12話 時計の振り子
この作品は悲喜劇です。どうぞ皆様、最後は笑ってやってください。
夜中にパッと目が覚めた。スマホを見るとまだ午前3時。起きる時間には程遠い。
「コーヤとのデート、楽しかったな……」
昼間のデートは本当に楽しかった。まるで昔に戻ったみたいにはしゃいでいる自分がいた。きっとコーヤは私の急変ぶりに驚いていただろう。繋いでいる手もどこかたどたどしく、話す時もあまり目を合わせてくれなかった。
「たぶん天助くんとのこと、気付いちゃったんだよね……」
おととい土曜日の朝、起きがけのコーヤの顔色は悪かった。また風邪でも引いたかなと、あの時はそう思ってたけど今ならわかる。おそらく私のスマホを覗いて浮気していることを知ったんだ。
確かその日の前日、天助くんの家から帰った私はリビングのソファーでそのまま寝ていた。目が覚めた時、タオルケットが掛かっていた。きっとコーヤが掛けてくれたんだろう。そしてテーブルの上には私のバッグ。たぶんその時に……。
天助くんとのL1NEには、禁じられた愛に興じる二人の言葉が残っている。コーヤはスマホなんて覗かないと高を括っていた。
昨日だってそうだ。コーヤが家にいないのをいいことに、朝まで天助くんとベッドの中にいた。
「そろそろ兄さんと別れたら? このままだと可哀想だよ」
「う~ん……そうだよね」
「一応血を分けた兄弟だからさ。ずっと騙し続けるのも申し訳ないよ」
「うん……」
「君さえよければ、おれはいつでも結婚するよ。愛してる……怜奈」
天助くんは私が欲しい言葉をいつだってくれる。三十手前で焦ってる訳じゃないけどやっぱり結婚のことは考えてしまう。親にまだかとせっつかれることもあった。
昨日の朝方、彼の匂いを身に纏いコーヤが帰宅する前に私は家に着いた。少し飲み過ぎて頭が痛い。キッチンへと向かい麦茶を飲もうと冷蔵庫を開けた。
するとラップをかけた私の茶碗が目についた。中身はチャーハンだった。コーヤが夕飯で作ったものを私のために取っておいてくれたんだろうか?
お腹は減ってなかったけどちょっと食べてみたくなった。レンジで温めリビングのソファーに座る。一口食べると懐かしい味が口の中に広がった。
「美味しい……」
コーヤは決して料理が上手いとは言えない。ただこのチャーハンは私が大好きな味だ。いくら作り方を教わっても、なぜかこれだけは真似できなかった。
「なんでこの味が出せないのかなぁ? 材料も一緒なのに。なんか隠し味入れてる?」
「うーん……火加減の問題?」
「そこは愛情が入ってるからでしょ~もう!」
「あはは、ごめんごめん」
コーヤの優しい笑顔が蘇る。私は夢中でチャーハンをかき込んだ。
「んぐっ……んぐ……ぐすっ……。うっ……うぅぅうわぁーーん」
どうしようもない後悔が突然嵐のように襲ってきた。顔が歪み涙が次から次へと溢れてくる。
「ごべぇんコーヤ! ごべぇぇん! わだ……わだしはなんてひどいごとをぉ!」
うねるような感情が私をこれでもかと押し潰す。大切な人を裏切った愚か者に、大きな罰を与える。心が一瞬でズタズタに引き裂かれた。
「カチカチカチ」と振り子の音が耳に届いた。見上げるとそこにはコーヤからもらったからくり時計が。
付き合い始めてから十年。このからくり時計はずっと私たち二人と同じ時を過ごしてきた。
告白された時のことは今でもはっきりと覚えている。夕陽が見たいと私がねだって行ったお台場。がちがちに緊張しながらも、コーヤは一生懸命にその想いを伝えてくれた。心の底から嬉しかった。泣きそうなくらい嬉しかった。
「なのに私は……」
そんな気持ちをころっと忘れ、あろうことか彼の弟に現を抜かしていた。慢心、甘え、自己欺瞞。いや、すでに心変わりをしていたかもしれない。
天助くんに抱かれ、何食わぬ顔で家へと帰る。あっちへフラフラこっちへフラフラ。二人の男の間を行ったり来たり。これじゃまるで時計の振り子のようだ。
からくり時計は何も言わず、ただ淡々と時を刻んでいた。
その日、一度寝て起きた私は久し振りに食事の用意をした。コーヤが好きなたまごのホットサンド。珍しくキッチンに立つ私を見てコーヤはびっくりしていた。なにかを誤魔化すみたいに私は努めて明るく振舞った。
もう遅いかもしれない。そんな焦りを抱えながら、失った時間を取り戻すように私は喋りまくった。
二人の思い出の店で天助くんと会った時は、流石に動揺を隠せなかった。あんなにかっこいいと思っていた彼の顔も、なぜかあの時は歪に見えた。いつもの優しい微笑みも、コーヤを見下した嘲笑のように感じた。
そんなことを思い出しながら、私はベッドから体を起こし再びスマホに目をやる。そこには天助くんからのL1NEが数件。きっとお店で会った時、私の態度がおかしかったからだろう。どうせ返す文章が思い浮かばない。店を出てから全部無視していた。
重たい足取りでトイレに向かう。リビングを通る時、いつもの癖で時計を見たが、あるはずの時計がそこにはなかった。一瞬泥棒かと思い急いでコーヤの部屋の扉を開ける。なぜか部屋は薄明るく、常夜灯が点いていた。コーヤはスヤスヤと寝ており私はほっと胸を撫で下ろした。
修理でもしたのだろうか? からくり時計は作業台の上に置いてあった。
私はベッドにそっと近づきコーヤの寝顔を見た。久し振りに見る彼の寝顔は昔とちっとも変ってなかった。自然と涙が溢れてくる。
「ごめんね……コーヤ……」
消え入るような声で私は呟いた。そして彼の頬にそっと触れた時、堪えきれない涙がとめどなく流れた。私はその場で声を押し殺して泣いた。
「うぅ~ん……はっ!」
自分の唸り声で僕は目を覚ました。シャツはびっしょりと寝汗で濡れている。どうやらうなされていたようだ。
「僕はとうとう見てしまったのかもしれない……」
昨夜寝ている時のことだ。かすかに女性のすすり泣く声が聞こえた気がした。朧げな意識の中、僕はうっすらと目を開けた。すると視界の片隅で肩を震わせ泣いている女性がわずかに見えた。驚きのあまり、僕はまるで金縛りにあったかのように体が硬直した。いや、あれは紛れもなく金縛りというやつだろう。
「神様、仏様、キリスト様……!」
僕は目閉じ心の中でそう叫んだ。こんな時だけ縋るなんて調子の良い奴だとは重々承知している。でも藁がないなら神に縋るしかない。
「…め………や」
女性の霊がか細い声でなにかを囁いた。…め………や? あぁ、やっぱり「うらめしや」ってほんとに言うんだな。そう思った瞬間、冷たい手が頬に触れた。そして僕の意識は再び闇へと落ちたのだった。
僕は濡れたシャツを着替えリビングに向かった。怜奈はすでに会社に行ったようだ。やはり怜奈にも霊のことは伝えた方がいいだろう。このマンションは彼女名義だ。もし僕と別れたとしても、彼女はここに住み続けるかもしれない。
コーヒーを飲みながらそんなことを考えていると、部屋に置いていたスマホが鳴った。急いで戻り画面を見ると電話の相手はメアリーだった。
「もしもし。どうしたの?」
ガサゴソと音がし、数秒の間を置いてメアリーの声が聞こえた。
「コウヤっち……私……人を殺したかもしれない」
「――!?」
僕の中で点と点が一本の線でつながった。