第420話
でも思いとどまった。
大会が終わってからでも良いと思った。
イエスと言うのも、ノーと言うのも、夏が終わってから、——そう、思った。
「楓」
…?
それは、あり得ない「声」だった。
いや、声というよりは、限りなく透明な「音」に近い。
誰?
そう思うスピードはなかった。
その要因は“いくつも”あった。
周りに誰もいなかったというのもあるし、そもそも、その「言葉」が聞こえるはずがない。
『楓』
しなやかに伸びる、明るく、艶のある音。
その先に届く聞き慣れた名前と綴りを、どうして今、“聞いているのか”。
キーちゃんの声に違いはなかった。
だけどあり得ない。
鏡を見たんだ。
そこにいる「彼女」を。
「…キー…ちゃん?」
鏡の中で、こちらを見ている彼女の姿があった。
幻覚かどうかも定かじゃない。
意識はハッキリしてる。
それが「現実じゃない」って思えるほど。
「楓、走って」
…え?
彼女の声は、緊張してた。
それでいて落ち着いたトーンの下に、震える弦の重みを持っていた。
「…走る?」
「あなたしか、この世界の真実には近づけない。現実が現実に切り替わる前に、壁を打ち破れるの」
そう聞こえた瞬間、バチンッ!、と、何かが弾けた。
ゴムがちぎれるような、雷が降ってきたかのような。
——と、同時に、ある感覚が蘇った。
頭の中心から何かが溢れ出て、それが止めどない液状の流れのように、空間の中に“漏れた”。
忘れようにも、忘れられない感覚。
キーちゃんが亮平に、返事を返そうと思っていた朝のこと。
坂道を降りて、海に向かっていた時のことだ。
街の方から聞こえるサイレンの音と、雨上がりの景色。
雨と晴れとの境目に通り過ぎる雲の流れが、空の真ん中で交錯していた。
走ったんだ。
伝えなきゃいけないと思い。
自転車に乗り、地面を蹴った。
ぶりをつけた勢いの中に、ペダルを思いっきり踏んだ。




