ。
自分はなぜここで寝かされているのだろうか。確か聡美と一緒に湯処に行って、何だかんだで聡美と喧嘩になって、
「気がついたか」
声のした縁側の方を見ると、そこには聡美が座っていた。制服のスカートは履いていたが、上はタンクトップ一丁。加えて両手に牛乳瓶。
「いきなり倒れたまま起きないから、てっきり水死したのかと思ったぞ。番台の婆さん呼んで、何とかここまで担ぎ込んだんだ。まあ、命に別状は無いみたいだし、よかったよかった」
「ここ、どこ?」
まさか聡美の家に連れて来られたんじゃないかと思ったが、聡美は一言「湯処」とだけ答えた。言われてみれば、確かに風呂の湯のような匂いがしないでもない。聡美は美凪に牛乳瓶を一本投げ渡した。まだ買って間もないらしく、よく冷えていた。
どうやら自分はのぼせて倒れてしまったらしい。風呂の中であれだけ暴れまわっていれば無理も無い話だ。
だが、倒れたのは自分だけだったとなると、何だか負けたような気がする。殴る蹴るの喧嘩では、相手より先に倒れた側の負けだ。
改めて辺りを見回す。六畳間で、畳は最近取り替えたようで真新しかったが、それ以外の壁や柱はやはり古ぼけていた。床の間にはよく分からない掛け軸があり、部屋の隅には自分の制服と、鞄が二つ置かれている。
「お兄ちゃんは私のこと嫌ってない」
「あ?」
悔しさと一緒に記憶が零れ落ちる。
一緒に遊んでくれたときの兄の姿、転んだときに助け起こしてくれた兄の手の感触、自分の弓道着姿に憎まれ口を叩きながらも関心を示していた兄の顔。どれもほんの少し前の事なのに、何十年も昔の事のように思える。そしてそれらは、聡美に呼び出されて家を出る兄の背中と、兄の好意を無にする己が姿に覆い潰されていく。
いつまでも兄が自分の横に並んで歩いてくれるはずがなく、いずれ兄は自分より前を歩き、少しずつ離れていく。
布団から跳ね起きて叫んだ。
「お兄ちゃんは私のこと嫌ってなんかいないもん!だって、生まれたときからずっと一緒だったんだから!!」
聡美は眉を顰め、
「何を言っとるんだ。そんなの当たり前だろ」
毒気を抜かれた美凪が思わず黙り込んだ隙に、聡美は続ける。
「あの来生くんが美凪君を嫌うわけが無いだろうが。13年も妹をやっておいてそんな事も分からんのか」
「どうしてそんな事が言えるのよ!さっき言ったじゃない!お兄ちゃんが私の事を相手にしてないって!!」
「そりゃただのジョークだ。君は冗談とかそういうのが通じんのかね」
聡美は牛乳瓶のふたを開けて、ぐびぐびと半分くらいを飲み干し、「何に腹を立てたのかと重いきゃ」と呟いた。それから深呼吸を一つやって、
「大体な、少なくとも私は来生くんが美凪君の事を悪く言っているところは一度も見たことがない。そりゃ面と向かっては憎まれ口の一つも叩くだろうが、本当に嫌っているなら本人の目の届かないところで扱き下ろすもんだろ」
言い返そうと息を吸い込んだが、言葉が浮かばずに押し黙る。
「君にもいくつか見に覚えがあるだろ。あいつはあいつなりに気にかけてくれている。ただ心配しているのを表に出すのが恥ずかしいから、あまり大きな事はせず、小さな事からチマチマとやっているんだろうに」
思い出す。
6月23日に兄が買ってきてくれたイチゴ味のアイス。あれは兄なりの心遣いだったのだろう。聡美の事で妹の機嫌が損ねなれている事に気がつきながらも、何も出来ないことへの謝辞でもあったのかもしれない。そしてそれよりも前からも、自分のわがままに対して、毎朝の登校時間を数分ずらし、学校で会ったりしても他人のフリをするなど、兄なりに気を使ってくれていた。
聡美の言うとおりだ。実の妹なのに、兄がどれだけ自分を気にかけてくれていたのかまるで分かっていない。13年間も一緒にいながら、兄の優しさを知らなかった。むしろ一年そこらの付き合いの聡美の方が兄の事を理解している。それを悔しいとは思わず、ただ自分が情けなかった。
堪えきれずに涙が溢れ出して視界が滲み、押し殺した声が噛み締めた口から漏れる。
泣いている姿を見られるのを恥ずかしいとは思いながらも止めることはできず、美凪は泣きじゃくった。
聡美はその傍らに座り、そっと頭を撫でようと右手を伸ばした。
その瞬間、美凪の右の拳が聡美の鳩尾を捉えた。
しかし拳がヒットする直前に聡美は左手でそれを受け止める。
聡美はニタリと笑う。
「ヌルい、ヌルいぞ美凪君!その程度の不意打ちで私を倒そうなど百年早いわ!泣いているのを誤魔化そうたって、そーはいかんぞ」
「別に誤魔化そうなんてしてないもん!あれは泣いたフリをしたの!!」
「はン、目元を赤く腫らした奴が何を偉そうに。風呂場で暴れてぶっ倒れた挙句にそれか」
「何よ。大体あんただって結局はお風呂で暴れたんじゃない!」
美凪は布団を跳ね飛ばして立ち上がる。
「帰る!」
そう叫んで乱暴に襖を開け放った。
美凪は背を向けたまましばらく硬直し、いきなり振り返って、
「何か言ったらどうなの?!外だってもう暗くなってるし!」
「その暗い中を真っ裸で帰るつもりか」
我が身を見下ろすと、確かに真っ裸だった。
それを早く言えと悪態をつきながら、言われるまで全く気がつかなかった自分も自分だと思う。しかしどうせここまで運んで寝かせるんだったら服ぐらい、せめて下着だけでいいから着せておいて欲しい。
ドスドスとわざとらしく床を踏み鳴らしながら部屋を横断し、隅に置かれた服を着て、鞄を拾い上げた。
「しかしあれだ」
道中、美凪と並走しながら聡美が尋ねた。
「こんな時間まで外をほっつき歩いて、親に何か言われるんじゃないのか?」
「大丈夫よ。部活で遅くなるのなんて珍しくないし、遅くに帰ってくるのはお兄ちゃんで慣れてるみたいだから」
嫌味ったらしく皮肉を言ったつもりなのだが、聡美はまるで意に介さずに『そうか』とだけ返した。
「そっちこそ、帰りが遅くなったりするなんていつもの事だろうけど、何か言われたりしないの?」
すると聡美は眉間にしわを寄せて唸りながら沈黙した。その様子に、何か複雑な家庭の事情でもあるんじゃないかと思ったが、それを訊いたらややこしい事になりそうなので、詮索するのはやめた。
「前から訊こうって思ってたけど」
「なんだ」
美凪はブレーキを握って自転車を停め、聡美は甲高いブレーキ音を響かせながら道の真ん中に停車する。
二人の頭上には、雲ひとつ無い濃紺の空。数多もの星が瞬き、その中に有明月が浮かんでいる。
「お兄ちゃんのこと、好き?」
青宮はパトカーで家まで送ると言ったが、警察沙汰に巻き込まれたと誤解されて心配かけると困るので、明菜とミリアはそれを丁寧に断った。
駅前のバス停で二人はバスを待った。明菜は時刻表と腕時計を見合わせて、次のバスが来るまでの時間を調べ、最近ペンキを塗り直したベンチに腰を下した。
普段は夜の早い田舎なだけあって、この時間帯の人通りは少なく、車の通りも少ない。しかし今は車はおろか、人影すら見当たらなかったが、疲れていた二人はその事を気にもしなかった。
結局、自分は何をしたかったのかは最後まで分からなかった。意味の無い意地の張り合いをして、子犬の飼い主を探し回って。ミリアと仲良くなりたいと言いながら、一緒にいた時間に対して交わした会話はごく僅かで、気まずい雰囲気だけが延々と続いていただけ。ミリアを散々連れまわして残ったのは、達成感とは程遠い疲労だけだった。
バスが来るまで14分、ここから恭也の家に一番近いバス停までが約20分、そこから恭也の家まで17分くらい。
あと一時間もしないうちに、この徒労も終わる。ようやくこの重みから抜け出せる。
ほっとしている自分がいた。
辺りを見回すと、商店街の南口の一番端にある雑貨屋が目に留まった。明菜は『少し待ってて』と言って、そこへ向かった。
明菜は雑貨屋の中をせわしなく歩き回り、やがて小さなぬいぐるみが並ぶ棚の前で足を止め、小さな犬のぬいぐるみを手に取った。
最後にお土産として可愛いぬいぐるみをあげる。我ながらいいアイデアだと思う。
手早く清算を済ましてバス停に戻ると、ミリアは身動き一つせずにベンチに座っていた。夜のバス停のベンチにぽつんと座るミリアの姿は、まさに見捨てられた子犬のようだった。
明菜が戻って来たのに気がついて、ようやくミリアは顔を上げた。
明菜は後ろ手に隠していた子犬のぬいぐるみをミリアに差し出した。すぐに受け取ってくれればと思っていたが、案の定、ミリアはぬいぐるみを凝視したまま硬直する。
「これ、あげる」
もう少し気の利いたことを言おうと思っていたが、疲れているあまり頭がうまく回らなかった。
ようやく意図を理解したミリアは、おそるおそる手を伸ばしてぬいぐるみを受け取った。明菜にしてみればさして大きくないぬいぐるみだが、小柄なミリアが持つと実際より一回り大きく見えた。両手でぬいぐるみを抱えながら、その顔と明菜の顔を二度見比べた。
明菜はぬいぐるみを抱えたミリアの様子があまりに可愛くて、思わず頬が緩んでしまう。それに気がついたミリアはぬいぐるみの頭で顔を隠しながら、恥ずかしそうな笑みを浮かべた。
バスには自分たち二人の他には、厚化粧の女性と冴えない顔をしたサラリーマンとバスの運転手だけだった。
女性はこれから仕事なのか、分厚い化粧をさらに重装甲に仕上げ、サラリーマンは何をするでもなくボーっと前を見ている。運転手の声は普段に増してやる気がなく、ただでさえ聞き取れない言葉が更に意味不明な音声となっていた。
ミリアはぬいぐるみを大事そうに抱き締めたまま、明菜の隣に座っている。
明菜は押し寄せる眠気に舟をこぎ始めていた。
夢と現の狭間で、明菜はぼんやりと過去を思い出していた。
年中さんから年長さんに上がったばかりの春。
同じ組だった子が一人もいなくて、周りが知らない子ばかりだったので、当時は人見知りするタチだった私は不安に満ちていた。グループを組んで貼り絵を作るときも、どのグループにも自ら加わりきれずに途方に暮れてた。その時、一人の男の子が自分の手を引っ張って、男の子がいたグループへ連れて行った。
彼の名前が来生恭也と知ったのは、その翌日のことである。
そのグループは男ばかりだったが、あのぐらいの年頃は男女の隔たりがあまり無く、誰もその事を気にしなかった。
以来、私と恭也はよく一緒に遊ぶようになった。恭也の周りが男の子ばかりだったので、必然的に私はグループの紅一点となった。サッカーで何度も遊び、幼稚園の近くの森に探検しに行ったこともある。思い返してみれば、おままごとのような女の子らしい遊びは殆どしていない。
秋が過ぎて、冬が来ても、私たちはいつものように外へ出かけて遊んだ。身の丈より大きな雪達磨を作ったのを覚えている。
そして春が来て、小学生になってからも、いつも恭也とと一緒に遊んでいた。数多い友達の中でも、とりわけ仲のいい6人組で徒党を組んでは色んな所へ行った。
乙山の頂上の丘に初めて到達したとき、眼下に広がる深緑の広さへの感動は今でも覚えている。自分達の住む町があまりに遠くにあって、もしかしたら帰れなくなるんじゃないかと泣き出してしまったのも覚えている。しかし、頂上からの景色がどの様なものだったのかは覚えていない。
2年生になっても、3年生になっても、4年生になって5年生になって6年生になって、それから先もずっと、いつまでも、いつまでも。ずっと仲良しのまま、恭也と今の関係が続くものと思っていた。
降車するバス停に着いたとき、ミリアはシートの上ですやすやと寝息を立てていた。
バスには運転手の他には自分たちしかいない。
明菜はミリアを起こしてしまわないようにおんぶをしながらバスを降りた。
バス停は住宅地から少し離れたところにあり、真っ暗な田んぼに囲まれた中にぽつんと立つ街灯に照らされている。周りは田んぼばかりで、四方からは絶えずカエルの鳴き声が聞こえ、夜闇の先には住宅街の明かりが見える。
ミリアを背負い直し、明菜は真っ暗な夜道を歩き始めた。
恭也たちは9時になってもミリアが帰ってこない事に気を揉んでいた。
どちらかと言えばインドア派のミリアは、恭也が連れ出したりしない限りは外に行くことはあまりない。そもそも臆病なミリアが一人で出歩けるとは思えないし、友達もまだ出来ていないらしいから、出かけるような用事も無いはずである。もしかしたら誘拐されたのではと思ったが、誘拐されたのなら身代金を要求する電話の一本くらいは来るはずだ。
日が暮れてしまい、いよいよ心配になった菜月が警察に捜索願の電話をかけようと受話器を手に取った。かと思ったら、受話器をなおして、居間を檻の中の動物よろしく歩き回っていた恭也に尋ねた。
「こういう時って110番?それともそれ用の窓口があるの?」
「知らないよ、そんなの」
菜月は受話器に手をかけたまましばらく考え、「非常事態だから110番ね」と言って、改めて受話器を持ち直して番号のボタンを押す。
その時、家のベルが鳴った。
恭也は『こんな時に』と思いながら玄関へ向かった。普段からドアスコープを覗く習慣のない恭也は、無防備にもチェーンもかけずに扉を開けた。
すると目の前に明菜が立っていた。背負っている人がミリアだというのはすぐに分かった。
お互いに何を言うべきか戸惑いながら相手が何か言い出すのを待っていると、まず恭也が沈黙を破った。
「送って来てくれたの?」
明菜は否定も肯定もせず、恭也と目を合わせないように下を向いたまま、ひたすら黙りこくっている。
「何かあったの?」
再度尋ねても明菜は答えない。
偶然どこかで会ったから、家まで送って来てくれたのだと思っていたが、もしかしたら何か深いわけがあるのではないのだろうか。まさかミリアの身に何かあったんじゃないかと不安になって、
「あのさ、もしかして」
「ごめんなさい」
いきなり浴びせられた謝罪の言葉に、恭也は意味がつかめずに、思わず眉を顰めた。
「折角ミリアが日本に来たんだから、色んな所を行かないと損だと思ったの」
「――は?」
困惑する恭也をよそに、明菜は蚊の鳴くような声で続ける。
「恭也と一緒に出かけたりしてるみたいだけど、恭也は女の子向けの店とか疎いから、そういうのは私が案内した方がいいじゃないかって。どうせ日本に来たんだから思い出をたくさん作ってほしいから」
それから明菜は今まで自分とミリアがどこで何をしていたのかを洗いざらい話した。フェリチターレで一緒にご飯を食べたこと、ミリアが茄子を残していたこと、交番の横で捨てられた子犬を見つけたこと、その子犬の飼い主を探し回っていたこと。そのせいで帰りが遅くなってしまったこと。
果たして二人は仲良くなれたのかどうかは分からないが、一緒に子犬を飼ってくれる人を探し回ったくらいだから、それなりに得るものはあっただろう。何よりもミリアが自分の判断で動けたのは大きな進歩に違いない。普段は家事の手伝いくらいは進んでやるものの、自ら出かけようとすることは殆ど無かったのだ。
ただ、その進歩によって秘密がバレてしまうではないかと不安を抱かずにはいられないが、とりあえず今はその事は考えないことにした。
恭也は、ずっと背負ってたんじゃ疲れるだろうと言って、ミリアが起きてしまわないように抱き上げた。
「じゃあ、もう遅いから気をつけて」
そう言って扉を閉めようとすると、その手を明菜につかまれた。
「恭也、覚えてる?」
明菜はうつむいたまま、ささやくように言った。
「なにを」
恭也の問いに対して、立ったまま眠ってしまったと思うくらいの間を空けて
「幼稚園の年長さんの頃」
何を言いたいのか見当がつかない。
「組が変わって、周りが知らない子ばっかりになったから、不安でいっぱいで。グループを作れって先生に言われたときも、どこにも入りきれなかった」
うつむきながら話す明菜の声は、消え入りそうになるほど、あまりに小さい。何かに怯えたように立ちすくむ姿は、あまりに弱々しく、まるで置いてきぼりにされた子供のように見える。
「みんな、こっちにおいでって言ってくれたけど、それでも怖くて、自分からは入れなかった。そしたら恭也が私の手を引っ張って、仲間に入れてくれた」
何を言っているのか、さっぱり分からない。
「恭也は覚えてる?」
確かに明菜とは幼稚園からの付き合いだが、お互いの馴れ初めがそんなものではなかったと思う。みんなと一緒に遊んでいるうちに、いつの間にか親しくなっていたはずだ。そう言おうと思ったが、恭也自身も当時の事をはっきりと覚えていなかったし、いつになく切実な様子の明菜の言葉を否定する事ができずに押し黙る。明菜もそれ以上は何も言わなかった。
やがて明菜は踵を返して夜道を歩いて帰っていった。
恭也は呆然と立ち尽くしたまま、その背中を見送った。
恭也が居間に戻ると、丁度、菜月も電話も終えて受話器を置いたところだった。
「捜索願は書類を提出してくださいって。こっちは急いでるのに――あら」
恭也の腕の中で眠っているミリアを見た菜月は、思わず呆けた顔になって硬直する。
状況を飲み込めずに何度も恭也とミリアを見比べている菜月に「明菜と一緒に遊んでたんだって」と説明する。ミリアの無事を知って安心したのか、その場にへたりこんでしまった。それを見た恭也も思わず笑みがこぼれる。
「疲れて寝ちゃったのね」
膝立ちのままでにじり寄り、指先でミリアの頬をつつく。ミリアは少し煩そうに手を振ったが、目を覚ましたりはしなかった。ミリアを布団で寝かせるように言われて、恭也は自室へと向かった。
ベッドの上に散らかっている物を蹴散らし、布団の上にミリアを寝かせた。
恭也はその隣に腰掛けて、ミリアの頭を優しく撫でていると、ミリアが犬のぬいぐるみを持っていることに気がついた。きっと明菜がくれた物なのだろう。しっかりと握っているあたり、いたく気に入っているようだ。
仲良くなれたみたいでよかった、と思う一方で、不安も感じた。
ミリアと明菜が仲良くなれば、会って話をする機会も増えるだろう。確かにそれはいいことだ。だが、きっと明菜はミリアの故郷について尋ねるだろう。もちろん本当の事を言えるはずも無いので、適当に辻褄を合わせて誤魔化すのだが、それが重なるうちに、大なり小なり矛盾が生じる可能性がある。その綻びが徐々に大きくなって、いずれは隠し通せなくなるかもしれない。
恭也が恐れているのは、ミリアの正体が他者に知られてしまうことだ。
もし仮にミリアの正体がバレたとしても、それを信じる人がいるのか甚だ疑問なのだが、全くいないとも限らない。どこかの研究所へ連れ去られて、実験動物のような扱いを受ける可能性だって、決して無いわけではない。
恭也の不安はそれだけではなかった。
それはミリアが自分から離れてしまうのではないかと言う不安だった。
ミリアは今までずっと、自分を頼りにしてきた。常にミリアは自分について来て、何をするにしても恭也に判断を一任してきた。
頼りにされていると思わずにはいられなかった。たとえそれが、他に頼れる人がいないからというだけの事だとしても、格好いいことは何一つできなくても、ミリアは自分に頼ってくれていたと思う。
ミリアを独占したくないと言えば、それは嘘になる。
かと言って、今までのように恭也に依存し、全てを委ねているミリアであり続けて欲しいとも思わない。
いつかはミリア自身の考えで決断しなければならない時が来る。自分がいなくても、ある程度の事態には対処できるようにならなくてはならない。
ミリアが明菜と出かけた事は、ミリアの自立への第一歩となっただろう。その事を分かっていても、恭也は自分の手の届く範囲にミリアを置き続けたかった。もしかしたら自分もミリアに依存しているのかもしれない。明菜を始めとする旧友らと疎遠になっていった事で生じた心の隙間を、ミリアという存在によって埋めようとしているのではなかろうか。
しかし、ミリアが本来在るべき場所は、ミリアが生まれ育った世界である。帰る方法が分かったら、ミリアはもといた世界へ帰らなければならない。そうなれば、きっと二度と会う事はないだろう。
お互いに依存し合い、いつまでも一緒であることを望みながらも、目指す先はまるで逆方向だった。
その事に、恭也もミリアもまだ気がついていなかった。
というわけで、『Lyrical Despair』第8話でした。
本日、12月29日は丁度連載一周年ということで、書くだけ書いて半年以上更新しなかった第8話を更新しています。
大体半年放置記念も兼ねているというのはここだけの話。
それでは、次回をどうぞお楽しみに。