第576話
「あなたも夢中になって走っていたでしょ?」
「…え?いつの話?」
「子供の頃」
「…ああ」
「昔はなんでもできると思ってた。あなたも、私も。海に行き、空を見上げれば、どこまでも行ける気がしていた。彼も同じよ」
「「彼」って言うのやめてくれん?違和感しかないんやけど」
「ごめんなさい…」
「その「ごめんなさい」っていうのも」
中身は亮平と同じく大分年上なんだろうなって思う。
じゃなきゃ、こんな綺麗な言葉遣いにはならない。
時々私のノリに合わせてくれるけど、いまいち乗り切れてないというか、まあ、とりあえず違和感。
仕方ないんだろうけども。
「彼は不安だったの」
「不安…?」
「明日が来なくなるかもしれない。そう思ってたわ」
「交差点で事故に遭う「夢」を見てたって、アイツは言ってた」
「そうね」
「それとなにか関係性は?」
「わからない。けど、世界は元々1つだった。それは知ってるでしょ?」
「…うむ」
「彼はきっと、遠い彼のことを知っていた。「最初の世界」で、たどり着けない未来があったこと。だから…」
「でも、最初の世界は?」
「?」
「いや、ほら、キーちゃんのストレートを打ちたい、日本一のバッターになってやるって、アイツは思ってたやん?でも、その世界は1つだけで、そもそも事故には遭ってなかった」
「そうね」
「ってことは、不安になる必要はなくない?自分が死ぬ、その「結果」が、まだ生まれてなかったわけやし」
理屈的に言えば、不安になる要素がないじゃないか。
だって、「最初の世界」っていうのはつまり、他の世界線が生まれていない「世界」なわけで。
その世界でアイツが頑張ってたのは、単純にキーちゃんに惚れてたからでしょ?
違う?
「彼がどう思っていたのかはわからないけれど、最初の世界だからこそだよ」
「??」
「いい。よく聞いて。“嘘をついていない世界”っていうのは、やり直しがない世界。可能性は可能性のまま収束し、現実はただ1つだけ。つまり、「時間」は1つだけなの。ジャンケンをやり直すことができないように」
「…わかるよ。多分」
「やり直しが効かないの。これは本当は、世界に於いて純粋な“直線距離”なのよ。どんなに残酷なことがあっても、逃げることはできない。「一瞬」は「永遠」で、「永遠」は「一瞬」でしかないわ」
「うーん???」
「彼がまっすぐに憧れていたのは、きっと、逃げたくなかったからじゃないかな?」
「何から?」
「現実から。未来から。もしくは、世界から」
「…ほう」
「世界が滅ぶ。その可能性が、0になることはない。明日は来なくなるかもしれない。そしてもし、未来が失われても、本来の世界では、その「時間」をやり直すことはできないわ。その意味は、わかる?」
「わかる」
「だから、きっと、そういうことなんだよ。まっすぐ、ただ、それだけを考えてた。逃げることができないからこそ、“戦うしかない”って」




