蒼く、広く、果てしないもの
驚くほど眩い朝の日差しに顔を炙られて目が覚めた。
今日の日差しは季節はずれもいいところで、まだ6月だというのに真夏のような熱気を暴虐非道に振りまいている。
それなのに目覚めはすっきりしていて、眠気も多少の尾を引いてはいるものの潔く覚めた。
上体を起こして訳も無く自室を見渡す。普段は足の踏み場も無いほど散らかっているはずの恭也の部屋が今はきれいに片付いている。何故かというとつい2日ほど前に親に散々言われて渋々片付けたからである。だが今までの経験からして、あと3日もしない内に元に戻ると思う。
ベッドの上で転がっているままの体勢で、眠気の残党を追い出すように目を擦りながら枕元でうつ伏せに倒れている目覚まし時計を確認する。
7時36分―――随分早起きだ。
目覚まし時計から手と目を離し、再び眠気の海へと陥没していく。と、
布団の中に奇妙な違和感を感じた。
その正体を確かめようとするまでもなく、無意識のうちに体のほうが動いていた。
自分の横で同じ布団の中で金髪の小さな女の子がすやすやと安らかな眠りについていた。恭也は何故こんな小さな女の子がそれも同じベッドの同じ布団の横で寝ているのか。それらの疑問に対する答えにたどり着けず、驚きの叫びを上げそうになる寸前、答えと理由を思い出した。
昨晩、空から落ちてきた女の子―――ミリア・ラーファイムという異世界の魔法使い。
きっと帰る方法はあるはずだ。
だから―――その方法を探すために、しばらく俺の家に泊まって、元の世界に帰る方法を探そう
そう言って恭也はミリアを自室に泊めた。
もちろん両親の許可は取っていない、無断で泊めているのが、仮に許可を求めても間違いなく却下されるだろう。恭也自身も会って間もない異世界から来たと言い張る素性も知れないような者を家に泊めるのを許すはずも無いし、異世界から来たことを伏せたとしても、年端も行かないような女の子を連れ込んでいるという段階でもうダメに違いなかった。
久方ぶりに部屋の鍵を閉め、初めは女の子をベッドに寝かせて自分は床に毛布でも敷いて寝るつもりだった。
もう暑いくらいなので、床の固さを取り除けば十分眠れるはずだった。だがミリアはこれに猛反対した。泊めてもらっているのに迷惑は掛けたくないから自分が床で寝ると主張して憚らなかった。この子は誠心誠意こめて恭也に迷惑を掛けまいとしている。その心遣いは嬉しい。やたらとデカい面されるよりはよっぽど気分は良いに違いない。だがしかし、かと言ってミリアをこの固い床の上で寝かせる事を良心は許さなかった。
お互い一進一退どころか一歩も譲らない口論が、美凪に聞こえないように極めて静かに繰り広げられたが、最終的に恭也の方が折れて何故か同じベッドに寝ることになってしまった。
いくら小さな女の子とはいえ、異性と一緒に寝るのは緊張する。14歳という多感な時期なのだから尚更だ。そんな事も知らずにいつの間にかミリアは無防備にも恭也の腕にくっつくようにして安らかな寝息を立てていた。恭也もまた、抗い難い睡魔の猛攻の前に為す術も無く眠りの深淵へと堕ちていった。
そうして現在に至る。
もう一度、目覚まし時計を確認する。7時37分。
早起きをして良かったと思う。寝坊をしたら家族のうち誰か――母か美凪が起こしに来ていたかもしれない。ミリアと一緒に寝てるところを見られたら、それこそ一大事だ。家族会議どころか警察沙汰にまで発展するかもしれない。このくそ暑い日差しに感謝する。
なんだかんだで今日も一日が始まる。
第2話 蒼く、広く、果てしないもの -Lylical Color-
恭也の実の父であり、来生家の主たる来生典明は洗面所の、点々と水垢のこびり付いた鏡に映る自分の姿を凝視しながら少し型の古い電気シェーバーで髭をじょりじょり剃っていた。
毎朝、寝覚めの儀式のように繰り返してきたこの行為はもはや手馴れたものであったが、何よりの問題は最近とみに目立ってきた白髪の数々であった。そろそろ白髪染めがお呼びかもしれない。だが本人としては白髪染めを使う事は白髪に屈服した様な気がして、いい気持ちはしないので未だに手を出す気にはなれなかった。
そこへ恭也が何食わぬ顔で洗面所に入ってきて、典明の横で並び立つようにして顔を洗い、歯磨きを始めた。お互い同じ鏡を見ているわけで、それも決して面積は広くは無いので、嫌でも相手の顔が視界に入り、鏡越しに何度も目が合う。
「おはよう、恭也」
「ああ、おふぁいよ」
恭也の言葉がおかしいのは口に歯ブラシを突っ込んでいるからである。
適当に歯磨きを済まして蛇口から直接水を飲んでゲロを吐くように吐き出す。手の甲で口のあたりを拭って、恭也は再び2階の自室へと引っ込んだ。
やけに早起きだなぁ と典明は肩を竦めて髭の剃り具合を確認しながら、電源を落としたシェーバーを洗浄機能を内装した充電器に収納する。やっぱり白髪染めを考えるべきかなと呟いて、典明も洗面所を後にした。
部屋に戻るとミリアがベッドの上で何故か正座をしていた。
幸い誰も部屋に入ってこなかったらしく、その事に恭也は安堵しながら適当に脱ぎ散らかしていた学校の制服を手に取る。
「出かけるんですか?」
ミリアが制服と恭也を見比べながら、おずおずとたずねる。
「学校に行くんだよ。そういえば――――」
学校に行くという言葉で、家族に隠れて誰かを泊める時の二つの大きな問題点を思い出した。
一つは自分が学校に行っている間、ミリアはどうするのか。もう一つはミリアの三度の食事は一体どうするのか。昨晩、ミリアを泊めると決めた時はその事をまるで考えていなかった。
恭也は裏返しになっていたズボンの修正をする手を止めて、珍しく綺麗な部屋の中を見渡す。食事の事は後でどうにかできるとして、自分が学校に言っている間ミリアをどうするかを最優先事項に考える。
まず一番簡単な方法、部屋の鍵を閉める。部屋に入られない限り、ミリアが誰にも見つかることは無い。だが普段は全く閉めない鍵をある日突然閉めていたら、何か隠していると疑われるのは目に見えている。却下せざるを得ない。ならば部屋の何処かに隠れるという方法を取るしかない。だが隠し部屋も何も無い一般的な家屋の部屋に人一人が隠れられる場所は限られていた。布団の中に潜るのは、小柄なミリアでも中に誰かが入っているというのは丸分かりだし、恭也のベッドは下に潜り込めない構造だった。ベッドを改造するという考えも一瞬だけ浮かんだが、そんな時間も無ければ技術も無い。机の下は当然のようにバレバレだったし、某潜入ゲームのようにダンボールの中に隠れるのも、手ごろなダンボールが手元に無かった。
時間はまだあるというのに、有効な方法が何一つ見つからない事が根拠の無い焦りを誘発する。またしても軽い視野狭窄を引き起こし、体感体温は上がり、脳は屑同然の考えばかりを提示し続ける。何でもいいからミリアを学校から帰るまでの間、隠しておける方法は無いのか。その事ばかりが空回りを繰り返しているうちに、クローゼットの扉が目にとまった。
急いで扉に飛びつき、乱暴に開ける。二段構造になっているクローゼットの下段は色々と古ぼけた、今となっては全く使われない物品が詰め込まれた箱がびっしりと並んでいる。上段は殆ど空っぽで、使われていない布団と毛布といくらかの恭也の私物が申し訳程度に押し込まれていた。
恭也は上段の中身を手前の方に押しやり、スペースを確保する。人一人は隠れられるし、外からは布団があって隠れている所は見えない。完璧だ と、出来上がった空洞を見ながら恭也は思わず笑みをこぼす。
「家族の誰かにミリアがここにいることがバレたら大変なことになる。だから、悪いけど俺が学校から帰ってくるまでの間、この中で隠れててくれ」
「隠れる、ですか?恭也さんはいつ頃帰ってくるんですか?」
恭也"さん"は無いだろうと思いながら、机の引き出しの一番下の段から夜更かし用のカップラーメンを探り出し、それをミリアに見せながら
「昼食はこれを食べてくれ。作り方は―――ここに書いてある」
ミリアが日本語を読めるかどうか分からないが、何故か日本語を普通に喋っているから問題無いだろうと思いながらカップラーメンを手渡す。どういうわけか日本語を読めたらしく、お湯を入れて三分間待つ と呟いた。
「お湯は台所にあるから。母さんが買い物に行ったところを狙ってお湯を入れるんだ。ごみはこの部屋のゴミ箱に入れておくこと」
「お湯は台所。恭也さんのおかーさんがお買い物に行ってる間にお湯を入れる。ごみはこの部屋のゴミ箱」
いちいち復唱をするのを煩わしいと思いながら、全てをちゃんと理解している事に安心する。
「夕方には帰ってくるからさ――――ところでミリア」
カップラーメンを両手で大事そうに抱えて上目遣いでこっちを見ているミリアに背中を向けながら、裏返しを直したズボンを足元において、カッターシャツを着ようとする所で手を止めた。
「着替えるから、ちょっとあっち向いててくれないか?」
恭也は14歳の青少年。ミリアは9歳の女の子なのである。
学校に行く間も、学校に着いてからもミリアの事が気がかりだった。
ちゃんとカップラーメンを食べれているだろうか。誰かに見つかってはいないだろうか。そればかり考えていて、普段からあまり聞いていない授業の内容は一言も耳に届かなかった。指名されたことにも気づかずに、頭に拳骨を一発食らったこともあまりよく覚えてはいない。
そんな調子で1時間目から4時間目までをずっと窓の外を見ながら考え事をするだけで過ごし、昼休みが始まって尚も恭也は虚ろにシャープペンシルを握り締めたまま、下手くそな合成のように窓際の席に貼り付けられていた。
「来生、生きてるか」
和人が恭也の肩を軽く揺すりながら問いかける。
無論、死んでいるわけでは無いのだが、恭也はそんな些細なことで一気に現実へと引き戻された。
「・・・な なんだお前か」
「お前朝からなんか変だぞ?なんか悪いもんでも食ったか?」
少し不真面目そうな態度を取ってしまうものの、彼なりに心配しているのだろう。本当に心配していなければここまで尋ねてくる事はまず無い。
和人は小学校は別だったが、最初の学級活動で同じ班を組んだ事がきっかけとなって現在の友好関係に至っている。
和人について少し詳しく説明する。和人は細かい所にまで気が利く性格であり、顔の割りに温厚な性格でありながらもいざって時には機転の良さから周囲からの信頼も厚い。
そんな彼にも傍から見れば少し変と思わざるを得ないようなところがある。
和人は大の演歌好きである。別に身内に演歌歌手がいるわけでも無いし、演歌が好きな親戚もいない。どういった経緯でそうなったのかは皆目見当もつかないが、一たび演歌の話題に触れれば周囲が思わず閉口せざるを得ないほど語り始めるし、カラオケに行けば玄人はだしの熱唱をする。そのせいか、演歌が好きな教師や地域の爺さん婆さんとは仲が良く、地域の老人会のカラオケ大会で毎年毎年熱唱するというツワモノであるという噂も巷間、まことしやかに囁かれている。
「いや、別に何も無い。朝飯食ってねえから」
「食えよ、朝飯ぐらい」
「俺はお前みたいな早起きじゃないんだよ」
呆れ口調の和人に皮肉口調で答え、再び視線を窓の外へと泳がせる。
和人もそれに習うように視線を外へと移す。
「マジなところさ――――」
外の平凡極まりない風景を男同士二人で眺めながら恭也が誰に言うともなしに言った。
「なんだ?」
「魔法って実在すると思うか?」
返事はすぐに返ってこなかった。無視をしたわけではなさそうだし、考えている様子も、背中に感じる気配にはなかった。
尋ねてからどれぐらいたったのかよく分からなくなり始めた頃、ようやく返事が返ってきた。
「あるんじゃねえの?」
返事が返ってくるのが遅すぎて、和人が言った意味がすぐには分からなかった。自分自身も何となく尋ねただけなのでよく覚えていないが、魔法が実在するか否かを尋ねていた気がする。
しかし肯定の返事が返ってくるのは予想外だった。あっさりと否定されるのではないかと思っていた。もしかしたら自分に気を遣っているのではないかと思ったが、振り返って見ててみると、和人は至って真面目な顔だった。冗談を言ってるようにも、哀れんで気を遣っているようにも見えなかった。
「要は考え方一つじゃないのか」
和人の視線は相変わらず外を向いている。
「あると思えばあるし、ないと思えばない。いると思えばそこらでなびくシーツだって幽霊に見えるし、数学の西塚は河童にも思えるし」
難しすぎてよくわからない。
和人は時々、こういう事を言うのだ。そのせいか、周囲からは演歌マニアであると同時に詩人だとかポエマーだとか言われてる。
彼の言った事全てを十分に理解できたわけではないが、和人の言う通りなのかもしれない。いると思えばいつだってすぐそこにいる。いないと思えばそこに本当にいたとしてもいない。考え方一つでその正体や実在するかの考えは大きく変っていくのだ。
だとしたら、自分にとって魔法の存在とは何なのだろうか。
「私は魔法使いなんです」
衝突の衝撃。妖しいほど輝く月の光。現実のものとは思えない空間。
蒼い瞳の異世界からやって来た幼い魔法使い。
「来生、おい来生」
和人の声に、回想から現実へと強制送還させられた。
「シャー芯が手にめり込んでる」
指摘されて自分の左手を見ると、右手に握られていたシャープペンシルの先がいつの間にか自分の左手の甲に突き刺さるように乗っていた。そこで初めてその痛みを感じ、すぐさまシャープペンシルの先を引っこ抜く。直径1㎜程度の窪みがみっともないぐらいくっきりと出来上がっていた。
「しっかりしようぜ来生」
そう言いながら肩を叩かれ、チャイムがなると同時に英語の大端が教室に入ってきたので、和人は逃げるように自分の席へと戻っていった。大端が教科書と出席簿とその他諸々を教壇に叩きつけるように置き、学級委員がフライング気味に号令をかける。亡霊のように窓の外を眺め続ける恭也を除いた38人が大儀そうに席を立ち、面倒くさそうに会釈よりひどい礼をし、フライングと言うのも躊躇われる早さで座った。
授業の内容など全く耳に入っていない。
開けるだけ開けられたノートは白紙同然であり、教科書は全く関係の無いページが開け放たれ、手には相変わらずシャープペンシルが虚ろに握られていた。初夏の西に傾き始めた陽光が窓際にある恭也の机の上を照らしている。光がノートの白に反射して眩しいのだが、そこの事さえも今の恭也の脳には認識されていない。
学級委員の面倒くさげな号令で教室内の生徒39人が眠たそうにノロノロと席を立ち、適当この上ない礼をして大端は教室を後にする。誰かが言うわけでもなく、日々の習慣として自分の椅子を机に上げ、教室の後ろへと詰めるように下げて各々の掃除の持ち場へと向かう。恭也もまた同じく掃除を始める。脳細胞の割り当てを変更して一割を掃除にまわして、残りの九割方で物思いにふける。ほとんど無意識で動いていたので、普段より多めに働いて周りから怪訝に思われたのにすら気がつかなかった。
そしてホームルームが終わる。いつものように訪れた放課後の気だるい雰囲気の中、恭也はすぐさま鞄を引っつかみ、人と机の間を足早にすり抜け、まだ人影も疎らな廊下を駆け抜け、うっすらと綿埃の積もった階段を転げ落ちるように降りる。全く無人の昇降口の下駄箱を開けて、薄汚れたスニーカーのつま先を床に叩きつけながら、足を蹴り込む。すぐさま自転車置き場に向かって、今朝鍵をかけ忘れていたことに気が付くが、そんな事に目もくれずに自転車にまたがり、校門をくぐり抜け、必死にペダルをこいだ。
家に帰りつくとまず玄関の段階で既にカップラーメンの鶏がらスープの匂いが漂っていた。
たったそれだけの、とてつもない事態に恭也は腹の底が冷たくなった。
カップラーメンは意外なぐらいによく匂う。玄関にいてもそれと分かるぐらいに匂うのだから、不審に思った母があちこち探し回る可能性は無には出来ない。
それだけの事を考えきるよりも先に体のほうが圧倒的に早く動いていた。さして急でもない階段を四つん這いで駆け上がり、自室の部屋の扉を乱暴に開いた。部屋の中にはいつも通りの、全く無人の恭也の日常が満ち溢れていた。
クローゼットの中だろう。そう祈りながらクローゼットの扉を開け、中を覗き込む。
ミリアの姿はなかった。
動けなかった。脳は一切の思考と体の制御を放棄し、全身の筋肉は恐怖に似た緊張に支配されていた。
その場にくずおれるような無気力感と絶望が恭也を満たしていく。
一階にいる恭也の母にして、来生家の財布の紐を掌握している来生菜月が恭也の名を呼ぶ声を引き金に、全身から緊張が抜け、恭也はクローゼットを呆然と眺めたままへたりこんだ。その横顔は、鏖戦を死に損ねた敗残兵さながらであり、途方も無い絶望と自責の念がにじみ出ていた。
「恭也ー」
再三名前を呼んでも返事すらしない事に腹が立ってきたのか、菜月の声に少々の苛立ちが含まれてきた。
恭也は死相を浮かべたまま、ゾンビのように立ち上がり、廃人みたいな足取りで一階へと向かった。
恭也が居間へため息を吐きながら入ると、そこにはいつも通りの菜月の姿があり、その横ではいつも通りの美凪が畳の上に寝転がりながらマンガ雑誌を読んでいた。全くいつも通りの、平凡極まりない日常の姿。
そんな日常のど真ん中に非日常が使い古された座布団の上に鎮座していた。菜月の真正面にテーブル一つを挟んで、まるで叱られている子供みたいにミリアが正座をしていた。恭也の表情が、ゾンビの死相からバカ丸出しのアホ面へと立ち代わる。
状況がさっぱり分からない。
見たところ二人ともミリアの存在には気が付いているようだが、それについて何の疑問も抱いてはいないようだった。ミリアが正座しているのには、今朝の様子からして特に意味は無いのだと思うがしかし、
「どうかしたの?」
「どうかしたの って言われても、この子は一体どうして」
「一体どうして って言われても、しばらく預かってる親戚の子がどうかしたの?」
二人の口調が似ているのは親子所以か否かはさて置いて、菜月の言葉が気になった。
――――親戚の子。見たところ菜月は冗談を言っているようには見えないし、さりとて嘘を吐いている様子でもない。ここで嘘を吐くべきは恭也の方だ。
「親戚の子?」
恭也の呟き同然の問いにマンガ本に視線を向けたまま美凪が答える。
「親戚の子をしばらく預かることになったって・・・言ってなかった?」
言われた恭也は当然、何が何だかさっぱり分からない。だが何やら好都合な状況らしいので、適当に相槌を打っておく。ミリアのほうに目をやると、ミリアはまるで悪事を見破られた瞬間のように体を強張らせてうつむく。やっぱりこいつの仕業か。うすうすはそう思って―――いや、どう考えてみたってミリアの仕業だ。親戚の子を預かるような様子は今の今まで欠片もなかったし、来生家の親戚に外国人の類はいない。そもそもミリアは親戚でも無いどころか、この世界の者ですらない。
「あ、でも部屋とかは」
恭也が今日一日中考え続けていた問題の一つを、菜月がどう解決してくれるのか気になったのもあるが、普通に預かると言ってもどこで寝起きするのかぐらいは知りたかった。
菜月は恭也が一日丸ごと費やした問題を、さも大した事でも無いかのように、せんべいの袋を慣れた手つきで開けながら解いた。
「美凪と一緒の部屋にしておこうかと思ったけど、恭也の部屋が気に入ったらしいのよ」
それはつまり、
「俺の部屋?」
ミリアは自分の部屋に、一家公認で住み着くということになる。
そりゃあ、恭也はミリアを自分の部屋にしばらく置いておこうと思ってはいたが、それはあくまでも家族の目からミリアを隠すための処置だった。だが家族の許しが取れた今となってはそれはもはや必要ない。
「変なことしちゃダメだよ?」
「変なことって何だよ」
冗談で言っていると分かっていても、ついムキになってしまう。そう言うのならお前の部屋に住み着かせろよと反論したが、そんな恭也のささやかな抵抗は、空しくも菜月・美凪の連合の前に撤退を余儀なくされ、やむなく自室へと逃走を図った。そのすぐ背後を子犬のようにミリアがついて来る。恭也は後ろ手に扉を閉め、つかつかと部屋の中を横切り、窓を静かに開け放つ。初夏の香り漂う風に薄汚れたカーテンがふわふわと揺られる。しばしの間だけ、沈黙が流れた後
「一体どういうことなんだ?」
振り向きざまに恭也が尋問を行う警察官のような厳かな顔と口調でミリアに問う。
ミリアは前みたいに逡巡した挙句に蚊の鳴くような声で答えた。
「少し、魔法を」
なんだ魔法か。と恭也が納得しかけた寸前に事の重大さに気が付いた。
「待てよ待て待て。お前今魔法って―――」
「は、はははい!」
「お前が本当に魔法使いだって事は知ってる。けど魔法で記憶を弄ることは無いだろ?」
「でもそうしないと恭也さんに迷惑がかかるかもしれないから」
反論の余地は無かった。ミリアが記憶操作を使う事になったのは家族の誰かに見つかったからだろうし、見つかったのも、恭也がミリアの身の置き場所をよく考えずに自室に泊めたからだ。
自分の情けなさと状況の無茶苦茶さにため息が出る。
「で、その魔法ってどれぐらいの間は効果があるんだ?」
よくあるパターンみたく有限かもしれないので、聞いておく。
「もって1時間です」
「魔法を使って何時間経った?」
「4時間ぐらいです」
「待て」
小学生でもわかる矛盾点である。
「4時間前にかけた制限時間1時間の魔法が何で今も効果を発揮してるんだ?」
「まま、ま、また別の魔法をかかかかけたたからです」
恭也の剣幕がよほど恐ろしいのか、両腕をつかまれたミリアが今まで以上のどもりを発揮する。
「別の魔法?」
「ささ最初につつっかったまほ」
「悪いが日本語で喋ってくれ」
両腕つかまれて物凄い形相で睨まれてる上にガクガク揺さぶられれば、小動物みたいな性格のミリアじゃなくても日本語を話す方が難しいが、今の恭也はそんなこと欠片も考えていなかったし、ミリアも考え切れていない。
最初に使った魔法はその場しのぎの簡単なもので、効果時間が過ぎる前に二人に見つからないようにこっそりと、しっかりとした魔法をかけて記憶を操作たんです。こっちは限界効果時間がなくて、行使者が任意に解除できるタイプなので、私が解除しない限りは大丈夫です。ちなみにこの魔法は構築式が結構難しくて、見つからないようにするから時間が掛かったんですけど。要約するとそういう意味の説明をミリアはした。初めは相変わらずのどもりっぷりなので理解し辛かったのだが、その内ミリアも緊張がほぐれ、恭也も正常な状態に戻ったので、後半は割りとスムーズに話が進んだ。
「で、その魔法は効果が切れるって事は無いんだな?」
「はい、原則として私が解除するか、他の誰かが強制解放をしない限りは大丈夫です」
「強制解放?」
「魔法の構築式に割り込んで、その式を意図的に書き換えたり、削除することで魔法の効果を消滅させることです」
「なんとなくは分かるが・・・ようするに、プログラムをハッキングするって事か?」
「よく分かりませんけど・・・多分そうです」
それでこの話は終わると思っていたら、ミリアが話を続ける。
「高位の魔法ほど構築式が難解で、書き換えなんかも難しいんです。半端な部分を書き換えても効果の減りは小さいので、中枢部分を書き換えた方がいいんですけど、高位な魔法であるほどプロテクトが強くて、割り込みにくいんです。高位魔法が使える人は大体、プロテクトの構築も上手だから」
「わかったわかった、その話はまた今度」
この調子だと一日中話しそうなので、大声を出して無理矢理話を遮る。ミリアの言う『強制解放』とは、大体こんな感じなのかもしれない。
恭也の父こと典明は、拷問のような満員電車から這い出て、駅から自宅への帰路に着いていた。
駅から家までは、とても徒歩でいけるような距離ではないので市営バスを利用している。自宅の最寄のバス停までおよそ20分。その20分の間に典明は何度と無く睡魔に襲われ続けていた。一日の疲れもあるのだが、何よりも満員電車での激闘がその主な原因なのではと考えている。過去に3度ほどバス停を乗り過ごした経験はあるのだが、如何にしても抗えないのは人の性か。
幸いにして今日はバスを乗り過ごすことも無く、今は自宅までの行程を全て消化し、残るは家に入るのみ。
何となく腕時計に目をやる。時計の2本の針は8時21分である事を黙して告げていた。
左のポケットに手を突っ込んで鍵の在処を探す。
これだ と思って取り出したものは鍵は鍵でも車の鍵であった。いつもの事なので、冷静にその鍵を収め再び再挑戦する。
ネクタイピンが出てきた。そういえば昼間に一度取れたので後で付けておこうとしてたんだっけ。どうせ後ですぐにネクタイごと外してしまうのだが、気分的につけておく。
気を取り直してポケットの中にもう一度手を突っ込むと、今度は寿命僅かな黄色の百円ライターが出てきた。3日もすればガス欠で御役御免になるだろう。今度はボールペンのキャップが出てきた。更に今度はのど飴の小さな袋。
典明は半ばヤケになりながら左のポケットをあさくり回すが、目的の品は一向に出てこない。鞄を足元に置いて右のポケットを探ると自宅の鍵が出てきた。ヤケになりながら鍵を突っ込み、力任せに回して扉の鍵をあける。
腰まである長い綺麗なブロンドの髪、白くきめ細かな肌、幼さ全開のあどけない整った顔立ち、鮮やかで透き通るような蒼色の瞳―――な、少女が玄関で待ち構えていた。
そんなこと予想だにしなかった典明が呆然とする間もなく、少女はペンダントらしき物体を典明に突きつけて、何事かを唱え始めた。するとペンダントにはめ込まれた蒼色の宝石が輝きを発したと同時に、周囲に幾何学的な図形と象形文字が何らかの規則を持って現れた。
「おとーさん」
美凪が身長差30cm弱の典明の顔を見上げながら、災害現場で救助者に声をかける救急隊員みたいな口調で言い掛けていた。典明は間の抜けた声を上げながら、歩を進める。
「靴」
典明の足元を指差して美凪が不機嫌そうに言う。それに倣うように足元を見ると、自分が靴を履いたままである事に気がついた。その場を取り繕うように乾いた笑いを浮かべながら革靴を脱ぐ。顔を上げた頃には美凪は背を向けて居間へとすっこんでいく所だった。
ふと腕時計を見る。時計の2本の針は8時27分である事を黙して告げていた。
「ただいま」
「おかえり」
典明が居間に踏み込むと、恭也が10年ぐらい前のモデルのブラウン管テレビを眺めながら独り言のように応え、それから3拍ほど遅れて菜月が「おかえりなさい」と応えた。恭也のすぐ横で物珍しそうにテレビを見ていたミリアが、『びしぃ』という擬音がしっくりきそうな感じに立ち上がり、
「お、おお おかえり な なな、さい」
いつものようなどもりっぷりを披露する。
「ききょき 今日かから、おおおお世話になななります、ミ・・ミリア・ラーファイム です」
「ああ、君がか。誰かと思ったら」
そこへポテトチップス(カレー味)を右手に提げた美凪が居間に入ってきて
「ミリア、食べる?」
「え、あ はい。食べます」
美凪はポテチ(カレー味)の袋を適当に開けながら、恭也の斜め前――ミリアの正面に座する。ちなみにカレー味は来生家では美凪しか食べない。もっぱら醤油味の方が人気がある。
初めて目にする物体に興味津々なミリアに典明がポテチ(カレー味)について説明する。そんなミリアの様子を、恭也は横目で眺めながら「こいつめ」と思う。
10分ぐらい前にミリアはトイレに行くと言って居間を出たかと思うと、1分もしない内に戻ってきた。そして、それからしばらくして典明が居間に来た。
ミリアにはトイレの場所を教えていない。
自分で見つけたと言えばそれまでだが、恭也の知る限りでは女がトイレに行って1分もせずに戻って来るのはほとんど無い。つまり典明が帰って来たのを何らかの手段―――恐らくは魔法―――を使って前もって察知しておいて、ドアを開けた瞬間に例の記憶操作の魔法をかけたのだ。典明を目にした時のミリアのこれまで以上のどもりっぷりは、多少の不安、或いは罪悪感から来るものだろう。
横ではミリアが美凪と一緒にポテチを食っている。
「恭也さんも食べます?」
「いや、俺カレー味嫌いだから」
すると何故かミリアは不思議そうな顔をして
「おいしいですよ?」
「でも俺は好きじゃないんだ」
「食べてみれば分かりますよ」
「食べてみれば分かったから好きじゃないんだよ」
「恭也ー美凪ーそれとミリアちゃん、お風呂入れたわよー」
と、母の声量の割にはえらく耳に届く声が割り込んだ。すかさず恭也はカレー味ポテチ回避のために話題の転換にかかる。
「だってよ、ミリア。先に入ってこいよ」
「後でいいですよ。居候同然の身なのにそんな図々しいことはしたくありません」
あっさり返された。そりゃあ人の家の風呂に入りにくいという気持ちは、時々知人の家に泊り込んだりする恭也も分かる。しかし自分は今風呂に入りたい気分じゃない。
「気にするなって、昨日だって風呂に入って無いだろ?」
「そ、そうですけど・・・」
こっそりバレないように―――傍からはバレバレだが、自分を嗅ぐミリア。言われて気付いたようだが、女の子だからこういう事は気になるらしい。
そしてその横で美凪は袋の中に僅かに残ったカレー味ポテチの破片を口の中に流し込む。どちらが先に風呂に入るかで口論を続ける我が兄と親戚の少女を横目で見ながらポテチの袋をゴミ箱の中に放り込み、先に入ってるよ と言い残して居間を後にした。
10時43分。
恭也が風呂から上がり、タオルで頭をわしゃわしゃと拭きながら居間に戻ると、ミリアが縁台の上に座っていた。
この縁台は去年の秋に典明が日曜大工で作った作品である。まだ半年と2ヶ月ぐらいしか経っていないので、やけに真新しい上に家本体が若干古いので、そのコントラストがやたらと目立つ。
縁台で涼むとはまた随分と風流なやつだと恭也は思いながら冷蔵庫の中からジュースの缶を2本取り出す。
「なあ、ミリア」
ミリアは振り返りも、微動だにもせずに背を向けて縁台に座り続けている。微かな月光が居間の日焼けした畳の上に彼女の影を描いている。恭也は黙ってミリアの隣に座る。
ミリアは遥か空の彼方に浮かぶ、微かに欠けて膨らんだフットボールのようになっている月を眺めていた。
昨晩あれほど輝いていた月も、今晩は普段通りの輝きだった。
「ジュース飲むか?」
恭也はジュースの缶を一本ミリアに差し出したが、ミリアは微動だにせずに月を見上げていた。居心地の悪さを感じた恭也はミリアの傍に缶を置いた。滴る水滴が縁台の木材に滲む様子をしばし眺めた後、恭也もミリアの横で月を見上げることにした。こうして輝く月を見ていると、昨日の事が鮮明に思い出される。
「月をバックにして落ちてきたんだよな」
思っていたことが勝手に口を突いて出てきて焦った。だがミリアは気にする様子はなく微動だにしない。
ミリアは月を見ながら何を思っているのだろうか。考える必要すらない。恐らくは彼女がもといた世界―――そこにいるであろう家族や友人の事を思っている。何しろ年端も行かない子供だ。訳も分からず、見ず知らずの地にいて、帰る方法も分からない。普通なら気がふれてもおかしくない。
「ふあっ」
急にミリアが変な声を出すので何かと思ったら恭也の右手がいつの間にかミリアの頭を撫でていた。
恐らく彼女の事を考えている間に無意識に右腕が動いたのだろう。
「わ、悪い」
慌てて手を引っ込めるが、かえって気まずい雰囲気になってしまう。
いっその事そのまま撫で続けていた方がよかった気もして右手を上げかけるが、すぐに下ろしてしまう。子供といえど女性の頭を撫で続けていられるほどの度胸を恭也は持ち合わせていなかった。それに自分がミリアの頭を撫でてやったところで、彼女が元の世界に戻れるわけがないし、懐郷の念からくる哀しみが癒えるわけでもない。しいて出来ることといえば、ジュースの缶を持って彼女の横に座っていることぐらいだった。
だが今の自分にそれだけでも出来るのなら、それを喜んで引き受けようと思う。ミリアがもとの世界に帰る方法を一緒に探すと彼女と約束したのだから。
ため息を一つ吐いて、もう一度ミリアを見る。と同時にミリアが上体が段々と前に傾いでいった。顔面から転げ落ちそうになる寸前のところでミリアの身体を支える。
「ミリア?」
返事が無い、ただの眠り人のようだ。
「・・・座ったまま眠るなよ」
半ば呆れつつミリアをお姫様抱っこの要領で抱き上げる。女の子は羽のように軽いというのは男の妄想の世界だけで、腕の中のミリアは細身ながらそれなりに重かった。
群雲の微かにかかった月は青黒い、広く果てしない空の中から少年と少女を照らしていた。
という事で『Lyrical Despair』第2話でした。
5話までは以前投稿していたものがあるので、すぐに投稿できるのですが、それ以降は現在鋭意制作中です。ちなみに第1話は前半部分が気に入らなかったので、その部分を全面的に書き直しています。
読み仮名が付けれるという事で、少し難しそうな漢字を中心に入れてますが、自重した方がいいかもと思っています。
それでは、次回をどうぞお楽しみに。