第685話
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ザザァ
ザザザ…………………
あれから、どれだけの時間が過ぎただろう。
どれくらい、遠くまで歩いてきたかな?
誰かの姿を追っていた気がする。
誰かの隣にいた気がする。
そう思うのは、気のせいだろうか?
私は、気がつけば海にいた。
それがいつからで、どれくらいの前のことかもよくわからない。
…自分の名前、場所。
何もかも思い出せるのに、なぜか、ものすごい時間が経ったような感覚が、頭の中にあった。
今日がなんの日か、それはすぐに思い出せた。
明日は花火大会の日だ。
友達と、約束してた。
一緒に見に行こうって。
夏が終わる前に。
その友達の名前も、昨日何があったかも、すぐ近くに思い出せる。
それなのになぜか、それが昨日のことじゃないみたいで、耳のそばに掠めていく波の音が、しきりに遠くなる。
いつ、自分がここに来たのかさえもわからずに。
ふと、空を見上げてしまうのはなぜだろう?
胸の高鳴りの中で、つい、遠い景色を見てしまうのは。
水平線の向こう側に見える広い世界を、丸ごと閉じこめたかのような青が見えた。
——雲ひとつない、空の下で。
ねえ、今日は晴れだって
不意に聞こえてきたその声に、思わず耳を傾ける。
だけど、そこには誰もいない。
柔らかな風だけが立ち込めて、前髪をさっと掬うように通り過ぎていく涼しさだけが、空間の中に漂っていた。
水際に染みていく白波の帆が、ゆっくりと首を持ち上げながら。
友達からラインが来ていた。
『今どこ?』
そうだ。
思い出した。
今日の朝、いつ間にか電車の中で寝ちゃってて、起きたら2駅も通り過ぎていたんだ。
もう間に合わないからと思い、駅近くの海岸まで歩いてきてた。
どうせ、中途半端な時間につくだろうと思い。
高校生活ももう半年で、時間が経つのはあっという間だ。
順風満帆とは言えないまでも、楽しい学校生活。
新しい部活にも入り、新しい友達もできた。
苦手科目は、相変わらずの苦手科目だが…
不意に昨日のことを思い出す。
昨日、一昨日、——1週間前のこと。
確かな記憶がそこにある。
確かな“時間”が、続いている。
それなのにどうして、こんなにも胸が締め付けられるのだろう。
思い出さなくちゃいけないことが思い出せない。
そんな頭の中の違和感を、どうして、拭い去ることができないんだろう。
ラインに返信をした。
昼から行くって。
先生に怒られるだろうけど、事情を説明すればなんとかなるか。
母さんには、何を言ったって怒られるだろうけど、…仕方ない。
まさか、寝過ごすなんて思わなかったし。
駅のホームに着き、電車を待った。
だけど、すぐには乗らないでいようと思った。
ホームから見渡せる海の景色と、潮騒を運んでくる穏やかな風に体を涼ませながら、もう少しの間だけ、日常から離れた時間にいようと思った。
どうせすぐにでも、いつもの日常や風景に、帰らなければならないのだろうから。
「まもなく 3番線に 電車がまいります。危ないですから 黄色い線の内側まで お下がり下さい」
アナウンスの響く構内の音を聞きながら、待合室の窓を開けた。
夏の日差しに追いやられるように逃げてきた風が、電車と一緒にやって来て。
朝が来るたびにどこか憂鬱な気分になる自分が、重たい頭を踏みつける。
窓から見渡せる瀬戸内海の景色が、そんな心を励ますように騒がしくて。
瞼をひらいて、あいさつしようか。
私は、走らなくちゃいけないと思った。
新しい1日が目を覚まして、カラフルな色彩が絵具をこぼしたように明るい色を運んでくるなら、その中心に向かって少しでも高くジャンプできたら。
もうすぐ、夏が終わる。
だからぐうっと大きく息を吸って、ダンスの1ステップ目。
シャワーを浴びた先で新しい靴下を履いて、口にくわえた卵サンドイッチ。
なにも持たず街に出かけよう。
ほどいた後ろ髪のクリップ。
パンプスに履き替えた身軽な足。
交差点を渡った、朝の登下校の道。
——西川原沿いの、長い坂道を下って。




