第70話
「桐崎千冬。あいつが、『クロノクロス』の開発者や」
…は?
…桐崎、千冬?
…いやいやいや、なに言ってんの?
「中学時代の間、アメリカのアカデミーにいたあいつは、クロノクロスの機器とその技術についての着想を得た。高校を卒業後、ストックホルム大学に行ったあいつは、同僚の仲間たちと一緒に物理の研究に没頭する。27歳の頃、ある量子実験の結果の数値に注目する。「ベッケンシュタイン境界」と名付けたエネルギー状態に対する量子効果の観測が、ベルギーにある研究施設で発見された。2027年。『クロノ・クロス』の本格的な開発が始まった年や」
あんた、なに言ってんの…?
開発?
研究?
その前に、…「誰」だって??
「せやから、千冬や」
「…キーちゃんが、科学者?!」
キーちゃんは、確かに天才だった。
子供の頃からサイエンス系の雑誌を部屋中に飾っていたし、小学生のひとり部屋には似つかわしくない巨大なホワイトボードが、部屋のスペースの半分を占領してた。
女の子らしいアイテムなど1つもなく、殺風景な、というか、必要最低限のものしかないというか。
黒縁のメガネに、セミロングの金髪。
小学生にしては、どこか大人びていて、それでいて、奇抜な見た目。
キーちゃんと私は、須磨の海で知り合った。
小2の時だ。
お母さんの誕生日プレゼントにと、砂浜の貝殻を拾い集めていた。
ザァー......
ザァザァ......
ザザー......
あの日は午後の晴れ間が心地よく、街の喧騒なんて聞こえないほど澄んだ波の音が、耳の中で揺れていた。
海は微かにざわめいて、静かな時間が流れていた。
まるでそこだけが違う時間の流れを持っているように、波打ち際の水の動きは小さく行ったり来たりしている。
私が、いつまでその場所にいたのかはわからないけど、ふと周りを見ると家族のみんながいなくなっていた。
どこに行ったんだろうと砂浜中を歩き回っても、見つからない。
歩けど歩けど、砂浜の地平線は彼方まで続くようで、砂漠のように果てしない土地が広がっていた。
「…お母さーん!お母さーん!」
いくら呼んでも、返事はなかった。
空虚な静寂と海のゆらめきが、私の声を反射して、静止した時間が、無限の回廊のように続いているかのようだった。
私は途方に暮れていた。
辺りを見ても、人気は無い。
まるで世界に1人だけ取り残されたように、全ての気配が途絶えたかと思われた矢先、聞き覚えの無い女の子の声が、さざなみに紛れて聞こえてきた。
「そっちへ行ってはダメ!」
怒鳴るでもなく、叫ぶでもなく、普通の会話のトーンのように穏やかに響く音色が、風のようにサッと吹いた。
振り向くとそこには1人の女の子がいた。
茶色く、くっきりとした瞳。
海風に揺らめく長い髪の下で、じっとこちらを見つめていた。
黄色いワンカラーのワンピースに、麦わら帽子。
サクッサクッという乾いた音と一緒に砂の上をサンダルが踏みしめ、近づいてくる。
「こっちへ来て」
その一言を発すると、彼女は右手を差し出していた。
…え?
その手を掴もうとするが、ふと視線を下に向けると、その手の下に奇妙な窪みが広がっていた。
いつの間にか、砂浜の上に敷かれていた一本の線。
木の棒か何かでなぞったと思われるほど脆弱だが、海と、その反対側の山の方まで一直線に敷かれている綺麗な線。
その線の境界を隔てて、私と、その女の子は立っていた。
「私の手を握って」
キーちゃんが私に放ったその言葉は、私の一番古い記憶の中に今も閉じ込められている。
古くて、温かい。
それでも、思い出そうと思えばすぐにでも思い出せそうな特徴的な声色は、青でも赤でも黄色でも無い。
限りなく透明に近い、“何か”。
形容し難い水の流れのような「形」の無いもの。
それでいてどこか、巨大な輪郭を映すような確かな「影」を持っているもの。
いずれにしてもそれは、私の記憶の中で特別な「色」を持っていた。
キーちゃんに向けて、手を差し出した。
その手を握ると、波打ち際の水が一瞬止まり、水平線の向こう側に向かって吸い寄せられるように波が逆流し始めた。
ビュュュゥッと、突風のような激しい風が後方から吹き抜ける。
何事かと思ってその手を離そうとするが、キーちゃんは私の手を離さなかった。
こっちへ来て。
その言葉と一緒に、波の音がこだましている。
…ザァザァ
…ザザザザー
記憶は一旦そこで途切れている。
その後になにが起きたのかは覚えていない。
でもその日確かに、キーちゃんを見た。
決して夢なんかじゃない…とは思う。
今では、それが夢だったかと疑われるほど、思うように記憶を辿れないけど、そのシーンだけは少しも色褪せることがなく、頭の片隅に残っている。
キーちゃんはそのシーンを、よく思い出せないと言うけれど。




