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白狐ノ草子   作者: つゆのあめ/梅野歩
▼雪の章:病ノ編(連載中)
73/77

たとえばの雪解けに花束を(二)

医者を担う付喪神の一聴の下を訪れる翔と、市井の妖が暮らす集落「(かく)ろえ」と、友情の一片と。



 すっかり三日月が昇った寒空の下。


 本日一度も講義を受けずに大学を後にした翔は、その足で『(かく)ろえ』を目指していた。

 『隠ろえ』とは多くの市井の妖が棲みついているところで人間が暮らす町と、妖の社がある異界の境にある。

 謂わば化け物らの暮らす集落で、主に人間と共に暮らすことを好まない者達がそこで暮らしている。

 その昔は岩場や森、空き家等など腐るほど身を隠す場所があったそうだが、こんにちの南北の地にそれらは存在していない。このままでは市井の妖らが可哀想だと、当時この地を統べていた神職らが、新たにひと目を避けられる居場所を設けた。


 それが『隠ろえ』だという。


 隠ろえは南北の地に数か所存在しており、翔は南の地を統べる狐として各所を見回っている。個々に何かあれば、すぐに駆けつけられるように、と比良利に連れられて何度か訪れたことがあるのだ。

 なかなかに楽しいところで、妖の社では見られない店や生業(なりわい)が存在している。それを見て回り、妖らと交流して学ぶのが何よりも楽しいので、翔は隠ろえをお気に入りとしている。


 しかしながら、今宵は妖と交流する暇はなさそうだ。

 なにせ今から隠ろえに向かうのは、医者を担っている付喪神の一聴の下を訪れるため。

 理由は当然、天馬に背負われている雪童子の診察だ。


「雪之介。具合はどうだ?」


 翔は雪之介に声を掛ける。

 へらりと笑う彼は、右腕を溶かしてしまったにも関わらず、いつもの調子で笑った。


「まあまあ良いよ。ごめんね、かの十代目に荷物を持たせちゃって」

「ばか。ここは人間の町なんだから、十代目もくそもあるかよ。リュックくらい持つって」


 いまは自分の心配をするべきだと意見すると、雪之介はしかめっ面を作った。


「さっきよりも雪解けは小さくなったから、自分の足で歩けるんだけど。右腕以外なんの損傷もないし……天馬くん。下ろしてって言ったら怒るよねぇ」

「分かっているなら聞くな」


「いやだって、悪目立ちするじゃん。カーディガンすら羽織らせてくれないし。今の僕の格好を見てよ! 下はジーパン、上は半袖一枚だよ? 右腕は適当に隠せるからいいとしてもさ、服装はもう少し気にしないと……見るからに風邪引きそうな格好でしょ」


 厚着をさせてほしい、ぜひさせてほしい、このままでは悪目立ちすると雪之介。

 雪ん子は厚着なんて好まない。それでも厚着を主張しているのは、彼が人間の目を気にしてのことだろう。仕方がないことだ。彼は人間の社会で生まれ育っている。人間に憧れを抱いている節もあるので、どうしてもいまの格好を気にしてしまうのだろう。今宵は人間にとって本当に厳しい寒さなのだから。


 さりとて、天馬はもちろん翔も雪之介の意見には反対の意を唱えた。

 雪之介の気持ちは分からないでもない。が、最優先すべきは雪之介の体だ。カーディガンを羽織って、もしも左腕が溶け崩れてしまったらどうするのだ。

 ただでさえ右腕が溶け崩れたことで、雪之介の体から雪がこぼれ落ちている。

 応急処置としてタオルを包帯のように裂き、それで右肩口を縛ったが、正直それで雪解けが止まるとは思えない。そのためにも一聴の下へ向かっているのだから、その間は無暗に体を刺激してほしくない。


「幸い、いまは夜だ。人間は強い夜目を持っていないから、お前の身なりをまじまじと見る奴なんていねぇよ」

「でも町は明るいし」

「昼間に雪解けが始まらなかっただけ幸運だと思っとけよ。雪之介、あんま我儘言ってると、十代目として命じるぞ」

「うわぁ。職権濫用じゃん」

「しょうがないだろ。お前が我儘ばっか言うんだから。俺は一友人として接したいけど、雪之介がこれじゃあ……なあ?」

「ずるい言い方しちゃってさ。僕がそう言われて何も思わないとでも思ってるの?」

「あははっ、お前ならそう言ってくれると思った。諦めて半袖になっておけよ」


 翔は雪童子の肩を軽く叩く。

 恨めしそうな眼を向けられたが、甘んじて受け止めておくことにする。


「錦くん。たまには自分の好む気温に合わせても良いと、夕立は思うよ?」


 天馬を挟んで左側の道を歩く夕立が苦笑いをこぼし、買い足したロック(アイス)の袋を雪之介に差し出す。


「ほら、これで体を冷やして」

「……ありがとう。でも僕がこれを持ったら、天馬くん寒くない? ただでさえ僕を背負って寒いと思うんだけど」

「問題ない。些少の差だ」

「そう? じゃあ、有り難く持っておくけど」

「お前は?」

「ん?」

「残念なことに自分には体温がある。お前にとって熱いかもしれない」

「ロック(アイス)があるから大丈夫だよ」


 左手でしっかりロック(アイス)を抱えると、雪之介は自分が情けないと嘆いた。

 今日は過ごしやすい気候だというのに、雪の体は暑い、熱い、あついと悲鳴を上げた。挙句、雪解けが始まってしまうなんて。雪童子内で己の体は丈夫で、殆ど病にも罹らない部類なのに……気候の変動ですぐ体調を崩してしまう。自分は元気なのに!

 ぶうぶう、と文句垂れる雪之介は自分の体に大層不満を持っているようだ。


「一度で良いから、寒いって言ってみたいよ。僕にはその感覚が分からないから。翔くん、どうやったら寒がりになれるの?」

「お前なぁ。寒がりって全然良いもんじゃないんだぜ」


 好きで寒がりになっているわけではない、翔は肩を竦める。


「翔さまはいつも尾っぽを首に巻いてますもんね。夕立はとても可愛いと思います」

「あ、いや、それは無意識で」

「いまも首に尾っぽを巻いていますけど、夕立はとても可愛いと思います」


 爛々とした眼を向けられ、翔はハッと己の身なりを確認。

 見事に三尾を首に巻いている自分に気づき、急いで尻を叩いて尾っぽを隠し消した。危ない危ない、変化が解けかけていた。

 こういうところがまだまだ未熟狐と呼ばれる所以なのだが、自称ファンを名乗っている蝶化身の夕立はその姿にまた目を輝かせると、「いと尊し」と呟いて感情を噛み締めていた。


「推しが、夕立の推しがうっかりを……いつもあんなに綺麗な神主舞を舞っている翔さまのうっかりをするなんて。夕立生きてて良かったです。これが尊いって気持ちっ」


 たいへん居たたまれない気持ちになるのは、何故だろう。


「ふふ、白木さんは本当に翔くんのことが好きなんだね」

「錦。それを言ってしまうと」

「あ゛」


「好き……それだけでは言い尽くせない気持ちなのです。夕立のこれは推しを愛でる気持ちなのです。毎日その姿を見られるだけで涙が出てきますし、翔さまがオツネさまを愛でていたらそれだけで癒されます。比良利さまと神主舞を一緒に踊られている姿は凛々しく美しい。美味しいものを食べて幸せになっている姿なんて見たら、夕立の一週間は大吉なのです。毎日がハッピーなのです! なにより夕立は推しに幸せになってもらいたい派なので翔さまには沢山幸せになってほしい。ああ、夕立の推しは尊い。すぐ近くに翔さまがいるこの空間が幸せな反面、他の翔さまファンには申し訳ない気も……ううっ、もっとファンのみんなと気持ちを分かち合いたい。罪深い悩みを夕立は抱えています」


「……翔くんがオツネちゃんを自慢する時くらい、すごい弾丸トークしてる。白木さん」

「……ギンコを語る俺ってああなのか。そっか。そっかぁ。夕立に負けねえようにしないと」

「……翔、僭越ながら進言をさせていただきます。張り合うところがずれている気がします。しかし自分も白木に負けぬ忠誠心を持たねばならないな」

「……天馬くんも結局、その結論に至るんだね。はあ、ツッコミ役がもう一人ほしいよ」


 おのおの感心やら興奮やら納得やらため息やらで、一帯の空気は賑やかとなった。

 これがいつも大学の面子で過ごす時の空気感であり、翔とって気の置けない時間であった。ただの大学生となれるこの貴重な時間は、とても大切にしている。

 ゆえに雪之介の雪解けには驚いてしまったし、過剰に心配を寄せてしまう己がいる。心配し過ぎると向こうも心苦しくなるだろうから、あまり表には出さないが……。


「あ、雪」


 ふと空を仰いだ翔は、手袋を嵌めた右手を持ち上げる。

 ふわふわとゆっくり落下してくる粒子を受け止めると、再び空を見つめた。雲一つない快晴だというのに、雪が降ってきたなんて、この雪はどこから生まれたのだろう。


(……雪之介が関係してる、わけでもなさそうだし)


 翔は隣で会話を広げている妖らを一瞥すると、左手の手袋を口に銜え、するりとそれを外す。

 そして右手に降り落ちた雪の粒を指で触る。それは瞬く間に水となった。雪の跡形もなかった。


(気候の化け物は脆い、か)


 水となった雪の粒を握り、翔はほうっと白息を吐いた。



 ※ ※



 医者を担う付喪神の一聴が暮らす『隠ろえ』は、北の地にある商店街の路地裏にある。

 そこはヒトの行き交いが激しい商店街で、大型ショッピングモールやコンビニに負けないよう、個々で特徴ある店を開いているのが特徴だ。少し歩けばたい焼き専門店に、コロッケが絶品の精肉店に、古き良きレコードを売る楽器屋に――とにもかくにも一点の分野に尖った店が多い。


 手頃な値段で売っていることもあり、昼夕は主婦や学生が多く、夜が更けると店は静まり返っている。

 人通りの多い商店街の夜は割と治安が悪く、ひとたび路地裏に入れば、ヤンチャな人間どもがたむろっていることも多々あるとか無いとか。

 さりとて、そのような人間が商店街で行方不明になることも多いと聞いているのだが、はてさてその真相は如何に。


 翔はみなと共に潰れてしまった駄菓子屋の脇道に入る。

 一本道のそこを先導して進めば、向こうに人間が数人たむろっている。見るからに悪そうなヤンキーであったが、翔がにこりと微笑むと、悲鳴を上げて逃げてしまった。失礼な人間達である。自分は退いてほしいと願いを込めて微笑んだだけなのに。


「翔くん。君って時々容赦なくなるよね」

「んー?」


 振り返ると、天馬におぶられている雪之介が苦笑い。


「俺はただ笑いかけただけなんだけどな?」

「その顔が、人間の目にはどう見えたんだろうね」

「もしかすると、狐の化け物に見えたのかもな」


 余談はさておき。

 翔は一本道の路地裏を進んでいく。左右はブロック塀で囲われている。そこをただひたすらに進んでいくと、やがて行き止まりにぶつかった。やはり左右には落書きだらけのブロック塀。目の前もおなじくブロック塀と落書き、そして色褪せたポスターが一枚。昭和を感じさせるラムネのポスターが貼られていた。

 ここに『隠ろえ』の入り口があるのだが……初めて来た時は『隠ろえ』の入り方に驚いたっけ。


 翔はポスターの前に立つと、その場で三回足踏みをする。

 必ず左足から始まり、左足で終わるように足踏みをした後、左足をポスターに入れる。文字通り、ポスターを突き破って左足は『隠ろえ』側の地面に足がついた。

 それを確認した後、体ごとポスターの向こうへ。

 目の前に飛び込んできたのは一人で水を汲む古井戸に、空を泳ぐ金魚に、おんぼろ裏長屋と化け物ら。時代を思わせる此処こそ『隠ろえ』だった。

 ちなみに足踏みをしたのは禹歩(うほ)を用いて『隠ろえ』の入り口を通るため。

 表社から妖の社へ向かい際、鳥居を八の字にして通る原理と同じだ。禹歩(うほ)で結界の入り口を開いたのである。


(案外、どこでも禹歩(うほ)って使われているんだよな)


 禹歩(うほ)とは足の動きで術を発動させるもの。

 術を使用する度に、なんとなく楽しい気分になるのはやっぱり術を発動させている事実があるからだろう。子どもじみた気持ちだが術を発動させている光景はいつ見ても楽しい。


「おやおや、あそこにいるのは十代目かえ?」

「ほんとだほんと。ハイカラな格好だから、学び舎の帰りだろうか」

「今宵はどうしたのだろう? 四代目は一緒じゃないのかえ?」


 裏長屋を歩いていると、さっそく市井の妖らの声がわらわらと聞こえてくる。

 物珍しそうにこちらを見て来るので、その都度、翔は会釈で挨拶をした。それほどまでに神職が此処を訪れるのは珍しいのだ。神職は本当に妖の世界に引き篭もりっきりだから。

 ああ耳をすませば、夜雀がひそひそ。猫又が三味線を弾きながらケラケラ。油なめが油壺を舐めながら、ゲラゲラ。多種多様な声をあげながら此方を窺ってくる。

 中には、嫌悪感を含まれる声も聞こえた。


「あそこにいるのは、名張の天狗……返り忠が引っ付いているじゃあないか」

「あれはきっと十代目のお傍で鳴り潜めている。必ずやこの地の我らを裏切る。あの頃のように」

「十代目はなぜお傍に置いているのだ」

「齢十九の幼子だからだ。あの方は知らないのだ」

「だったら教えてやらねば」

「我らが教えてやらねば。悪名高き天狗の悪行を」


 悪名高き名張の天狗がそこにいるなんて、ああ、恐ろしや恐ろしや。


 聞こえない振りをしても、しても、しても、声は聞こえてくる。

 翔の力を持ってしても、その声を止めることはできない。もちろん咎めることもできない。悪名についてあれこれ噂する市井の妖らに罪はないのだから。もちろん悪名高き名張の子孫である天馬に罪があるわけでもないのだけれど。


(天馬は慣れちまってるんだろうな)


 これだけ陰口を叩かれても、眉ひとつ動かしていないのだから。

 天馬を流し目にしていると、「雪童子も仲間に入れてほしいんですけど」と、雪之介が声をあげた。


「なんで天馬くんだけ人気なの。僕なんて雪女と天狗のハーフだよ? 天馬くんよりずっと珍しいよ? 僕に注目されていないのっておかしくない? みなさーん、僕にも注目をお願いねー!」


「錦……お前、そんなことばかりしているから、同胞から変人だと言われるんだぞ」


「だってそうじゃない? 僕の方が天馬くんより珍しいじゃん。ああ、でも翔くんの方が珍しいかも? 元人間が一年余りで南の神主になっているんだから。いやいや、だけど翔くんは妖狐だけの力しか宿していないわけで。一方、僕は雪女と天狗の両方の力を持っているわけだから。珍しいのはやっぱり僕じゃない? じゃあ僕の方が噂にならないとおかしいよね!」


 だから噂の仲間入れておくれ、どうかこの雪童子も噂しておくれ。

 雪之介は市井の妖らにひらひらと手を振り、自分の方が天狗よりも珍しいと大声で主張した。

 その瞬間、天馬は遠い目を作ってため息。夕立は微笑ましくその様子を見守り、目を点にしていた翔は声に出して笑った。


「ホンットお前のそういうところ、俺は好きだぜ。雪之介」

「あれあれ。僕はただ誰よりも噂になりたいだけだよ? じつは目立ちたがり屋なんだ」

「さっきまで悪目立ちがどうのこうのと言っていたのは、どこのどいつだ」

「僕ですね分かります」

「はあっ……疲れる」

「またまた。本当は嬉しいんでしょう? 夕立には分かりますよ」

「……白木まで。余計に疲れる」


 苦い顔を作る天馬は、その都度、雪之介や夕立のペースに巻き込まれているのだろう。

 そしてそれがきっと彼の心の支えになっているのだろう。

 いまの流れだけでも垣間見えた、彼らの友情の一片に、翔は温かい気持ちを抱く。


(三人は腐れ縁だって聞いている。十代目じゃ到底敵わないやり方で、天馬を支えてきたんだな)


 少しでも悪名を返上したい。

 そのために十代目南の神主に近づいた天馬は、いま武の師を担ってその野望を叶えようとしている。

 十代目である翔にできることは、彼から習った武で強くなり、天馬の功績を称えて名誉を与えることだ。それによって名張の汚名が少しでも回復できたら、と思う。

 無論、あてずっぽうに名誉を与えるわけではない。翔は翔なりに天馬の腕や心を見極め、善行には褒美を、悪行には折檻を与えなければならない。それが頭領に立つ狐のさだめだ。


 けれど雪之介や夕立は違う。 

 純粋な友人として彼の傍にいる。その心を支えている。思惑など一切なく――翔は願う、いつまでもそんな三人の仲が続きますように、と。


「翔さま。こっちですよ」


 天馬に呼び止められ、翔は歩みを止めて振り返る。

 おいでおいでと手招きしている夕立にひとつ頷き、早足で三人の下へ向かった。未だ市井の妖らの噂の声が聞こえているけれど、不思議と気にならなくなった。

 三人がそれらの声をまったく無視して、和気藹々と会話をしているからだろう。翔は自然と笑みがこぼれてしまった。



 付喪神の一聴は裏長屋の最奥に診察所を設けている。

 四つ目提灯がぶら下がっている部屋がまさしくその診察所で、そこの前に立った翔らは顔を見合わせると、代表して翔が一枚障子を優しくノックした。


「すみません、一聴さんはいらっしゃいますか。すみません」


 二度、三度、障子をノックしたところで障子が開かれる。

 顔を出したのはお歯黒べったりのお有紀(あき)であった。お歯黒と言われるだけあって歯が真っ黒。ついでに口以外の顔のパーツがないため、翔は見事に三尾を出して総身の毛を立たせてしまった。びっくらこいてしまった。

 仕方がないではないか。急に顔なしお歯黒が目の前に出てきたのだから!


「あんれまあ。誰かと思ったら翔さまじゃあありませんか」

「こ、こんばんはお有紀さん。一聴さんいる?」


 引き攣りそうになる顔を、必死に笑顔で誤魔化す。笑えているだろうか?


「一聴先生は来診に出掛けておりますが……もしやお怪我を負ったのでございましょうか? 十代目はとてもお怪我が多いので」

「あ、いや、今日は俺じゃなくて連れを診てほしくて」

「連れ……ああ、もしかして雪童子の雪之介。また体を溶かしてしまったのですか?」


 おやおや、お有紀のこの反応は。

 雪之介を見やれば、面目ないとばかりに頬を掻く雪童子の姿がひとり。どうやら常習犯のようで、「すみません」と小声で謝罪していた。


「次、軽率に体を溶かしたら、七日ほど体を雪だるまにすると脅されていたのに」

「す、す、すみません……」

「とにかく入ってください。先生はすぐに帰宅すると思われますので」


 お有紀の言う通り、一聴はそう時間を置かずに帰宅した。

 どうやら十代目が隠ろえを訪れていることは小耳に挟んでいたようで、診察所に翔がいてもあまり驚く様子はなく、いつもの調子で慇懃丁寧に頭を下げてきた。

 けれども診察目的が『雪之介』であることは読めなかったようで、事情を説明するや、一聴は深いため息をついた。


「雪之介。また体を溶かしてしまったのか。あれほど体は大切にするよう、口酸っぱく言っているのに」

「ご、ごめんなさい。でもわざとじゃなくて」


 茣蓙の上に寝転んだ雪之介を、一聴は悲しそうに見下ろす。


「お前さんの体は雪の結晶の集合体。手足くらいならば何度でも作り直せるが、御身はひとつしかないのだ。作り直せる、だから大丈夫、という甘えたな考えは捨てなされ」


「うう、痛くはないんですけど……」

「そう雪の体に痛覚は存在しない。だから余計にタチが悪いのだ。今宵は来診が少なかったから、すぐに診ることができそうだが、来診が多かったら夜明けまで診ることが難しかった」


 ああ、早く医者の数を増やさなければ、

 水の張った桶で手を洗い始める一聴のぼやきに、翔は両耳を立てた。


「一聴さん。医者の数って」


「ああ、こちらの事情にございまする。九十九年の間に、この地の医者がめっきり減ってしまいまして。比例して南の地は荒れ、怪我人が増えました。さらに瘴気の後遺症に悩まされる妖らがいることで、常に医者は引っ張りだこでして。一聴の他にも医者はいるものの、育成が間に合っていないのが現状なのでありまする」


「……そっか。それも南北の課題になるな」


「一番良いのは医者いらずの土地になることなのですが、それは絵空事を描いているも同じ。現実的に考えれば、医者の数を増やすべきかと。さりとてこれは専門職ゆえ」

「医者は知識も技術もいるもんな」

「ええ。とくに医者に必要なのは『目』でございまする」

「目?」


「患者の様子をひと目見て、判断を下せる目。患部の原因を見極められる目。良し悪しを冷静に見抜く目。それらの目が医者には必要不可欠でございまする。一聴めはその目を持つ者を、後継者にしたいのでありまする。僭越ながら一聴は医者の中でも神職の担当医を務めることが多いので」


 たとえば翔が怪我をしたら、いち早く一聴が駆けつける。

 それは一聴が神職の担当医を務めているからだ。

 指折りの医者だと呼ばれているからこそ、神職らに頼られることが多い。それは喜ばしいことであるが、もしも来診が多く入っていれば、神職らですら後回しにせざるを終えなくなってしまう。

 命に優劣はつけられない。一聴は市井の妖も診て回っているのだから。


「後継者か。どこの界隈でも頭を抱えちまうんだな」


「ええ。一聴にはすでにお有紀という有能な助手がおりますが、お有紀だけでは足らないので……雪之介のように言っても、言っても体を溶かす妖がいるなら尚更でございまする。ああ、翔さまもお怪我が多いのでお気をつけくだされ。まこと一聴の体いくつあっても足りませぬぞ」


「げっ、いつの間にか俺が叱られてるし」

「医者が患者を想って叱るのはそれ相応の理由があってのこと。苦い薬とでも思って下され」

「はい、気を付けます」


 がっくり項垂れると、傍観していたお有紀がクスクスと笑声をこぼす。


「一聴先生のお小言やお叱りは、神職も顔を顰める苦いお薬ですから、お体には十分にお気を付けくださいね。比良利さまですら苦手にしているのですから」

「比良利さんが苦手なら、ぜってぇ苦手になっちまうじゃん。俺と比良利さんの好き嫌い、すげぇ似てるんだから」

「あらあら十代目ともあろう御方が、すっかりしかめっ面になってしまって。一聴先生の後継者も、神職お相手に臆せず物申せる者が良いですね。一緒になってお叱りという名の苦いお薬になってもらわないと」

「……それは勘弁願いたいや」


 想像しただけで、身震いしてしまう翔であった。


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