第531話
「不安やった。足を動かしても、いつか目の前の地面が無くなって、真っ暗になるんやないか?って。子供の頃は、とくに。剣道を始めたんは、…その理由は、元からどこにもなかったかもしれん。ぶっちゃけ、何でもよかった。朝起きて、夢中になれるものがあれば」
「…その「夢」って、今も見とるん?」
「今は見とらん。でも、時々は見るかも。なんにせぇ、あんま真面目に考えたことがない。所詮夢やと思えば、いちいち考えずに済むし」
「…ふーん」
「ただ、夢の中で、いつも思ってた。いつか、あの交差点の向こう側に行けたら、って」
交差点の向こう、——その先に広がる広い広い空と、海。
そこに行きたい。
彼はそう言った。
大それた言葉に、真面目すぎるトーン。
それが、偶然だとは思えなかった。
その「夢」が、ただの夢だとは…
「強くなりたい。でも、結局「強さ」って何なんやろうって、時々思うことがあった」
「勝ちたかったんやろ?」
「その「勝つ」っていうのも、よくわからん。本当の勝負なんて、そう滅多にできるもんやない。命がけで勝負する言うても、本当に命賭けれる瞬間なんて、そんなに無い。ようは技術で優れてるかどうか。練習したやつが、勝つ。だからって、その先に見えるものが、一体何なのかがよくわからんかった」
「亮ママを救いたい…、そう言ってたけど」
「そう…やな。少なくとも、喜ばせたかったのは事実や。けど、結局、うまいことにならんかった。でも、おかんは笑ってた。最後に、俺の顔を見た時に」
「…知ってる」
「人はいつか死ぬ。お前も、俺も。せやけど、そんなこといちいち考えて、生きてられないやろ?せやから、ただまっすぐ、竹刀を振るしかなかった。いつかこの両手に握ったもんが、明日に届けばと思って」
彼がなにを言いたいのかは、よくわからなかった。
でも、ふと思ったことがあった。
誰にも負けないくらい強かったあんたは、人一倍努力してた。
なんでそんなに頑張るんだろう?って、感じたこともあった。
誰もいない体育館で1人竹刀を振っていたのは、立ち止まりたくない時間があったから?
「バカみたいに聞こえるかもしれんが、心のどっかで、明日が来ないかもしれんって、思っとった」
「夢のせいで…?」
「それもそうやが、なんとなく不安やった。試合に勝てても、素直に喜べんかったんや。生きるか死ぬかの一歩の差が、どこに続いていくのか。じいちゃんは言っとった。明日があるのは、今日があるからやと。自分の足で一歩前に出る。その直線上にしか、「今」を越えられん、——と」




