四畳天使
夜の帳が下りた街はキラキラと星が瞬き、月が太陽のかわりに街を明るく照らしていた。
綺麗に磨かれた窓から、月の光が部屋に差し込んだ。
誰も居ない小さな部屋はそこだけ世界から切り離されてしまったかのように、ただ静かに月の光で部屋を満たしているだけだった。
その部屋に、小さな鈴を転がすような音が鳴った。
どこかとても遠い所でなっているような、しかしとても近い所で鳴っているような。不思議な音だった。
しばらくすると、もう一つ鈴が鳴った。
チリン。と音がすると、少し離れた所でまたチリンと鳴る。
そして、それに続くかのように一つ、また一つと続き。四つの鈴が、交互に部屋の中で鳴った。まるで会話しているようなその音は、部屋の中で小さくそっと鳴り響いた。
※
冬の気配が隠れ、暖かな日差しを降り注ぐようになった春の日。
龍之介は新生活に期待に胸を膨らませていた。
青く澄んだ高い空も、桜を優しく揺らす風も、まるですべてが自分を祝福しているように感じる。思わず綻んでしまう頬を押さえると、龍之介はスキップしそうな足取りで先を急いだ。
「転勤する事になったんだ!アラスカだよ。ア・ラ・ス・カ!」
やっと受験が終わり、後は結果を待つのみとなった冬の日。
会社から帰った父親は体中から春満開の浮かれた陽気を出しながらそう告げた。
母親が家事の手を止めて、父親に駆け寄る。
「やったじゃない!お父さん!海外勤務が夢だったもんね」
「そうだよ!母さん。準備が出来次第行ってくれって、今日言われたんだよ」
「じゃあ、早速準備しないといけないのかしら。向こうは寒いの?暑いの?」
「母さんはお茶目さんだなぁ。暑いわけがないだろ。向こうは最高気温だってマイナスさ」
「あら、お母さん毛皮の帽子買おうかしら!」
「毛皮のコートも必要だね!」
「お父さんとお揃いで買っちゃおうかしら!」
「僕のはいいんだよ。なんてったって、僕は母さんへの愛で燃え上がるようだからね!」
「嫌だわ、お父さん。恥ずかしい」
手を取り合ってクルクル踊りだす両親を前に、こたつの中で完全に固まっていた龍之介の手からポロリと蜜柑が落ちた。落ちた音ではたっと正気に戻った龍之介はちゃぶ台返しでもしそうな勢いで立ち上がった。
「待ったーーー!何、アラスカって!?」
手を握り合った状態の父親は不思議そうに龍之介を見た。
「なんだ、龍之介はアラスカ知らないのか?」
「龍ちゃん、地理苦手だったの?」
的外れな両親の回答に龍之介は大きくかぶりを振った。
「いやいやいやいや。アラスカの場所がどうとか言ってるんじゃないし。別にアラスカが何か分からないから叫んだんじゃないし。地理は別に苦手でも得意でもないしって」
「何が言いたいんだ?」
「何って。転勤って何?」
「転勤を知らないのか?転勤っていうのはな、お父さんのお仕事する場所が変わる事で…」
「いやいやいや、そうじゃなくて!転勤なんて俺聞いてないよ!」
「うん。今日辞令が出たから、お父さんも今日聞いたよ」
「高校!あんなに一生懸命勉強して、やっと受験も終ったのにどうするんだよ」
「どうするって言われても、アラスカで学校探すしかないんじゃないかな」
当然のようにそう返されて、龍之介は立ちくらみがした。
転勤?引越し?突然の状況に考えが中々まとまらない。
「龍ちゃん。海外勤務はお父さんの夢だったのよ。家族なんだから応援してあげましょうよ」
肩に置かれた手を、龍之介は優しく振り払った。
「…俺だって行きたい高校の為に頑張ったのに、…まだ受かってるか分からないけど」
自由な校風や、生徒への自主性を重んじている県立高校へ進学を決めたのは、中学三年になってからだった。希望校を決めるには少し遅かった龍之介は、それまでの遅れを取り戻すように必死になって勉強した。
困ったような顔を見合わせると、父親はすまなそうに頭を下げた。
「ごめんな、龍之介」
「海外勤務が夢だったのは俺も知ってるよ。でも、…でもさ」
龍之介は次の言葉が紡げなかった。
格好悪ぃ…。これでは駄々をこねてる小さい子供のようだ。
「海外転勤は基本、家族が一緒に行く事が基本なんだ。それにここは社宅だから、転勤が決まったら出ていかなければいけないし」
「龍ちゃん…」
父親の気持ちも分かる。でも、いきなり海外に行くと言われても、素直に納得出来なかった。頭を下げてうなだれる龍之介の姿を見ていた父親は、あごに手を当てて低く唸ると眉を寄せて体をそらした。
「そうだなー。頑張っていた龍之介の姿も見ているし。んんー。まあ、もう高校生になるんだしな」
「お父さん?」
「なあ、母さん。お姉さんの所に連絡してみないか?」
「姉さんに?」
「ああ。なあ、龍之介。伯母さんの所でお世話になるか?」
龍之介が顔をあげると、父親は少し寂しそうな顔をしていた。
「伯母さんって、お母さんのお姉さんの?」
「そうそう、確か伯母さんの所はアパート持っていたはずだから、部屋が空いてるといいんだけど」
そこまで父親が口にすると、母親は鼻の穴を膨らませた。
「龍之介に一人暮らしでもさせる気!まだ子供なのよ!?」
「子供って言ったって、もう高校生になるんだろ?自分の事は自分で出来るようにならないと、それに男だしそこら辺の心配もないだろう」
つかみ掛かりそうな勢いの母を押しのけると、龍之介は父親に詰め寄った。
「する!一人暮らし!」
「何言ってるの!家族はみんな揃ってないとだめじゃない!」
「なんで!父さんは希望の仕事が出来て、俺も高校にいけて誰も困らないじゃん!」
「嫌よ!家族がバラバラなんて!」
「片方を取ったら、片方が我慢しないといけないならしょうがないじゃん!」
「しょうがないって何よ!」
手が付けられないほど興奮した母親を何とか説得したのが、大分前の事のようだ。
あの後、父さんが主導して一人暮らしの手続きや、伯母への連絡を行ってくれた。もちろん一人暮らしするに当たっては、いくつかの条件が設けられた。
一、一定以上の成績を収める事
一、自炊する事
一、規則正しい生活を心がける事
そして、母親が設けたのが、部屋に異性を入れない事。
一体、どんな心配をしているのか分からないが、以上の条件を一つでも破った場合はそくアラスカに強制送還される事になった。
「自炊に関しては自信ないんだけど…。まあ、なんとかなるだろう!」
※
「えっと、このあたりだと思うんだけど…」
父親が書いた手書きの地図を頼りに、きょろきょろとあたりを見回すと、小さなアパートの前で大きく手を振る人物が居た。
「龍ちゃんー!」
母親とは違い、少し恰幅のいい体格を揺らしながら大きく手を振るのは、伯母の清子だった。
清子の元へ走って向かい、龍之介は深くお辞儀した。
「伯母さん。お久しぶりです。これからお世話になります!」
最敬礼する龍之介の背中をバンバン叩くと、清子は豪快な笑い声を出した。
「何よ。かしこまっちゃって!えー。こんなに大きくなっちゃって。ついこないだまで、バブバブ言ってたのに!龍ちゃんが高校生だなんて。そりゃ、おばちゃんも年取るはずだわ」
昔から恰幅のいい伯母はある意味変わってないと思ったが、それを口にすると話が長くなりそうなので、龍之介は曖昧な笑みを浮かべたまま黙った。
顔を上げてアパートを見ると、少し古さは感じるがきちんと手入れがされている雰囲気が漂っている。
良かった。思ったよりぼろくない。
「いま、古くさいアパートって思ったでしょ?」
「あっ、いや逆です」
「ああっ、思ったより汚くなかったとか」
相変わらず、はっきり物言う人だ…。
入り口にヒノワ荘と掛かれた二階建てのアパートは、木造建築ならではのレトロな風合いで、まるで歴史資料館のような佇まいだった。
「まあ、外で立ち話もなんだから、中案内するから」
建物の中心に入り口があり、そこで履物を脱ぐように言われた。
ステンドグラス風になった入り口から光が射し、床に綺麗な模様を描き出している。右側に備えられた下駄箱には、住人たちのものであろうか、男物の靴がぎっしりと納められていた。十畳ほどのスペースがある玄関には重厚なテーブルと、深緑色の革張りのソファーが設置されている。マガジンラックには何冊かの本が置かれ、ここが住人達のくつろぎスペースになっている事が想像出来た。
「玄関はここね。中も土足にしちゃうと掃除が大変になるから、履物はここで脱ぐ事にしてるのよ。一階に共有のトイレと洗濯機があるから、二階が居住スペースで部屋が四つあって。今、みんな出掛けちゃって挨拶出来ないけど、龍ちゃんの事は話してるから」
「なんか、レトロって言うか。懐かしい雰囲気ですね」
普通の木造立てのアパートを想像していた龍之介は、思わず感嘆の息を漏らした。調度品や、細部にまでこだわりのある内装。素人の自分が見ても素敵だと思うのだ。
そんな龍之介の姿に、清子は微笑んだ。
「気に入ってくれた?主人が好きでね。やれこっちは光が当たらないだとか、風合いがどうだとかって、随分こだわったのよ」
「本当、素敵です」
「良かったわ。ここに住んでる子達も気に入ってくれて、大切に使ってくれてるし。本当、大家冥利に尽きるってもんよね」
「どんな人が住んでるんですか?」
トイレや洗濯など共有スペースがある以上、一緒に生活する住人の事はやっぱり気になる。
「普通にいい子達よ。話すれば分かるわよ。あっ、ちなみにここには男の子しか住んでないから。トイレとか洗濯機とか共用だしね。やっぱり、女の子だとこっちも色々心配だし」
確かにトイレとか女の子の後に入るのとか、すごく気まずいし。男しか居ないってのは逆に助かったのかもしれない。
「龍ちゃんが女の子だったら、絶対断ってたからね。本当、男で良かったわね!」
再び背中をばしばし叩かれる。
「それで、俺の部屋は、二階ですか?」
豪快に笑っていた清子は気まずそうに顔を曇らせた。
「それがね、急だったし、連絡貰った時には部屋に空きがなくてね」
「えっ…」
「二階の部屋はいっぱいなのよ。で、龍ちゃんには悪いだけど、あそこを使ってもらう事になるのよ」
玄関フロアの左側に共有トイレ、その横に二階に続く階段。
玄関フロアの右側に小さな部屋があり中に2つ並んだ洗濯機、さらに廊下を進むと古ぼけた扉があった。長い間使用していなかったのだろう。扉に付けられた金の取っ手は雲って輝きを失っていた。
室内は四畳の畳と、小さなキッチンコンロ。そして、押入れ。雲って外がまるで見えない窓から差し込む光で埃がキラキラと輝いている。
「これは…」
「この部屋は昼間管理人が居るように作ったんだけど、アパート出来てすぐに伯母さん妊娠しちゃってこの近くに家買って。で、結局この部屋は使わなかったのよ」
清子はてへっと舌を出した。
「ほら、おばさん掃除苦手じゃない。使わない部屋まで掃除しなくていいかな~って思って。でも、龍ちゃんがここに居る間は大家さん代行やってくれるって聞いて、本当におばさん助かっちゃうわ~。布団とか、小さいけど冷蔵庫はあとで持ってくるから。何か困った事があったら何でも言ってね!」
呆気に取られている龍之介に掃除用具を渡すと、清子は一人納得したかのように大きく頷き去っていた。
言葉も出ない龍之介はただ呆然とその姿を見送った。
※
姉さんは本当大雑把なんだから。
そんな愚痴を母さんから聞いた事はあった。
「一体、どれだけ掃除しなかったら、ここまで埃が溜まるんだ…?」
雪のように積もった埃は下が畳である事が、分からなくなるほどに厚く積もっていた。
埃一つ落ちていない廊下と部屋では、まるで境界線でもあるかのようにくっきりと線が引かれていた。
でも、ここで諦めたらアラスカに強制送還…。
龍之介は掃除用具として渡された箒と雑巾を力強く握り締めると腕まくりをした。
「おっと、靴下脱いどかないと」
靴下を脱いで、ズボンをまくる。廊下の窓を大きく開けると、むき出しになった手や足を容赦なく風が体温を奪っていく。
「さぶっ」
負けるな、俺!
部屋に足を踏み出す。一歩進む後とに、埃が足元にふわりと舞った。龍之介の足の跡が転々と部屋に残る。小さい部屋なのに窓までの道のりが遠く感じた。
木製の木枠で作られた窓は、長い使用してなかったことで変形してしまったのだろうか、窓を横に開けようとしてもピクリともしない。
「ぐぎぎぎー」
木枠がギシギシと不気味な音を立てる。
「ぐぐーーー」
窓が大きく開くと、暖かな光が部屋の中に降り注いだ。さっきまで薄暗かった部屋が、一気に明るくなる。さっきまでの冷たい風だけでなく、柔らかい日差しに温もりまで感じる。
「日当たりはいい部屋なんだな…」
箒で埃を掻き出すと、雑巾を絞り窓や畳を掃除した。バケツの水が何度も真っ黒になりながら、龍之介は丁寧に部屋の隅々まで掃除した。意外にも埃が層になってたからか畳は綺麗な状態で、その姿を現した。
バケツの水に汚れなくなった頃には、日はすっかり沈みかけていた。
夕焼けが空を赤く染め、遠くの方でカラスのなく声が聞える。夢中で掃除していたのですっかり時間を忘れてしまっていた。お腹がキューという空腹の音を鳴らしてから昼食も取っていない事に気付いた。
「昼食べるの忘れてた…」
綺麗になった部屋とは対照的に、すっかりほこりにまみれて汚くなった自分。空腹と疲労感がどっと押し寄せてくる。
「龍ちゃん、お待たせ~」
玄関から現れてたのは、たくさんの荷物を抱えた清子だった。両脇にたくさんのビニール袋をぶら下げて、手には布団を抱えていた。
「すごい!ピカピカじゃない。これ布団ね。荷物は明日届く予定だから、とりあえず今日はこれ使って」
そういって清子は真新しい布団と洗面用具を部屋に置いた。
「ありがとうございます」
「でね、ご飯作ってきたのよ。たまにここの住人さんみんなに飯炊きおばさんやってるのよ。今日は龍ちゃんの歓迎会も兼ねて、たくさん作ってきたのよ!」
掃除が嫌でいなかった訳じゃなかったのか。
「いま、掃除が嫌で居なかったんじゃないんだって思ったでしょ?本当、親子そっくりなんだから。考えてる事顔に出過ぎよ」
そんなに顔に出ているのかと思わず頬に手を当てる。
「それはいいけど、なんか部屋は綺麗になったけど、龍ちゃんがどぶねずみのように汚いわね!」
そう言われて、龍之介は気になっていた事を口にした。
「そういえば、お風呂ってどうしたらいいんですか?共有でも無いんですよね?」
「あらっ、言ってなかったかしら?お風呂はこのアパートの裏にお風呂屋さんがあるから、そこを利用してもらうのよ」
「他の住民の方もなんですか?」
「二階は部屋についてるわよ、お風呂。やっぱりトイレと違ってプライベートな空間だからって、各部屋についてるの」
トイレはプライベートな空間じゃないのか…。
「ほら、トイレは裸にならないじゃない」
「…」
「とりあえず、もうお風呂屋さんやってるから、さっぱりしてらっしゃい」
笑顔の清子から洗面用具を渡された龍之介は、無言で洗面器を受け取った。
※
「ふぅ~」
首までお湯に浸かると、体の疲れが溶けていくようだった。
平日の夕方という事もあって、混んでいない時間帯なのだろう。三つに区切られた大きな湯船には、龍之介一人の姿しかない。
両手足を伸ばせる開放感は大きなお風呂ならではだろう。
「しかし、伯母さんって超能力者とかなのかな…」
あそこまで考えてる事が分かってしまうと、少し怖い感じもする。
「それとも、俺が分かりやす過ぎる?…あぁ、だめだ。お腹空き過ぎて何も考えられない」
龍之介は早々に湯船から上がると、更衣室のドアを開けた。
番台には小さいおばあちゃんが、来た時と同じように座っている。
しかし、テレビで見た事はあったけど、こんな銭湯ってまだ残ってるんだな。
さっきまで入っていた風呂場には、壁に大きな富士が描かれている。青を基調にした浴室内は風呂と、体を洗う低いシャワーが数十個設置してあるだけだ。サウナもジェットバスも何もない。
更衣室には体重計とマッサージチェアが置かれているのみだった。血圧計が置かれているのはお年寄りの方が多く利用するという事なのだろうか。
番台には石鹸の値段や、シャンプーの値段などが書かれている。その下に気になる文字を見つけた。
コーヒー牛乳 百円。
「何か飲みますか?」
突然、番台のおばあちゃんに突然声を掛けられて、龍之介は飛び上がる。
「いや、あの…」
「ビン牛乳ですよ」
声は優しいが、その目がキラリと光ったような気がした。
テレビでは見た事があるけど、実際には一度もお目にかかったことがないビン牛乳。しかも、それを風呂上りに!
番台の下から取り出した冷えたコーヒー牛乳の魅力に龍之介はもうあがらえられなかった。ふたの上のビニールをはがし紙で出来た蓋を取ると、コーヒーの爽やかな香りが鼻腔をくすぐった。
なんとなく腰に手を当てながら牛乳瓶をあおる。
暖かく火照った体に、つめたく冷えたコーヒー牛乳が心地よい。思わず一気に流し込んでしまった。
「ぷはぁ~」
口にヒゲを作った龍之介をみながら、番台のおばあちゃんは目を細めた。
「随分、美味しそうに飲むねぇ」
コーヒー牛乳にはしゃぐなんて、ちょっと子供っぽかったかもしれない。
龍之介は照れ笑いしながら、飲み終わった空き瓶を渡した。
「お兄ちゃんはここらへんの人なの?ここに来るのは始めてよねぇ?」
「あっ、今日引っ越してきたんです。ここの向かいの通りにあるアパートに」
「清子さんの所?」
「そうです。伯母さんのこと、知ってるんですか?」
不思議そうな龍之介に、おばあちゃんは小さく笑った。
「知ってるも何も、ご近所さんだしねぇ。あそこに住んでる子達も、たまに入りに来てくれるよ」
「お風呂着いてるのに?」
「たまには大きいお風呂でゆっくりしたいんだ~っていいながら、お兄ちゃんみたいに美味しそうに牛乳飲んで帰っていくよ」
伯母さんもいい人達だって言ってたけど。本当にいい人たちみたいだな。
ふと番台の上に掛けられている時計を見ると、時計は十八時を示していた。一時間以上ものんびりしてしまっていたようだ。
「やばっ!伯母さんがご飯準備して待ってるんだった!」
慌てて着替えや洗面用具をまとめると、髪も乾かさず下駄箱に向かったが、龍之介はすぐに番台の所に戻った。
「どうしたの?忘れ物?」
不思議そうに尋ねるお婆ちゃんの前で、龍之介は姿勢を正した。
「あの、俺の部屋にお風呂付いてないんで。これからしょっちゅう来ると思います。よろしくお願いします」
きちんと挨拶すると。龍之介は急いで銭湯を後にした。
「あら。やっぱり清子さんの所に住む子達はいい子達なんだねぇ」
おばあちゃんは嬉しそうにそう呟くと、ニコニコと龍之介を見送った。
※
「疲れたぁー」
部屋に戻った龍之介は、たたまれたままの布団にダイブすると、そのまま大きなため息を付いた。
急いでアパートに帰ってきた龍之介が見たのは、一人玄関のテーブルの上で持ってきたご馳走を不機嫌そうに食べる清子の姿だった。龍之介が引っ越してくる事は住民に伝えていたが、それが今日である事は伝えていなかった事で誰も帰って来なかったのだ。おまけに龍之介も銭湯に行ったっきり、中々戻ってこない。
不貞腐れてやけ食いしていた清子の相手をしていた事で、龍之介は完全に疲れ果ててしまった。
「伯母さんがどうしてあんなに体格がいいか分かった気がする…」
布団も敷かないといけないし、歯も磨いてない。電気も消さないと…。
分かっているのに、龍之介のまぶたは重く体は動こうとしなかった。まぶたが完全にくっつくと同時に、龍之介は夢の世界に落ちて行った。
「世界は広いなぁ!」
毛皮のロングコートに、毛皮の帽子をかぶった父親がビールケースの上に立っている。
「父さん!?えっ?何しているの?」
「龍之介!世界は広いんだ。色んな人が居て、色んな事があって。最高に綺麗な物もあれば、汚い物だってある!世界は広いんだ!」
父親はコートからバナナを取り出すと、それを空にかかげた。
「見ろ。龍之介。アラスカじゃあ、バナナは凍るんだ。父さんはこのバナナで釘を打って、立派な家を建てるからな!」
そう言うと、バナナを片手に釘を打ち始める。そんな父親の影から、母親がサンバダンスを踊りながらやってくる。
「あなた~。龍ちゃん~。ご飯出来たわよ。今日は雪のご飯に、雪のスープ。雪のサラダに、雪を掛けて食べてね~」
「母さんは相変わらず料理上手だね。仕事で体が暑くなってたからぴったりだよ」
「私もサンバで体が暑かったの」
「ほら、龍之介」
「ほら、龍ちゃん」
無理やり口に雪の塊を押し付けられる。
「やめ…。寒い、寒い…」
布団の上で、龍之介はそう呟きながら体を震わせた。
部屋にチリンと鈴の音が鳴る。
チリンチリンと鈴の音が増えると、部屋に小さな光が四つ生まれた。
「寒いって言ってるよ!」
光の一つが龍之介の顔を覗きこんで言った。
「布団掛けて寝ないからでしょ」
「何だかかわいそうです」
「あはは、困ったねぇ」
最初の光の発言に、当然とでも言わんとするきつい口調、今にも泣き出しそうな弱々しい口調、まるで人事で、対して困ったような感じのしない能天気な口調が続いた。
「どうしよう!?」
「どうしようって?」
「だってこのままじゃ風邪引かないかな!?」
「引くんじゃない?」
「それじゃあ、かわいそうです」
「かわいそうって、しょうがないじゃない」
「そうだねぇ。でもさ、それで死んじゃったりしたら、またここ使われなくなるのかなぁ」
その言葉に鈴の音がぴたっと止まった。
「だめ!だめだよ!折角、こんなに綺麗にしてもらったのに、誰も使われないまま汚くなるなんてやだ!!」
「死ぬのは置いといて、使われないってのはちょっと問題だわ」
「そんな、死ぬのは置いとくだなんて、悲しい事言わないでくださいよ」
「あはは、困ったねぇ」
目を開けると、膝丈ほどの小さな子供が一生懸命何かをしていた。
…あぁ、まだ夢の中なのか。
眠気で開かない眼でぼんやり眺めていると、子供は全部で四人居た。全員が似たような柄違いの着物を着ており、腰に小さな鈴をぶら下げていた。子供たちが動くたびに、小さな鈴の音が響いている。
よく見ると、小さな子供達はみんな女の子で、一人一人特徴がある事に気が付いた。
髪を一つにまとめた赤い着物の子供は他に比べて一生懸命動いているが、動きに無駄が多いのか何もない所でつんのめって転んでいる。綺麗におかっぱに切りそろえられた青い着物の子供はそんな赤い着物の子供を叱咤しながら、てきぱきと指示を出していた。
緑の着物を着た子は耳の下でふたつに髪を結わい、なんだかずっとベソベソ泣いている。
黄色い着物を着た子供はだらりと伸ばした髪をそのままに、三人のやりとりをただ笑って見ていた。
まるで御伽噺のような夢に、龍之介は可笑しくなってきた
変な夢だな。龍之介は少し笑うと、再び目を閉じて、朝まで目が覚めることはなかった。
※
高校が始まるまでの二週間は新しい環境に慣れる事と、新生活への準備をする為に使おうと考えていた。
目の前に並べられた五人の福沢諭吉を前に龍之介は悩んでいた。
家賃と光熱費の心配はなしにしても、五人の福沢諭吉で風呂代、食事代、雑費代を捻出しなければならないのだ。
「毎月の仕送りは三万って言ってたし、今回多いのは新生活への準備の為だよな」
学校が始まれば学食を利用する事が出来るが、それ以外は自炊しなければすぐに金欠になってしまうだろう。
「お年玉とか切り崩してたら、すぐ無くなりそうだし。なるべく節約するしかないよな」
料理ってあんまり得意じゃないんだよな…。
「とりあえず、インスタントラーメンと鍋だけ買っといて。後はおいおい考えるか。うん。とりあえず出掛けよ」
諭吉たちを集めると、右側に置いていた財布に手を伸ばす。しかし、龍之介の手は虚空を掴むのみだった。
「あれっ?財布、ここに置いたよな」
きょろきょろとあたりを見回すが、財布は何処にも見当たらない。
立ち上がり、あるはずもないのにポケットを探ったり、ジャンプしてみたりした。
「えっ、いや、無いなんて事ないだろ。ここに座って、お金を出して、財布を置いて」
こんな狭い部屋で物無くすなんてないだろ。龍之介はばたばたと色々な所を覗くが、財布はどこにも見当たらない。
ふと、玄関前に置いていたいつも使っている鞄を覗く。
「あった!」
鞄の中には見覚えのある黒い財布が入っていた。
「俺、鞄にしまったっけ?」
頭に疑問符がたくさん湧き出たが、龍之介は気を取り直して財布にお金を入れると、部屋を出た。
予定がまったく入っていない一週間は瞬く間に過ぎていった。
夕日が窓から入り込み、玄関ホールは琥珀色に包まれていた。ソファーの上で体操座りをしながら、洗濯機が止まるのを待っていた龍之介は眉間に皺を寄せて悩んでいた。
絶対、変だよな。
龍之介はこの一週間の事を思い返していた。
財布がいつの間にか鞄に入っていたり、本の順番が変わっていたり、置きっぱなしにしていた洗面用具が綺麗に乾いていたり。料理にいたってはすごく美味しい時と、果てしなくまずい時があり、同じインスタントラーメンしか食べてないはずなのに、毎回味が変わってしまった。
「これって、心霊現象とか…」
口に出すと、背中の辺りにゾワリと寒いものが走った。
「いやいやいや、ないないない。ないよな…」
「何が無いの?」
突然、声を掛けられて龍之介は、ひゃあっと飛び上がった。
龍之介の驚いた声に目を丸くした清子がそこに居た。
「おばさん!」
「何よ、大きな声出して。びっくりしたー。どうしたの、何か無くしたの?」
「えっ?」
「さっき、一人でないないないって言ってたじゃない」
「あっ、それは…」
今まであった事を話そうとしたが、龍之介は慌てて口を閉じた。
もし変な事が起きてるって言って、ここに住めなくなったらアラスカに強制送還されるかも…。
「まだうまく自炊出来なくて、お金が足りないなって…」
龍之介はぽりぽりと頬をかきながら、そう言った。
清子の事だ、目線を合わせたら嘘だとばれてしまうかもしれない。
そんな様子の龍之介に気付いているのか、清子は小さくため息を付くと、手に持っていた風呂敷を渡した。
「ほら。そんな顔していないで。これでも食べて頑張りなさい。大変になるのはこれからなんでしょ?何か悩みがあったら、おばさん何でも力になるから」
重箱が包まれた風呂敷はずしっりとした重みがあった。
「初めての一人暮らしだし。おばさんの家に居候してもいいのよ?」
「いや、それは…」
「うちの子は龍ちゃんと一緒に住むかもしれないって言ったら、特に反対はしてなかったのよ。まったくの他人って訳でもないんだから。それなのに、お母さんが年頃の男女が同じ屋根の下で生活するなんてー!って騒ぐから」
「でも、俺も兄弟いないし。ましてや女の子だから、一緒に生活するのはすごく気を使うから…」
一つ年上の清子の娘は、龍之介と同じ高校に通っていた。子供の頃は親戚の集まりなどで一緒に遊んだりもしたが、学年が上がるにつれて集まりに出席する事もなくなり、ここ数年は顔も合わせていない。
「そう?まあ、同じ高校に通うのに、一緒の家から出るのも嫌よね」
一人納得したかのように頷くと、目的の物を渡した清子はじゃあねと手を上げて玄関を出た。
「あっ、龍ちゃん。本当に何かあったらなんでも言ってね。家に来るのだって大丈夫なんだから」
顔だけ玄関から出して、清子はそう叫ぶと、ひらひらと手を振って立ち去った。
話したほうが良かったのかな…。藍色に染まった風呂敷を見つめながら、龍之介はそう思った。
いつのまにか太陽は完全に沈み、辺りは暗くなっていた。
部屋に戻り、一人用の小さなテーブルに風呂敷を置く。二段になった重箱には、下にぎっしりといなり寿司が敷き詰められ、上段には玉子焼き、蓮根のきんぴら、ほうれん草のおひたし、から揚げ、きゅうりとかぶの漬物たちが彩りよく並べられていた。
「おぉ、うまそう」
思わず頬が緩んでしまう。
色々考えたって答えが出る問題でもないし。
好物の玉子焼きに箸を伸ばした所で、洗濯物がそのままだった事を思い出す。
「やばい。まわしてそのままだった」
箸を置いて、急いで洗濯機置き場に向かう。
これからここに住む以上、少しでも印象の悪い事はしたくない。
干すのは後でいいよな。濡れた洗濯物をカゴに放り込むと、龍之介はそれを抱えて部屋に戻った。
一人暮らしの洗濯物は量が少ないから、洗濯も干すのも楽だよな。部屋の入り口に洗濯物を置くと、改めて座りなおす。
「よしっ、いただきまー…す…」
テーブルの上に目をやった龍之介は、そのまま固まった。
さっきまでぎっしりと詰まっていたはずの中身が、所々量が減っている。すきまなく敷き詰められていたいなり寿司は二つほど無くなり、底の黒い色が見えていた。
「減ってる…」
思わず口から出てしまった。
洗濯物を取ってくる間に誰かが食べた?
誰が?誰にも会わなかったぞ。
背中に冷たいものが走る。
得体の知れないものへの恐怖で、龍之介の手は震え、箸がカタカタと音を立てた。
やっぱり、何か居るんだ…。
過敏になった龍之介の耳に、小さな鈴の音が届いた。
上を見上げで、目に見えない何かを探す。
「何も居ないよな。そうだよな」
自分のそう言い聞かせながら、深呼吸する。
「あの~、すみません。お邪魔しています」
「ひぃ!」
「あぁ、上じゃなく、こっちです」
いつの間にか龍之介の右側に小さな女の子達が、きちんと正座して並んでいた。
「えっ!?」
「ごめんなさい。驚かせてしまって。あの、お邪魔してます」
赤い着物の女の子はそう言うとぺこりと頭を下げた。
「何!?」
「うるさいわね。少し落ち着きなさいよ」
ただ目を見開いて驚いている龍之介を見る事もなく、青い着物の女の子はそう冷たく言い放った。
「誰!?」
「ごめんなさい。怒らないでください」
緑の着物を着た女の子は、そう言うとしくしく泣き出した。
「あ、いや、怒ってないけど…」
「………」
黄色い着物を着た女の子は、口をもぐもぐと動かしている。
「………」
「食べた?」
龍之介の問にフルフルと首を横に振る。
「…ご飯粒、口についてるよ」
それでも黄色い着物を着た女の子は、首をフルフルと横に振った。
「あの、ごめんなさい。とても美味しそうだったので。少し食べてしまいました」
赤い着物の女の子はそう言うと、また頭を下げた。
「いや、それはいいんだけど。誰?ってか何?」
力いっぱい頬をつねると、確かに痛みがあった。
「私たちは龍之介さんに掃除してもらった畳です」
「…はい?」
「ですから、龍之介さんが一生懸命掃除してくれた、ここの畳です」
元気いっぱいに床を指差すと、赤い着物の女の子はにっこりと笑った。
「………」
「突然、そんな事言われてもついてけるはずないじゃない。ほら、見なさいよ。頭の悪そうな顔が、ますます悪そうになってるじゃない」
「そんな、頭の悪そうな顔だなんて失礼だよ。そんな事言われたら悲しくなるよ」
「別にあんたに言ってるわけじゃないでしょ。本当、すぐ泣くんだから」
「すぐ泣いてなんていないも…ん」
目を潤ませながら、緑の着物を着た女の子は必死に涙を堪えている。
「だめだよ。喧嘩しちゃ」
二人をなだめると、赤い着物の女の子は、こほんと一つ咳払いをした。
「先ほどもお話しましたが、私たちはここの畳なんです。この部屋に置かれてから、一度も使われる事無く過ごしてきました。ただ、埃にまみれるばかりで、夢も希望もありませんでした」
確か、一度も掃除してないって言ってたっけ…。
「そこに現れたが龍之介さんです!丁寧に、丁寧に何度も拭いてくれて。こんなにピカピカにしてくれました!これは何か恩返しをしたいと考えまして、私たちなりに色々頑張っては見たんですがなかなかうまく行かず」
「あぁ、よく分からないんだけど。精霊とか、妖怪?みたいなもの?」
「さあ、それは分かりません」
「自分で分からないの?」
「そうですね。気付いたらここに居て、誰にも使われないのが無念だという思いだけで」
「そっか…」
事情を説明されても、いまいちよく分からなかった。
この状況を普通に受け入れられる方がおかしいよな。
「とりあえず、何となくだけど分かったよ。えっと、恩返しとかはいいから気にしないで。掃除はこれからもこまめにやるから。…それでいいかな?」
「いえ!ぜひ、私たちにできる事は何でも言ってください!」
赤い着物の女の子は鼻息を荒くすると、胸の辺りでこぶしを強く握った。
「何でもって。何か出来るの?空飛ぶとか」
「出来ません」
「お金出すとか」
「出来ません」
「料理を出すとか」
「出来ません…」
「…何が出来るの?」
「洗濯物を畳むとか、食べた食器を片付けるとか…」
「…うん。気持ちは嬉しいんだけど、やってもらう事は特にないかな」
しょんぼりとうなだれる姿に、なぜか罪悪感を感じてしまう。
「ごめんね」
「いえ、謝らないでください!私たちは感謝を伝えたかっただけなので」
無理して笑う姿に心が痛む。
「これからしばらくここにお世話になる予定だから。畳も大切に使うから。えっと、安心してね?」
「龍之介さんは優しい人なので、何も心配してませんよ」
「そっか。…え、じゃあ」
「あっ、はい。では、私たちは消えますね」
「うん。なんかわざわざごめんね」
「………」
「あの、消えてないけど…」
「…消えませんね」
「いやいやいやいやいや、消えませんねって言われても困るよ!」
よく分からないけど、部屋にこんな小さな女の子が居るなんて周りにばれたら、どんな事になるか想像しただけで怖い。
「今までは姿を隠す事が出来ていたのに、なんで消えないんでしょうか…」
「そんな事、俺に言われても分かる訳ないだろ」
それまでモグモグと口を動かしていた黄色い着物を着た女の子は、ごくっと飲み込むと。ほっーと至福のため息をついた。
「もしかしたら、人間の食べ物を食べたのが原因とか?人と話をしたのが原因とか~」
あっ、食べた事認めた。
「これ食べたの、君だけじゃないの?」
龍之介はお弁当を指差すと、四人を見つめる。黄色い着物を着た女の子はへらへらと笑っているが、他の三人は不自然に目線をそらした。
「食べたのか…」
「あとは、未練があって消える事が出来ないとか~」
「未練って、幽霊じゃないんだから。何かしたい事でもあるのか?」
したい事の言葉に四人の目がキラリと光る。
あるのか…。
「分かった。俺に叶えられるものだったら、叶えてあげるから。成仏してくれ…」
まさか一人暮らしがこんな事になってしまうとは、想像もしていなかった。
龍之介は小さくため息をつくと、嬉しそうに跳ね回っている小さな女の子達を見つめた。
※
昼間の太陽が部屋にさんさんと降り注ぐ中、龍之介と四人は部屋に正座をしてお互い向き合っていた。
龍之介が一つ咳払いをすると、一枚の小さな紙を取り出した。そして、それを読み上げる。
「よし、お前がアカリだ」
アカリと呼ばれた赤い着物の女の子は嬉しそうに名前を呟いた。
「電気とか、夜に使う街頭とかの事を灯りって言うんだ。なんか、いつも元気でニコニコしてるから、アカリ」
「アカリですね。ありがとうございます、龍之介さん!」
アカリは龍之介に深々とお辞儀をすると、こぼれんばかりの笑みを浮かべた。
「で、お前がアオイ」
「お前なんて呼び方やめてくれない」
アオイと呼ばれた青い着物の女の子は顔を、ふんっとそっぽを向いた。
「あっ、はい。ごめんなさい。えっと、葵って花があって、なんかその花のイメージと近いからアオイ。まあ、高貴な感じかな」
高貴という言葉に、ちょっと眉が上がる。
「ふんっ、まあ、龍之介にしてはいいんじゃない」
「…それは良かった。で、君がシズク。零れ落ちる水の事をしずくって言うんだけど、まあ、名は体を表すというか」
「シズク…」
緑色の着物を着た女の子は今にも泣き出しそうだ。
「えっ、何、気に入らなかった?」
「いえ、違います。すごく素敵だと思います」
「別に泣かなくても、ね」
「ありがとうございます。名前、大切にします。龍之介様」
「様って…。別に普通でいいから」
龍之介が引きつった顔をしても、シズクはきっぱりと龍之介様は龍之介様ですからと譲らなかった。
すぐ泣くから気が弱そうだけど、実はそうでもないのかも…。
「最後に、君がコトブキ」
「はい。コトブキね。了解~」
「…一応、理由を言います。寿はめでたい事を表す言葉で。なんか、おおらかな感じとか、あまり物事を真剣に考えていない感じとか…。まあ、そんな感じです」
龍之介を見て、コトブキは笑った。
「一生懸命考えてくれたんでしょ?分かってるよ~」
名前って何ですか?と言われたのは、出会った最初の夜の事だった。
確かに名前を呼び合わなくてもコミュニケーションは取れる。不便じゃないのか聞いたら、なぜか話の流れで名前をつける事になってしまった。
「よし、名前も決まった事だし。それぞれのお願い事を聞いていこうか」
龍之介がそう言うと、始めに手を上げたのはコトブキだった。
「きっと、私の願いが一番叶え易いと思うので最初にしてもらいたいなー」
「そんなにすぐ叶うのか?」
「そうだね~。今日は天気もいいし、すぐ叶うと思うよ」
コトブキは窓に近づくと、地面を指差した。
指差す先を見ると、風に飛ばされた桜の花びらが何枚か地面に落ちていた。
龍之介は窓を開けると、小さく風が部屋に吹いた。
「風で飛ばされてきたんだ。咲いている所に連れって行ってあげれれば早いんだけど、コトブキたちは外に出れるのか?」
龍之介の問に、コトブキたちは首を横に振った。
「私たちは畳ですから、龍之介さんのように自由に外に出る事は出来ません」
アカリは寂しそうにそう言った。
「そっか…。うん。よしっ。ちょっと待ってて」
龍之介はコトブキの頭を優しくなでると部屋を出た。
外に出ると冬の低い日差しが、龍之介の目を指した。
「確か、ここに来る時に桜を見た気がするんだけど…」
龍之介は記憶を頼りに走り出した。
※
「龍之介さん、遅いですね…」
アカリは龍之介が出て行った扉の前でそわそわと外の様子を伺った。
ちょっと待ててと龍之介が出て行ってから、かれこれ一時間以上が経過しようとしていた。シズクもアカリの側で一緒になって扉に張り付いている。
「龍之介様、もしかして何処かで事故にあってるとか…」
アオイはそんな二人を呆れるような眼差しで見つめた。
「二人ともちょっと落ち着きなさいよ。別に小さな子供って訳じゃないんだし」
「そう言う、アオイちゃんもさっきから全然本が進んでないみたいだけど~」
コトブキに鋭くつっこまれて、アオイは思わず赤面する。
「アオイちゃん、また龍之介様の本読んでるの?」
「そう。教科書っていうんだって。色々な事が書いてあって面白いわよ。シズクも読んでみたら?」
「シズクはいいや…。分からなくて泣きたくなってくるし…」
三人がそんな会話をしていると、アカリが突然大きな声を出した。
「龍之介さん!?」
窓に駆け寄ると、龍之介が手のひらに何かを抱えたまま、ひじで必死に窓を開けようとしていた。わずかな隙間が空くと、底に腕をねじ込ませ、窓を大きく開ける。
「お待たせ」
龍之介は窓を開くと、数歩後ろにさがり手を高く掲げた。
「龍くん、それは一体何をしているのかな?」
コトブキの問いかけに、龍之介はにやりと笑った。
そこにさぁーっと風が吹くと、龍之介は手のひらをゆっくりと広げた。
小さな花びらが風に乗って、ふわりと部屋の中に舞い踊る。淡いピンクの花びらが、太陽の光にキラキラと光を放ちながらふわりと舞い落ちた。
「ごめんな。桜の木は持って来る事が出来ないんだ。だから、せめて花びらなんだけど…。どうかな」
龍之介は不安そうにコトブキの顔を見つめた。
「最高だよ、龍くん。今まで見た中で一番きれいだ」
コトブキは畳の上に落ちた花びらをつまむと、大切に胸に抱えた。
コトブキの周りに三人が集まる。
「コトブキさん、消えちゃうんですか?」
シズクが涙を浮かべながら、コトブキの手を取る。
「ん~。私の願いは叶ったからそうなると思うけど」
「全然消えないわよ」
「消えないね~」
四人は不思議そうに頭をひねっている。
「もしかしてさ、四人全員の願いが叶わないと消えないんじゃないの?」
龍之介は窓から体を乗り出しながら言った。
「確かにその可能性はあるかもしれませんね。私たちずっと一緒ですから」
アカリも龍之介の意見に賛同する。
「じゃあ、後は三人の願いだけだねー」
コトブキにそう言われた三人は顔を見合わせる。
「先にどんな願い事か聞いといてもいいかな?叶えるのに時間がかかるものなら、準備出来るものは先にしちゃいたいし」
龍之介がそう言うと、シズクが小さく手を上げた。
「あの…、シズクはポタポタって綺麗な音がするやつが見たいです。出来ればコトブキさんみたいに、触ったりしたいな」
龍之介は首を傾げた。
「ポタポタじゃなくて、雨でしょ。確かに窓越しで見るだけだから、実際に触ってみたり見てみるのは素敵かもしれないわね」
「そっか。シズクは雨が見たいんだな。で、アオイも雨なのか?」
「私は違うわよ」
「じゃあ、なんだよ」
龍之介の問に、アオイはモゴモゴと口を動かすがその声は小さすぎて聞えない。
「えっ?」
「…いも」
「何?聞えないよ」
耳に手をかざすと、アオイは顔を真っ赤にしながら叫んだ。
「石焼いも!」
「石焼いもがどうしたんだよ。食べたいのか?」
アオイは頬を膨らませると、龍之介に赤くなった顔が見えないように背を向けた。
「そうよ!石焼いもが食べてみたいのよ。よく聞えてきたのよ、歌が」
その姿に龍之介は堪えきれなくなって吹き出す。
生意気そうに振舞っているが、叶えたい願いが芋が食べたいだと。
「何よ!何かおかしい」
「いや、ごめん。なんか可愛くって」
龍之介の発言に、アオイは別の意味で顔を赤くさせた。
「うん。アオイは石焼いもだな。アカリは?」
それまで会話に入ってこなかったアカリは龍之介に声を掛けられて、びくっと肩を震わせた。
「私はまだ決まってなくて…。でも、すぐ決めるから、先にシズクちゃんとアオイちゃんのお願いからでいいですか?」
アカリはごめんなさいと頭を下げた。
※
それから何日か過ぎた。
なかなか雨は降らず、そして石焼いもの音色も聞えてこなかった。
龍之介は窓を開けて空を見上げた。薄い雲は出ているが、所々青い空が見え、今日も雨は降りそうになかった。
「雨って、待ってみると中々降らないもんなんだな」
気分は砂漠で恵みの雨を待つ旅人のようだ。
「今日も降らないですかね」
気付くと龍之介の隣で一緒になって空を見上げるアカリの姿があった。
「そうだな。ずっと降らないって事はないと思うんだけどね」
出来れば学校が始まる前にこのおかしな状況を解決しないといけないし。龍之介は部屋の中で思い思いに寛ぐ面々を見てそう思った。
「そうだ、アカリはどうなの?お願い事、考え付いた?」
「それが、まだちょっと悩んでいて…」
アカリは困ったような笑顔を浮かべた。
願い事の話を振ると、大抵困った顔をする事に龍之介は気付いた。
何か悩みでもあるのか?
「願いが一つじゃないから悩んでるとか?」
首をブンブンと横に振ると、アカリは笑った。
「違いますよ。ぼんやりですけど決まりつつはあるんです。大丈夫です。龍之介さんにご迷惑は掛けないように、ちゃんと決めますから」
なんか空元気に見えるんだよな…。
「龍之介さん?」
「迷惑とかって考えなくていいよ。まあ、最初は戸惑ったし、どうしようかと思ったけど。なんか小さい妹がたくさん出来たみたいで、ちょっと楽しいしさ」
期間限定だから楽しんでいられるってのもあるかもしれないけど。
龍之介はアカリの頭をそっとなでた。
「あー!アカリさん、ずるい。龍之介様、シズクもなでて欲しいです」
「龍之介。私の頭も特別になでていいわよ」
「あぁ、気持ちよさそうだなぁ。龍くん私もお願いしたいなぁ」
好き勝手な事をしていたはずの三人が龍之介に詰め寄る。
「押すなよ。分かったよ、順番な、順番」
龍之介はその場に座ると、一人ずつ頭をなでた。
「龍之介さんは本当にお優しい人ですね…」
アカリがふと外に目をやると、窓に小さな水滴がついていた。それは一つ、また一つと増えていく。
「龍之介さん!雨!」
相変わらず空には薄い雲しかかかっていなかったが、小さな雨粒が地上に次々と降り注いだ。
「お天気雨かな」
龍之介はそういいながら窓を開けた。
「おいで、シズク。雨だ」
シズクを抱えて窓の前に立つと、雨粒が風に乗って顔にかかった。シズクは抱きかかえられた状態のまま、両手を大きく窓の外に出した。
「龍之介様、雨って冷たいんですね」
「そうだな」
「龍之介様、雨って綺麗ですね」
サッーと音を立てて降る雨は、地面に小さな水溜りを作り、軒に溜まった雨水が自然のメロディーを奏でていた。
目をつぶると、雨のコンサート会場に居るようだ。
「そうだな。綺麗だな…」
シズクの目からは涙がポロポロこぼれていた。
雨の音を聞いていると、時間がゆっくり流れているように感じた。
「龍之介!」
突然、アオイが龍之介の体を激しく揺さぶった。
「どうした、アオイ」
「聞えない?」
シッと唇に手を当てると、アオイは耳をそばだてている。龍之介もそれにならって耳を澄ます。雨の音に混じって、遠くの方から笛の音が聞える。
「石焼いもか!」
龍之介の言葉に、アオイはこくりと頷いた。
慌てて財布を掴むと、龍之介は急いで部屋を出た。
玄関に置かれたビニール傘を開くと、あたりを見回す。ビニールに雨が当たる音が邪魔で、音のする方を特定するのが難しい。
「くそっ。なんで芋と雨が一緒にやってくるんだよ!」
傘をしっかり掴むと、龍之介は音のする方に走り出した。
住宅街だから音のボリュームでも変えているのだろうか、音が近くなったり遠くなったりを繰り返しているようで、中々距離感が掴めない。
龍之介が石焼いものトラックを見つけたのは、アパートから大分離れた場所だった。
雨に濡れないように服の中に隠すと、龍之介はアパートまでの道を走って帰った。
「これが石焼いも…」
皿の上に置かれた芋の前で、アオイは呟いた。
アカリからタオルを受け取ると、龍之介は頭を拭きながらアオイの前に座った。
「そう、これがアオイの願った石焼いもです。どうぞ」
アオイが芋を二つに割ると、甘い香りが部屋に広がった。
「いい匂い…」
アオイはそう言って芋を口にほお張った。コクンと飲み込むと、アオイは無言で芋を小さくちぎり出した。綺麗に五つに分けられた芋をアオイは配り始めた。
「貰ってもいいの?」
アカリが尋ねると、アオイは頷いた。
「ありがとう、アオイちゃん」
「いい匂いだね~。いただくよ」
龍之介の手にも芋が乗せられる。
「アオイ?」
「すごく美味しいから、みんなで食べたいだけよ」
アオイはそう言うと自分の芋の前に座り食べ始めた。
龍之介は手の中の小さな芋を口に入れた。その芋は今まで食べた事がないほど甘く感じた。
昼に降り出した雨は、日が変わる頃にはすっかりと止み、綺麗な月が姿を現していた。
ふと窓に目をやると、アカリの後姿が見えた。
「んっ、アカリ?」
声を掛けると、アカリは慌てたように振り返った。
「すみません、龍之介さん。起こしてしまいましたか?」
「いや、どうした?」
ふすまを開けた状態の押入れの中では、他の三人が仲良く川の字で眠りについている。
「寝れないのか?」
「ちょっと、色々考えてしまって」
また、その顔か。
「なあ、アカリ。何かあるなら言わないと分からないよ。一人で悩んで解決しないなら、誰かに相談しないと」
そう言うと、龍之介はため息をついた。
「龍之介さん。ちょっと聞いてもらえますか?」
真剣な表情のアカリに、龍之介は布団の上できちんと姿勢を正した。
「私、すごく楽しかったんです。龍之介さんと出会ってたくさんの事を知りました。ずっと一緒に居たから何でも知ってるはずなのに、アオイちゃんや、シズクちゃん、コトブキちゃんの事をもっと深く知る事が出来ました。すごく、すごく楽しくて。龍之介さんには感謝しかなくて…。それなのに…」
「アカリ?」
「ごめんなさい、龍之介さん。私は、龍之介さんには絶対に叶えられない事を願ってしまっています」
「俺には絶対に叶えられない事なの?」
「…はい」
「言えない事?」
「…言っても仕方ない事です」
「仕方ないかは言ってみないと分からないし、俺だって言われてみないと分からないよ?」
「………外に。外に行ってみたいんです」
「外って、この部屋の外に出てみたいって事?」
龍之介がそう尋ねると、アカリは頷いた。
「私たちはここから出られません。それは分かってるんです。でも、コトブキちゃんの花びらや、シズクちゃんの雨、アオイちゃんの石焼いもとか見ていたら、外の世界ってどんな所なんだろうって…。そう考えたら、それ以外思いつかなくなってしまって」
アカリは悲痛に顔を歪めた。
「そっか。そうだよな。外、出てみたくなるよな。俺も風邪引いた時とか、外に出れないって時に限ってすごく外に出たくなるから。アカリの気持ち分かるよ」
龍之介はアカリの頭を優しくなでた。
「怒らないんですか?」
「なんで怒るの?」
「だって、叶えられない事言ったから」
「叶えられないなんてどうして決まってる?俺が畳を背負って外に出れば、アカリも外に出られるかもしれないし?やってみなきゃ分からないだろ」
アカリはボロボロと涙を零した。
「ほら、泣かないの。それじゃあ、シズクみたいだぞ。明日、みんなに相談して、どうしたらいいか考えてみよ」
アカリは両手で顔を拭うと、目を赤くさせながら頷いた。
※
「という訳で、みんなでどうしようか考えようと思うんだけど…」
龍之介の隣には、結局眠れなかったのか真っ赤な目をしたアカリ。そして、二人の前にはいつもにも増して不機嫌なアオイ、すでに泣いているシズク、半分寝ぼけているコトブキが居た。
小さくなっているアカリの頭を、アオイがペチリと叩いた。
「何よ、一人で抱え込んじゃって。馬鹿は馬鹿らしく、悩んでないですぐ相談しなさいよ」
「そうだよ、アカリちゃん。水臭いよ」
「そうだねー。解決しなくても話して欲しいかな」
「ごめんなさい…」
「まあまあ」
龍之介が場をおさめると、アオイが龍之介に向き合った。
「昨日、二人の話を聞いて考えてたんだけど」
「起きてたのか、お前?」
「お前じゃないわ。まあ、いいわ。畳を持って歩くってのも、個人的には龍之介がすごく馬鹿っぽいから言いと思うんだけど。一つだけ可能性がある事があるんだけど。みんな、最初にこの姿になった時の事覚えてる?」
アオイは三人の顔を見た。
「確か、龍くんが掃除してくれた最初の日だったっけ?」
コトブキの答えに、他の二人も頷いた。
「えっ?最初からこの姿じゃなかったのか?」
「違うわ。あの日、布団も敷かずに眠ってしまった龍之介に布団を敷いてあげるためにこの姿になったんだもの。話を戻すけど。元々私たちは形に縛られる訳ではなかったと思うの。必要があったから、この形になった。なら、また別の必要が生まれたなら形を変えればいいと思わない?」
アオイの問に、シズクが頭を抱える。
「アオイさん、もう少しシズクにも分かりやすく言ってください~」
「だから、今、外に出られない体だったら、出られる体にすればいいんじゃないかって事」
「何か策はあるのか?」
龍之介が尋ねると、アオイは鼻で笑った。
「策がないのに話をするはずがないでしょう。多分、今のまま四人がバラバラだったら、外には出られないと思う。でも、四人で一人だったらもしかして出れるかもしれない」
「それは、合体するって事?」
「融合という方が正しいと思うわ。合体は個々の固体に変化はないんでしょ?融合はすべてが溶けて一つになるって事よ」
アカリが首を振る。
「それってみんな消えるって事?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。とりあえずやってみないと分からないわ。シズクとコトブキはどう?」
「シズクは賛成です」
「私もいいと思うよ~」
「三対一。決まりね」
アオイはにやりと笑った。
「龍之介。ちょっと席をはずしなさい」
ただ四人のやり取りを眺める事しか出来なかった龍之介は突然声を掛けられて間抜けな声が出た。
「部屋を出てなさいって言ってるのよ」
アオイに凄まれて、龍之介は慌てて部屋を出た。
しかし、部屋を出たとしても何かやる事がある訳でもなく。龍之介は部屋の扉の前に座った。廊下には暖かな日差しが降り注いでいる。高い空は雲ひとつない青空だ。
春だなぁ。ぼんやり空を眺めながらウトウトしていた龍之介は、背中に大きな衝撃を受けて目を覚ました。
「龍之介さん!?」
扉の向こうに居たのは、龍之介の通う高校の制服を着た少女だった。腰まである長い髪が龍之介の目の前でサラサラ揺れた。
「アカリか?あいつらは?」
「みんなここにいます」
胸の上に手をそえると、アカリはにっこりと微笑んだ。
「で。なんで、制服着てるんだよ」
「目立たない格好をと思って」
テーブルの上に出された高校の学校案内を指差してアカリは言った。
「まあ、目立ちは…しないかな」
白く透き通った肌に、形の良い紅色の唇。長いまつげにくりっとした愛らしい瞳。
「龍之介さん?」
声を掛けられて思わず、ドキッとしてしまう。
ドキッてなんだよ。ドキッて!
「と、とりあえず、外に出れたんだったら、どこか行ってみるか?」
「良いんですか!?」
「お金もないし、そんな遠くへは行けないけど、それでいいなら」
「いいです!大丈夫です!ありがとうございます、龍之介さん!」
抱きついてくるアカリに、龍之介はただ顔を赤くして固まった。
外に出たアカリは感嘆の声ばかり上げた。小さな花を見つければ駆け寄り。鳥が飛んでいれば立ち止まり。目をキラキラさせながら右へ左へくるくると動き回った。
なんか、犬の散歩みたいだな。
「はしゃぎ過ぎると転ぶからなー」
先を行くアカリは龍之介の声に、こちらも見ずに返事をした。
「あれは、絶対に聞いてないな…」
先を行っていたはずのアカリが急いで戻ってくると、興奮気味に龍之介の腕を取った。
「龍之介さん!龍之介さん!あれ!あれはなんですか!?」
「ちょ、アカリ。何、ひっぱるなよ」
ずるずると引きづられた先はピンク色の小さなゾウの滑り台と、一人の利用のブランコが二台あるだけの小さな公園だった。
「公園だな」
「公園?ですか?」
「公園ってのは、子供が遊んだりするとこかな」
「そうなんですか!じゃあ、龍之介さん、遊びましょう!」
アカリはそう言うと、ブランコの方へ走り出した。
「いや、遊ぶって言っても小さい子供がする事で…」
ブランコの隣で笑顔で手を振るアカリに、龍之介は言葉を飲み込んだ。
「まあ、いいか」
※
この時期は、日の出ている時間は暖かく過ごせるが、一旦太陽が沈み始めると冷えるのも早い。気付くと空が夕焼けに赤く染まろうとしていた。
冷たくなった風が吹き、アカリが小さくくしゃみをした。
「そろそろ帰るか」
龍之介はそういうと、首に巻いていたマフラーをアカリに巻きつけた。
「私は大丈夫です!龍之介さんが風邪を引いてしまうので!」
「俺が見てて寒そうだからいいの。ごめんな。防寒具まで頭に入ってなかったわ」
龍之介はいつものようにアカリの頭をなでた。
何もかもが夕焼けに赤く染まった公園は、アカリの顔も赤く染めていた。
「暗くなる前に帰るぞ」
龍之介が振り返ると、アカリはじっとその場に佇んでいる。
「どうした?」
「あの…、龍之介さんにもう一つ、お願いがあるんです」
「お願い?」
「…龍之介さんが通う高校に行ってみたいんです」
「俺の高校?まあ、近くまではいけると思うけど、きっと閉まってると思うぞ」
「それでも構いません!」
さっきまでのはしゃっぎプリは何処に行ってしまったのかと思う程、大人しくなったアカリはただ黙って龍之介の後に続いた。
「静かだな。遊びすぎて疲れたか?」
龍之介がそう聞くと、アカリは「はい」と返事した。マフラーで顔の半分が埋まってしまっているので、その表情はうかがい知る事は出来なかった。
カラスのなく声が空に響き、二人の影が長く道路にのびた。高校まで向かう坂道に差し掛かった頃には、辺りはすっかりと闇に包まれ、空に小さな星が瞬いていた。
「龍之介さんはこれから毎日こうやって通うんですね」
「そうだな。雨だからって休む訳には行かないからな」
誰も居ない夜の学校は非常灯の灯りだけが校舎から漏れ、何か出てきそうな薄気味悪さがあった。
何か出てくるって。一緒に居るのが、そんな感じの存在だもんな。
龍之介は思わず笑った。
「門も閉まってるし、中は入れないな」
アカリは突然地面にしゃがみこむと何か拾った。
「龍之介さん。これ」
それは小さな桜の花びらだった。
「ああ、学校の校庭に大きな桜の木があって、それが満開なんだよ。きっと風に飛ばされてここまで来たんだろうな」
学校見学会に来た時には青葉が茂っていた。校舎から見える場所に植えられた桜の木は、満開になれば綺麗だろうとその時思った事を龍之介は思い出した。
春からその桜を眺めながら授業を受けるのだ。
「私、その桜見たいです」
そう言うと、アカリは柵をよじのぼり始めた。
「だめに決まってるだろ。危ないぞ」
ひょいと柵を登ると、アカリは龍之介の静止も聞かずに走っていった。
「あの馬鹿!」
龍之介は急いでアカリの後を追った。
揺れる長い髪を追って、夜の学校を走る。桜の木の下で立ち止まったアカリは、静かに木を見上げた。
「アカリ!」
振り返ったアカリは今まで見た事のない様な、穏やかで優しい顔をしていた。
「綺麗だねぇ。龍くん」
「お前、コトブキか?」
「誰でもないわよ。融合って言ったでしょ。馬鹿ね。龍之介は」
「アオイ」
「馬鹿なんかじゃないですよ!ねっ、龍之介様」
「シズク…」
「龍之介さん」
「アカリか?」
「はい。龍之介さん。ありがとうございました。私たちを綺麗にしてくれて、大切にしてくれて、願いまで叶えてくれて。本当に、本当に龍之介さんには感謝しかありません」
アカリは深くお辞儀した。
「ありがとうって、なんかお別れみたいだな…」
龍之介の言葉に少し困った顔をしたアカリは龍之介の手を握った。
「はい。お別れです。コトブキちゃんの願いも、アオイちゃんの願いも、シズクちゃんの願いも、そして私の願いも全部叶えてもらいました」
「そっか…。消えるのか?」
「はい。消える事だけは何となく分かります」
「消えた後、どうなるんだ?」
アカリは首を振った。
「それは私たちにも分かりません」
「そっか…」
アカリは龍之介の頭を優しくなでた。
「ふふっ、いつもと逆ですね」
「泣くんじゃないわよ。龍之介」
「シズクは泣きません。笑顔でお別れしたいから」
「きっと、また何処かで会えるよ~」
鼻の辺りがつんとして、目に涙がにじみそうになるのを龍之介は必死で堪えた。
少女の姿をしたアカリがどんどん薄くなっていく。その手を掴もうとしたが、ただ虚空を掴むのみだった。
「アカリ!」
笑顔で消えようとしていたアカリの顔が、くしゃっと歪んだ。
「龍之介さん!本当は!本当は消えたくない!ずっと一緒に居て、桜を見たり、雨に濡れたり、そんな普通の事を龍之介さんとしたかった。私の本当の願いは…」
最後の言葉が紡がれる前に、少女の姿は夜の闇に溶けて消えていた。龍之介のマフラーだけが虚しく地面の上に落ちた。夜の風にただ桜の花びらだけが舞い落ちた。
※
ブレザーのネクタイを締めると、龍之介はよしっと気合を入れた。
入学式の為にわざわざ帰国してきた両親は、龍之介の部屋に入りきらないほどのお土産を持ってきた為に、部屋は随分狭くなってしまった。
まあ、全部食べ物だし。食べれば広くなるか。
玄関から両親の呼ぶ声が聞える。
鞄を持って扉を開ける。部屋の中を振り返ると、暖かな春の日差しが部屋に降り注いでいる。
「いってきます」
龍之介はそう呟くと、扉を閉めた。
誰も居ない部屋にチリンと小さな鈴の音が響いた。