雨の後は、きっと上天気(十二)
喧嘩、七日目の様子。
これにて一件落着、明日からはまたいつも通りの日常が始まる。
【七日目】
「お、いい感じに肉が焼けてきた。青葉、フライパンにキャベツと人参を入れてくれ」
「麺は如何します?」
「んーっと、レシピには最後に麺を入れるってさ。まだいいや。んー、中火で炒めるって書いてあるけど、早く食べたいから強火にしちまうかな」
その日、翔の住む部屋は賑やかであった。
狭い部屋には神職狐全員とおばば、ネズ坊らの姿。狭い台所では翔と青葉がせっせと焼きそばを作り、二人の背後では比良利と紀緒がせっせと米を固めて、おにぎりを握っていた。料理に参加できない金銀狐はネズ坊らの遊び相手を、おばばはくぅくぅと窓辺で昼寝、いやいや夜寝をご満喫。
それはそれは穏やかな時間が流れていた。
「ふむ、まだ握るべきかのう。もう十は握っておるが」
「神職のおのこ達はよく食べるので、十では足りないかと。あと十は握りましょう」
「ならば残りは高菜で握ってしまおうぞ」
「比良利さまは梅より高菜の方がお好きですものね」
「酸っぱいものはあまり好まぬ……」
「はいはい。存じておりますよ」
台所に立っていた翔と青葉は軽く顔を合わせ、聞こえてくる会話に笑みをこぼした。
喧嘩勃発七日目、比良利と紀緒の取り巻く空気に棘が消えた。どのような会話を交わし、その空気を取り戻したのか、それは翔達に知る由はない。大人げない態度を謝り合ったのか、それとも謝るほどのことではないと水に流したのか、はたまた先日起こった祟り神騒動のせいで喧嘩する気持ちが吹き飛んでしまったのか。
とにもかくにも、比良利と紀緒はいつも通りの空気で会話を交わし、おにぎりを握っている。
「まさか、比良利さまと紀緒さまにお食事の手伝いをさせるなんて。翔殿は大物になりますよ」
百も二百も年上の狐に、米を握らせるなんて。
苦笑いをこぼす青葉に対して、「当たり前じゃん」翔はへらへらと笑いながら、フライパンを軽く持ち上げると、それを揺すりながら菜箸で野菜を炒める。
「青葉に文で綴っただろう? みんなで飯を食べたいって」
「ええ。七日間、御二方の『世話を焼いて差し上げた南の神主の命令』という一文を添えて」
「みんなで食べるからには、みんなで準備するし、みんなで片付けをする。そういうもんだろ? 仮に二人がまだ喧嘩をしていても、俺は半ば強引に行動するつもりだったぜ?」
翔は計画を立てていた。
七日経っても喧嘩をしている場合、半ば強制的にみなを集めて食事をしよう。みなが和気藹々としながら準備、飯を食べていたら、喧嘩をしている当事者らは気まずくなるだろう。神職狐やおばばだけならまだしも、この部屋にはネズ坊らがいる。さすがに子どもの前で喧嘩をするほど、当事者らも幼稚ではないので、気まずさを噛み締めながら喧嘩に終止符を打つはずだ。
そのようなことを考え、あれこれ計画を練っていた。
結局、祟り神騒動のせいで、この計画はパァになってしまったが。
翔は軽く背後を一瞥する。
丸一日翔の部屋で寝込んでいた紀緒の体毛は、すっかりハイイロに戻っている。怨念を喰らったことで、一時は本当に祟り狐と化してしまうのではないか、と思っていたが……要らぬ心配だったようだ。否、きっとこの心配は日輪の者達に対して失礼なのだろう。
翔は昨日のことを思い出す。
紀緒が目を覚ますまで、比良利とツネキが付きっ切りで介抱をしていた。喰らった怨念を少しでも浄化しようと、薬草を擂っていた姿も、己の妖力を分け合っていた姿も、翔はしかと目の当たりにしている。
もしかしすると紀緒は祟り狐になりかけていたのやもしれない。なおも、そうさせないために比良利が、ツネキが彼女のために尽力した。持てる力を注ぎこんで、祟り狐にならぬよう足掻いた。
それが今の結果ならば、何もせずに心配を向けていた翔の想いは、きっと失礼なのだろう。きっと。
「俺さ、どこかで思ってたんだ」
紙皿や紙コップを準備していた青葉の視線を受け止めると、菜箸を動かしながら胸の内をこぼした。
「少しは日輪のみんなに近づけているんじゃねえかって。でも結局、騒動を解決したのは日輪のみんなで、俺はなあんにもできなかった。ただ騒動に巻き込まれて、ぎゃあぎゃあ騒いでいただけ。ハナタレ狐だった」
どこかで驕っていた自分がいた、と肩を竦める。
すると、青葉も同じ気持ちだと頷き、もっと精進したいと返事した。そしてこう言葉を重ねた。あの時、己が神懸かりを使えていれば――と。
「あの場面で、神懸かりを使用しなければいけなかったのは、きっと私でした。紀緒さまに使わせるべき所ではございませんでした」
翔は袋から麺を取り出し、フライパンに放る。
「たぶん、青葉が神懸かりを使えていても、紀緒さんはおんなじ選択をしたと思うよ」
三袋目の麺を入れたところで、菜箸でそれをほぐしにかかる。
「だって比良利さんを支えている狐だぜ? どんな状況でも、結局自分の気持ちに従って神懸かりをしていたと思う。青葉に譲らなかったんじゃないかな」
翔が紀緒の立場なら、絶対にそうしている。
「青葉が紀緒さんの立場ならどうだ?」
しばらく間を置いた後、青葉は仕方なさそうに笑い、「翔殿とおなじ答えです」
きっと神懸かりを使用する紀緒を止められなかっただろうし、青葉が神懸かりを使えたとしても、紀緒は神懸かりを使用して先陣を切っていただろう。
そう思うと、自分達はまだまだ日輪の者達と並ぶだけの実力がない。素直に悔しいと思える。
「特に俺は誰よりも出遅れている。それは年が若すぎるから、だとか……元人間の子だから、とか……妖狐になってまだ一年だから、とか……正当な理由はあるけど、そんなの俺には理不尽な言い訳にしか思えない。俺は覚悟を決めて南の神主になると誓ったんだから。だから青葉、俺に不甲斐ないところがあったら背中蹴っ飛ばしてくれよ」
フライ返しで麺を押しつけ、水気を軽く飛ばす。
それを繰り返し行い、そろそろソースをかけようとボトルに手を伸ばしたところで、青葉が返事した。
「翔殿が無茶ばかりするのは、そういう思いの丈があってこそなのでしょうね。私としては時間を要しても良いから、着実に道を進んでほしい。自分を大切にしてほしい、そう切に思いまする」
でも、それを言ったところで翔は簡単に止まってくれないのだろう。
青葉は翔の手にボトルを手渡すと、「とはいえこの想いは譲れませぬ」と言って、彼女はいたずら気に笑った。
「お互いに譲れなくなったら、ぶつかって喧嘩をしましょう。比良利さまと紀緒さまのように」
「ははっ、最初からもう喧嘩をするつもりなんだな」
「だって翔殿も譲ってくれないでしょう?」
「とーぜん」
「ならぶつかるしかないですね。私も翔殿も頑固ゆえ、簡単にはおさまらないでしょう」
「面倒くさそうだな。俺と青葉の喧嘩。今度は俺達が七日間、接触禁止を出されちまうかもな?」
「その時は日輪の皆様にお世話になりましょう」
「言うじゃん」
想像するだけでも笑いが出てしまう。
きっとその時の自分達は、相当不機嫌になっているだろうし、頑固に自分の主張を通そうとするだろう。それに日輪のみんなが頭を抱えるのだろう。ギンコはどうだろう? 仲裁に入ってくれるだろうか? それもまた見物だ。
いつかの未来に思いを馳せながら、翔は麺にソースをたっぷりかけた。最後にかつお節を大量にかけたら、はい出来上がり。
「テーブル小さいから、月輪組は二段ベッドの下段で食べよう。青葉、ギンコ、下段に敷いてある布団と枕を上段にあげておいてくれ。比良利さんと紀緒さんとツネキはテーブルな。ネズ坊とおばばは窓辺でいいか?」
フライパンごとテーブル台におくと、みなを呼んで各々紙皿に焼きそばを盛りつける。
全員に焼きそばが行き渡ったら、手を合わせてイタダキマス。和気藹々とした食事が始まる。
豪華な料理でもなければ、広い部屋でもない。みなで囲めるほど、テーブルも大きくない。それでもこの空間は本当に居心地が良かった。いつもは市井の妖を想い、奉仕に務め、奉仕がなければ学びをする日々を送っているが、たまにはこのような時間があっても良いのではないだろうか。
「紀緒さん。高菜おにぎりくださいなー」
「はい、お待ちを。やはり翔さまはよく食べますね。これで五個目ですよ」
「六個目じゃよ。まことによう食べる」
「食べ盛りだからしゃーない。あ、ツネキ、なんで俺の高菜取るんだよ。自分で取れって!」
ああ、こんな他愛な会話をしているだけで、いつも通りの日常が戻ってきたと思える。
翔は高菜のおにぎりを頬張りながら、みなの顔を見渡し、明日からのことを考える。うん、もう大丈夫。明日から元通りの日常を過ごすことになるだろう。比良利もツネキを連れて日輪の社に帰るだろうし、青葉とギンコはこの部屋に戻って来る。うん、うん、これにて一件落着だ。
『そういえば、お前さん達はなんで喧嘩していたんだい?』
せっかく大団円を迎えるはずが、おばばの余計な一言で崩れてしまった。
顔を引きつらせる翔は、猫又婆さんに蒸し返さないでくれ、と言わんばかりに視線を投げるも、当の本人は『ここまで騒動を起こしたんだ。理由くらい知りたいじゃあないか』と言い、しゃがれた声で笑った。
四百歳生きると肝っ玉も太くなるのだろうか。翔としては触らぬ神に祟りなし~の理論で、喧嘩の話題に触れず終わろうとしたのだが。青葉やツネキも同じ気持ちだったようで、おばばの問い掛けに固まっていた。ギンコは相変わらず、自由気ままマイペースに焼きそばを食べているが……。
はてさて。
喧嘩の理由を尋ねられた比良利と紀緒は、やや気まずそうに口を結び、やがて口を開く。
「まあ、きっかけは……菓子というか、書物というか……」
「はい?」
菓子? 書物?
翔の予想では、もっと深い理由を想像していたのが。
たとえば、どうして凡才狐の自分だけ生き残ってしまったのだ、と一人で抱え込んでしまうところとか。祟り狐になるやもしれない、と一人で悩んでしまうところとか。
それがまさかの菓子? 書物? なんじゃらほい?
目を白黒させる翔をよそに、紀緒が渋々とその状況を教えてくれる。
「きっかけは、わたくしが隠し買っていた花つぶみでございました」
「……花つぶみ」
「その日、奉仕を終えた後に食べようとしたら、それが綺麗に無くなっておりまして。一体全体どこへ行ったのやら、と探していましたら、比良利さまのご愛読している書物が縁側に転がっているのを見つけ、その周りには食べカスが落ちていたので」
「わしが犯人ではないか、と問われた次第。しかしながら、わしは何度も訴えた。大切な書物を読む際は菓子を食べながら読まぬ、と……なのに紀緒ときたら、ちっとも話を聞いてくれぬ。あろうことか書物に食べカスを挟む陰湿っぷり! 菓子を取られた怒りは分からんでもないが、あれはやり過ぎじゃぞ。わしの書物を勝手に持ち出しおって」
「あれはわたくしではございません。大体イカガワシイ……ごほん。子どもに見せられぬ書物の置き場所なんて知る由もありませぬ。比良利さまこそ、菓子を食べたなら、素直に白状してしまえばいいものを」
「ええい、イカガワシイとはなんじゃい。確かにあれは子どもには見せられぬ書物じゃが、わしにとっては大切な大切な書物ゆえ。大体、わしとてお主の隠し菓子の場所なんぞ知らぬっ!」
穏やかな空気が一変。
ふたたび双方の感情が爆ぜたのだから、翔達は無言で焼きそばを噛み締めるしかない。
(子どもに見せられない書物……エロ本だろーな)
(紀緒さま。また隠れてお菓子を買っていたのですね)
(やれやれ、そんなことだろうと思ったよ)
おのおの呆れ顔やら、遠い目やら、ため息やらこぼす中、二匹の狐は不満を主張し合う。
「この件で苛々しつつも、わしはすぐに仕舞いにしようと感情を抑えた。抑えたというのに、お主ときたら声を掛けるだけで、わしを投げ飛ばしおった! わしは何度清掃中に痛い思いをしたか」
翔の脳裏に蘇る。
確かに声を掛けるだけで投げ飛ばされたっけ。
あの時も紀緒は苛々していたので、きっと苛々をしている彼女は、無意識に投げ飛ばしてしまう傾向があるのだろう。
「日頃からお触りする比良利さまが悪いのです。比良利さまだって、湯殿上がりはいつも床板や畳を水びたしにして。わたくしはちゃんと髪を拭いて座敷にあがるよう言っているのに……嫌がらせとしか思えませぬ」
ああ、あれね。あれ……。
確かに風呂上がりの比良利は、フローリングを水浸しにしてくれた。
何回言っても水気を綺麗に取ってくれないので、結局翔が床を拭いていたのだが……毎日続けば鬱憤も溜まるだろう。
もそもそと焼きそばを噛み締める翔の目の前では、狐らの言い合いが加速するばかり。
「まことお主ときたら、頭が固いところがある。少しはこちらの話を聞く心の余裕を持たぬか」
「それはこちらの台詞でございまする。貴殿はことあることに、己を卑下して」
「それはお主じゃろうが。なあにが祟り狐じゃて」
「凡才狐だから、で落ち込んでいる比良利さまに言われたくありませぬ」
「誰が落ち込んでいると申すか。もういっぺん言ってみぃ!」
「比良利さまです」
「はああ、これだからお主は可愛くない性格をしておるのじゃ」
なるほど、なるほど。
きっかけは書物と菓子。
そこから日頃の暮らしの不満が少しずつ爆ぜ、最後は心の奥に秘めていた『相手の気に食わない点』を言い合った、というところだろう。
まあ、大人の喧嘩とはそんなものだろう。
ひとつのことで大喧嘩、は勿論あるだろうが、不満鬱憤が塵積って山となり、爆発して言い合うこともある。様子を見る限り、今回の喧嘩は完全に後者だといえる。ああもう、最後はどうあれ、きっかけは本当にクダラナイ。
深いため息をついたところで、ギンコがちょいちょい、と翔のシャツを前足で引っ張って来た。
「どうした?」と声を掛ければ、銀狐は呆れかえったように、前方を尾っぽでさした。そこにはとても、とても気まずそうに身を小さくしているツネキの姿。
はて、どうしたのだろうか? また喧嘩している光景に気まずさを感じているのだろうか?
(待てよ)
金狐は甘いものが大好きだ。
イチゴジャムをたっぷりかけたパンを頬張っていた光景は、翔も目の当たりにしている。そんな狐はお菓子も大好きで、よくネズ坊らとスナック菓子を食べていた。そして紀緒もお菓子好き。
一方で助兵衛狐と呼ばれている比良利の影響を受け、ツネキは大変女ったらし。
……まさか。
「比良利さん。言葉を挟んで悪いんだけど、愛読していた書物って文字だけ? 挿絵とか無かった?」
「む? あれは確か……挿絵があったはずじゃな。それはそれは心躍る挿絵ばかりで」
やっぱりそうだ。そうなのだ。
翔はツネキを指さし、「元凶はお前か!」と、突っ込みをひとつ。
ぶんぶん、と首が取れるほど顔を横に振るツネキだが、ギンコに見つめられると、へにょっと耳を垂らした。たいへん正直な狐である。
「おおかた紀緒さんの菓子食いながら、比良利さんの書物に描いてある挿絵を見てたんだろう。ったく、元凶がお前だなんて」
ぎろり。比良利と紀緒に冷ややかな視線を投げられた瞬間、金狐は総身の毛を逆立てて、テーブルの下へ逃げてしまった。
「待たぬかツネキ! またお主っ、わしの愛読書を持ち出したのか?! そうなのか!」
「ツネキ、貴方またわたくしの菓子を持ち出したのですか? こら、ツネキ!」
するとツネキは、べろんと赤い舌を出し、クンクンクオーンと鳴いて窓辺へ逃げてしまった。おばば曰く、二匹とも隠し方が下手くそなんだよ、らしい。
その言葉に怒り心頭に発したのか、「誰に似たのやら!」「比良利さまでしょう!」「いいやお主じゃて!」と言い合いながら、二匹は金狐を追い回し始めた。
かくして狭いワンルームで始まった追いかけっこ。
翔は片眉をつり上げ、青葉やギンコは呆れ顔で、焼きそばやおにぎりを咀嚼。ネズ坊らは首を傾げながら追いかけっこを眺め、おばばはひたすら笑っている。
「大人の喧嘩ってめんどくさいな」
「はい」
「そんでもって、大人の喧嘩のくせにクダラナイな」
「喧嘩とはそういうものかと」
「ここまでくると、大人も子どももないな」
「……喧嘩とはそういうものかと」
それはそうだが、巻き込まれた側は堪ったものではない。
翔は追いかけっこしている、はた迷惑狐らを見つめ、見つめて、深呼吸。その直後、室内に響き渡るほど大きな声を上げた。
「全員そこになおれー! 部屋で暴れたら近所迷惑になるだろぉおおお!」
※ ※
翌夜。
日輪の社、月輪の両社が開かれる。
市井の妖らは両社が開かれることに大喜びで、社を訪れていたのだが、摩訶不思議なことに今宵両社を先導しているのは北の神主、ではなく南の神主であった。
はてさて。齢十九の狐が切り盛りするのは早いのでは? 市井の妖らが揃って疑問を口にするも、かの南の神主は満面の笑みを浮かべながら言った。
「ご安心ください。あくまで社を切り盛りするのは日輪の者達です。ただ清掃を済ませるまでは、我々月輪の者達が先導するゆえ、そこはご了承くださいまし」
清掃?
疑問符を浮かべる市井の妖らだったが、南の神主は務めて笑顔で、それはそれは綺麗な笑顔で清掃をしてくれていると繰り返した。
正直に言おう。怖い笑顔であった。あれは誰が見ても怒っているといえる。
「齢十九の狐と思えぬ笑顔だったな」
「さすが南の神主に選ばれた狐だぜ」
『まったく。坊やにこっぴどく叱られて両社を清掃だなんて、お前達もまだまだ子どもだねぇ』
一方、噂の日輪の者達は清掃をしていた。
いまは月輪の社参集殿を掃き掃除しており、その様子を近くの屋根からおばばが見下ろしていた。
しゃがれた声でいつまでも笑ってくるので、竹箒で落ち葉を掃く比良利は口を曲げるばかり。すぐ傍では紀緒が祠を乾拭き掃除。さらに、彼女の足元では『私が菓子と本を持ち出した犯人です』と書かれた段ボール紙を、首からぶら下げているツネキの姿がいたりいなかったり。
それはそれは面白い光景が広がっていた。
「まったく、高みの見物とは嫌味な婆じゃのう。コタマ」
『けっけっけ。悔しかったら、早く清掃を終わらせてしまうんだねえ。おっと七日間仲良く清掃しなきゃあいけないんだっけ? たいへんだねえ』
「……さすがに今回ばかりは大人しゅう折檻を受けるつもりじゃて。ぼん達に迷惑を掛けた自覚はある」
『自覚があるなら、さっさと仲直りすりゃあ良かったものを』
やかましい。
それができていれば苦労はないのだ。苦労は。
比良利とて最初はすぐに謝ろうとした。したのだが、目の前に紀緒がいるだけで、謝罪よりも先に意地が出てきてしまい、ついつい喧嘩が長引いてしまった。
久しぶりだった。こんなにも長く意地を張ったのは。
『まあ、良かったんじゃないかえ?』
じろり。屋根の上にいる猫又婆さんを睨むと、それは慈悲溢れた眼でこちらを見下ろしてくる。
『気軽に喧嘩ができるほど、穏やかな時が戻ってきているってことだよ。惣七がいなくなったあの頃は、一にも二にも市井の妖らばかり優先で。きっとそれは神職の立場にいるお前さん達には大切なことだろうけれど、わたしはもっと自分の気持ちを大切にしてほしいと願っていたよ。自分を疎かにしている奴が、誰かを想うことなんで出来っこないんだから』
そういうものなのだろうか。
比良利は掃く手を止めて、祠の方角へと振り返る。
あの頃、惣七がいなくなったあの頃……翔が現れるまでのあの頃、自分達はいつもどう過ごしていただろうか。毎日、荒れた南北の地を守ろうと必死だった。心離れていく市井の妖らのために、少しでも尽くそうと思った。妖の社を廃れさせないよう足掻いている日々だった。
目が覚めてから、眠りに就くまで、頭はそればかりだったっけ。
(当時のわしは紀緒やツネキを、ちゃんと見てやれていただろうか)
憶えていない、ということは、つまりそういうことだろう。
そりゃあ、喧嘩なんぞ起きるはずもない。だって相手のことをちゃんと見ていないのだから。いつだって神主として天命をまっとうしようと必死だった。
無意識に懐に仕舞っている煙管へ手が伸びる。一服したい気持ちだった。
しかし、その前に紙切れが指をかすめる。
(これは)
四つに折られた紙は文のようだった。
中身を開くと、達筆な墨文字で『おかえりなさい』
それ以上も以下もない。挨拶のひとことがそこには綴られていた。
比良利はそれが返事であることに気づく。誰が文を懐に忍ばせたかなんて明白だった。
(おかえり、か)
思わず笑みがこぼれてしまう。
ああ、喧嘩していた時間がばかばかしくなってきた。そう思わせるだけの言霊が文には宿っている。
今宵の奉仕が終わったら、花つぶみを買って来よう。少し多めに買って来よう。それをツツジの甘酒と一緒に縁側で、三匹で食べよう。きっと良い時間を過ごせるはずだ。
ああでも長い付き合いのせいか、今さら謝る、というのはくすぐったい。
けれども、この文に対する返事はせねばならないだろう。これにくすぐったいも意地もない。おかえりと言ってくれる者に対して、比良利は素直に思いを伝えなければいけない。
だって比良利から言ったのだ。赤狐の帰る場所は紀緒の隣だ、と。
たとえどんなに喧嘩をしようとも、どんな困難が待ち受けようとも、それこそ紀緒が祟り狐になるやもしれない悲劇が襲おうとも、彼女にはこれからも比良利の帰る場所でいてほしい。
竹箒を片手に、比良利はハイイロ狐に歩み寄る。
気配を感じて振り返る巫女狐に、四折りの紙を見せつけながら、ありったけの気持ちで文の返事する。
「ただいま」
すると。
巫女狐はしあわせそうに、でも頬を紅潮させて、柔らかいはにかみを浮かべた。
その姿は祟り狐とはほど遠い、とおい、うつくしい狐の微笑みであった。
(了)
少しだけ長いあとがき。
これにて日輪の者達が起こした喧嘩騒動は仕舞いにございます。
本編ではなかなか焦点が当てられない紀緒を軸に、日輪の者達が歩んだ過去や関係性をえがければ、と思い、この小噺を執筆しました。
本編では頼れることの多い日輪の者達ですが、それは月輪の者達が見た一面にしかすぎず、各々悩み、苦労し、時に衝突して関係性を築き上げている。誰しもが頼れる一面を持っており、誰しもが脆い一面を持っている。それは比良利に然り、紀緒に然り、ツネキに然り。
特に比良利と紀緒の性格は、翔や青葉と同じくらい正反対だと思っていますので、それはそれは衝突することが多かったことかと思います。じつはギンコやツネキの方がそういった面では、苦労狐だったりするのではないかな、と常々思っている次第です。
大切な者達だから、だから「好き」。
一緒に過ごしていると、そういう感情ばかりではなく、大切な者達だからこそ「許せない」し、「腹立たしい」し、「大嫌い」な一面もある。ある一面を「受け入れられない」ことだって勿論ある。
喧嘩の小噺を通して、翔や青葉、比良利や紀緒の互いに許せる一面、許せない一面があるのだと知っていただければ、作者冥利に尽きます。
血のつながらない他者と共に生きる、暮らす、その地を見守るのですから、
きっとこういう感情に振り回されることはこれからもたくさんあると思います。
狐達も完璧じゃない。むしろ欠点だらけの者達ばかりなので、そういう未熟な面を補いながら、支えあって、共に生きてほしいと思っています。
最後になりましたが、一年かけての小噺を読んで下さり、ありがとうございました。
これからも、温かい目で見守っていただければ幸いです。




