第451話
母さんは、ただまっすぐ前を見ていた。
自分にできないことなんてないと、ただその「可能性」だけを求めて。
動く心臓の先で、追い求めた1メートル85センチ(※平均ストライドの距離)。
最高走速度に到達した30メートルの距離で、
「現在」
と
「未来」
の境界に、足を踏みしめようとしていた″瞬間″だった。
母さんは突然、トラックの上に倒れ込んでしまった。
あの時、観客席にいる誰もが、目を疑ったはずだ。
先頭に飛び出そうかというスピードで走っていた第4レーンの母さんが、急ブレーキをかけたように失速し、膝を曲げて、その場に倒れ込んでしまったのだ。
その出来事は、会場中のざわめきとともに、中央のスクリーンに映し出された。
母さんを襲ったのは、本人も、他の誰も予期していないことだった。
息切れのする肺の横で、感じたこともない激痛と、苦しさ。
足が動かない…!
と思いながら、必死に膝の下の筋肉を抑えるが、息がうまく吸えなかった。
苦しい…!
そう叫びたくても、声も出ない。
体を襲ったのは、『右アキレス腱断裂』という怪我だった。
原因は不明で、100m選手としては致命的な怪我になるかもしれないと、診断された。
そして、この日を境に、母さんは全力で走れない体になってしまっていた。
母さんが、“条件付き”で告白の返事にOKを出したのは、きっと、当時の父さんが、自分の夢を追い求めていたからなのかもしれない。
怪我をしたあと、途方に暮れている側で、父さんは自分の将来に向かって進んでいた。
そんな「彼」なら、100メートル走の直線に、まだ見たこともないスピードを出してくれそうな予感がした。
自分が諦めてしまった、『11.48秒』の領域に。
もちろんそのことを母さんが感じていたかどうかは、誰も知らない。
けれど、生前母さんは言っていた。
父さんを見てて、「昔の自分」と重ねる部分があるっていうこと。
がむしゃらに自分の「夢」を追いかけて、必死に勉強するその姿が、怪我をした自分への最大の励ましになっていたこと。




