第663話
「亮ママの言葉を思い出せ!」
「…言葉?」
「諦めんなって言っとったやろ?!どんなことがあっても」
所詮借り物の言葉だ。
そんなものは。
でも事実そうでしょ?
亮ママの言葉、それを一番近くで聞いてたのはあんただ。
私には触れようもない温もりを、あんたは知ってたはず。
あの日、なんで病院で泣いてた?
なんで、亮ママの手を握ってた?
私なんかに言われなくてもわかるでしょ?
今だけは、一緒にいなきゃいけないってことくらい…!
「やめろ!」
彼の言葉は怒りに満ちてて、それでいて悲しいくらいにか細かった。
その感情がどこからきて、なにに対する怒りなのかは分からなかった。
ひとつだけわかったのは、どうしようもないくらいに声が震えてたことだ。
普段じゃ考えられないほどの動揺が、声の上澄みから感じ取れた。
「つべこべ言わんと!」
びくともしない。
…なんで?
こうしている間にも、空は動く。
時間は進んでる。
あんたの願いは、もう届かないって、…そんなこと、伝えにきたわけじゃない。
どんなことがあっても、足を動かさなきゃいけない時がある。
今がそうでしょ?
違う?
「おかんは笑ってた。せやからきっと…」
…バシィッ!
不意に手が彼の頬を叩いたのは、彼に対する怒りがあったからじゃない。
もしも彼に触れられる距離が、私の中にあるなら、…そう思って、思わず伸ばしたんだ。
まだ、この手に届くものがあるなら
「…イッテェな。なにすんや」
「気合や気合」
「はあ!?」
「「元気ですか!?」って言いたいところや。猪木ばりにな。おかげで目が覚めたやろ」
「ふざけんな」
呆然としたまま睨んできた。
思わず身構えたが、やめた。
フッと、彼の目が覚めたのがわかったからだ。
またとないチャンスだと思った。
間合いを詰めるなら今だと思って。
「逃げんな」
それが的確な言葉かどうかはわからない。
口から出たそれは、言葉にしては覚束なかった。
だから、体を預けた。
出来るだけ近づき。
「…なっ、なにすんや!?」
「頼むから、こんなところでじっとすんな」
「……そんなん、言われてもやな」
「一緒に行くで」
「…嫌や」
「なんで?」
「…」
沈黙が流れた。
音の切れ間が、茫漠とした静寂の中に漂うように。
息が続くか続かないかくらいの時間の先で、漏らした吐息。
その切っ先に触れながら、彼は言った。
「おかんがどっかに行ってしまう」
耳のそばで聞こえてきた。
それは“感情”なんかじゃなかった。
もっと、速かった。
もっと鋭かった。
彼の肩は震えてて、握りしめた手を、解くそぶりもなく。




