第670話
本当は、私はここにいない方がいい。
頭の中ではわかってた。
自分がどれだけ場違いかは。
でも、この病室から出ていく勇気もなかった。
ただ呆然と立ち尽くすしか、私にできることはなかった。
バイタルの音だけが、淡々と時間が過ぎるのを教えてくれて。
この日に亮ママが亡くなるのを、私は知っている。
だけど、それが一体なんの役に立つんだ…?
亮平の手を引っ張ってここまできて、何を今さらって思うかもしれない。
バカみたいだなって自分でも思う。
何が「亮平のため」だ。
そこに亮ママがいる。
その現実を、変えることもできないのに。
亮ママ
…亮ママ
いてもたってもいられなくなって、できるだけそばに行こうと思ったんだ。
もしかしたら私のせいで、もう一度苦しんでいる時間に戻ってきてしまったかもしれない。
私は何も考えてなかった。
そのことを、この部屋に入ってきて思った。
亮平を救いたいと思ってた。
どんなことでも、未来を変えられるならと走ってきた。
…でも、それが一体何のためになるんだ?
わけがわからなくなって、亮ママの手を握った。
熱い。
でも、握り返してくる力はない。
亮ママが病気になる前の世界に
そう願っても、時計の針は逆流しない。
淡々と流れるバイタルの音が、なおも平然と鼓膜の内側を叩いてくる。
ごめんなさい
私の声は虚しく、響いた。
声になっていなかった。
声になっているかどうかも、自分ではわからなかった。
亮ママは、笑うでもなく、喋ろうとしている気配もなかった。
唇は乾燥して割れていた。
目は充血していた。
そしてただ、肩から息を吸っていた。
全身で息を吸っていた。
必死に、生きようとしていた。
この瞬間を生きようとしていた。
亮平はただじっとその様子を見てた。
亮ママの目は、瞬きをするスピードでさえ遅くなるほど、筋肉の衰えが見えた。
何日、何時間、このベットの上にいたのかもわからないほど、シーツには匂いが染み込んでいた。




