第523話
「おとんは、怖かったんやないかな?」
「…怖い、って?」
「目の前にあるものが、無くなってしまうこと。おとんも、じいちゃんと同じように、剣を振る一歩先に、「夢」を見てた。それは遠い夢やった。前に踏む出す勇気、——失敗とチャレンジ。青臭い言葉やけど、おとんは、竹刀を持つたびにいつも思い出してた。一瞬の先に触れられる何か、現実に届き得るチャンスを」
わからない。
亮平の親父は、いつも怖い顔をしてた。
眉間にシワが寄ってて、近寄り難いし、試合でミスをすると、面越しに亮平の頭を叩いて大声を出していたこともあった。
ぶっちゃけ、何を考えてるのか分からなかった。
亮平だって、きっとそう思ってた。
試合の後の体育館で、親父に怒られて泣いていたことがあった。
あの時、あんたは試合に負けた悔しさよりも、もっとずっと、違う感情を抱えてた気がする。
とてもじゃないが、そんな穏やかに父親のことを語ってる余裕なんてなかった。
怖い思いをしてたのは、むしろあんたの方じゃないか。
違う?
「今となっちゃ、なんとも思ってないで?それに、過去とはケリをつけてる。おとんと、腹割って話したことがある。父親と子供としてやなく、男同士として。今ならわかるんや。楓が言うように、暴力は、決して良いこととは言えん。けど、親父は、戦いから目を背けたことはない。命がけで、剣道と向き合ってた。それは「試合」をするとかやなくて、本質的なことや。竹刀を握るっていうこと。一度きりの勝負に、逃げないっていうこと。おとんは、じいちゃんと同じように、誰よりも「生きること」に対して貪欲な距離にいた。勝負に負けるっていうことが、どれだけ「死」に近いもんか、それを理解してた」
「生きる…こと?」
「じいちゃんに言われた。生と死の間には、“間”は存在しない。だからこそ踏み込みの一歩は、「今」という時間の境界にしか存在できない。生も死も、一瞬でケリがつく。せやけど、だからこそ剣の真正面に立ち、時間の先端に剣を振り下ろすことができる。人生っていうのは、「生き残ること」が、”理由“にはならないって言ってた。大事なことは、現実に追いつける今に、追いつくこと。風が流れる一瞬を打ち、明日へと続く一歩を手に入れる。「人生」は、「記録」やない。「勇気」そのものなんだって言ってた」
「勇気…」
「おとんは、それを理解してた。生も死も、常に対等に存在してる。せやから、おかんの死が、どれだけ確かなもので、「現実」に近いものかを、理解してた。ただ、それに耐えることができんかった。おとんなりに、向き合ってたんや。逃げずに、戦うっていうことに」




