第80話
「今日の楓、雑魚くない?」
うっさい。
それは自分でもわかる。
ボールを握った1ステップ目にドリブルが覚束ない。
ブランクのせいだが、アイツのせいでもある。
「あんたら、あいつが来とるで」
タオルで汗を拭いてスポーツ飲料水を飲みながら、クイっと親指を突き立てて亮平の方に倒した。
あそこあそこ。
あの正座してるヤツ。
「え?」
綺音は誰のことか一瞬わからないようだったが、アキラはすぐに気づいた。
「うっそ、久しぶり…!」
声が裏返ったのかと思うほど高い声量で驚いている。
ディズニーランドで着ぐるみミッキーを見つめた時のようなテンションとさほど変わらないが、そんなに珍しいか?
「アイツ引退しとんのに、何しに来たんやろ」
そもそもアイツは中学生じゃない。
中身はおじいちゃんだ。
本人は情報がダウンロードされただけだから、本質的には「14歳の亮平」のままだと言っていたが。
「後輩の練習のために来たんとちゃう?」
あいつが?
後輩のために?
そんな人格者な要素はアイツにないぞ。
…あぁ、いや、長い人生を送ってきたんだから、昔のままの亮平じゃないことはわかるんだけど、誰かを指導するなんて、そんな大それたことができるというイメージそのものが無い。
「世界を正したい」とか、どこの政治家だよと思っちゃうくらいトンデモ発言をしてたくらいだから、可能性は0ではないけど。
昼飯の時間が来て、体育館の床に座り弁当を開封する。
クリスマスは何したん?
とかの話題で談笑しながら、3人で亮平の様子を見てた。
すると正面の入り口から校長が現れて、そのあとに2人の先生?みたいな大人の方が、剣道の袴を着て入ってきた。
私たちは不意に現れた校長に頭を下げ、こんにちはと挨拶する。
後から付いてきた男の人たちはスタスタ亮平の前まで歩いて行き、「今日はよろしくお願いします」と頭を下げると、それに返すように亮平も頭を下げ、「こちらこそよろしくお願い致します」と言った。
何が始まるんだ…?一体。
袴を着た男の人の1人が、亮平と対面の場所に座って、頭に手ぬぐいを巻き始めた。
頭に手ぬぐいを巻いたということは、恐らく次に面を被るんだろう。
亮平はその男の人が面を被り、手を後ろに回して紐を結んでいる様子を微動だにもせず見ていた。
剣道を知らない人なら、この光景が何を意味するか把握できないかもしれない。
私も久しぶりだったからその光景を忘れていたけど、向かい合う2人の対角線上では、すでに勝負が始まっている。
ピリピリとした空気が体育館内に漂い始めているのは、このあと、この2人が手を合わせるからだ。
正座するその横に竹刀を置いて、静かに息を整えながら面を被る。
その間、亮平は膝の上に手を置いて鎮座している。
これは、これから対峙する相手に対しての敬意でもある。
また、男の人の、手ぬぐいから面を被るまでの1つ1つの作法は、これから戦いますよという「合図」でもあり「礼儀」でもある。
戦う2人のために剣道部の1、2年生達は場所を空けて、全員がその様子を見ていた。
これから始まることを邪魔しないように、黙って正座しながら待機しているんだ。
ついさっきまでダラダラ練習してたくせに。




