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白狐ノ草子   作者: つゆのあめ/梅野歩
▼日輪の章:祟りノ編(完結)
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雨の後は、きっと上天気(四)

喧嘩、一日目奉仕側の様子。

奉仕と紀緒の昔語りと、二匹の絆。大切だからこそ、嫌いな面も見えてくる。



(――俺、紀緒さんのことを舐めていた)


 大学を終えた翔は浄衣に身を包み、月輪の社に赴いて、遠い目を作っていた。


 今宵は月輪の社を開ける日ではなく、比良利や天馬から文武を学ぶ日でもない。ならば、市井の妖と交流する日? いいや、今宵は月輪の神職として守護している社に奉仕する日だ。

 それは主に境内や鎮守森の清掃、洗濯、その土地の氏神に神饌(しんせん)を捧げるなど、目立たない奉仕をする。


 しかしながら目立たないだけで、これらも大切な奉仕だ。

 常に人前に出て、みなを先導することが神職の役目ではない。寧ろ、神職の一日は清掃で始まり、清掃で終わると言われているほど、清掃を大切にしている。清める行いを重んじているのだろう。

 神職出仕の頃から、清掃の大切さを教えられている翔なので、大学が終わり次第、社の清掃に励もうと意気込んでいた。意気込んでいたのだが。


「お帰りなさいませ。翔さま、境内の清掃は終わりましたよ」


 出迎えてくれた紀緒の一言目が「お帰りなさいませ」

 二言目が「境内の清掃は終わりました」


 月輪の社の敷地はそれなりに広い。

 参道や拝殿、本殿、参集殿に憩殿等など、建物が多く設置されているので、ひとりで清掃するのは骨が折れるというのに、紀緒は翔が大学に行っている間、境内の清掃を終わらされてしまったという。


 だったら建物内部の清掃だ!

 翔が建物内部の清掃は任せてほしい、と胸を叩き、紀緒は休んでほしいと告げる。

 ひとりで境内の清掃をしたのだから、後のことは翔が引き受けるべきだろう。


「ふふ、お心遣いありがとうございます。でも、そちらは既に終わらせましたので。まだ一休みするほど動いてもいないですし、これから一緒に鎮守森の清掃をしましょう」


 今日は大学を休むべきだったかもしれない。

 まさか境内と建物内部の清掃を、ひとりで終わらせてしまうとは。

 それなりの労働だったはずなのに、顔色一つ変えず、今度は鎮守森の清掃を一緒にしようと誘ってくる。有能すぎる、この巫女狐。


(青葉とは別ベクトルで優秀だ)


 青葉だって有能で優秀な巫女だ。

 凡才の翔に代わって、神職の奉仕をこなすことも多いし、神主の補助も沢山してくれる。翔が奉仕のことで困っていたら、その気持ちを察し、率先して助言してくれる。


 しかし紀緒の有能優秀さは、これまた違う。

 彼女はなにを優先すれば神主や神職が楽になるか、それらの状況を把握した上で行動を起こしている。翔が大学に行っているのであれば、帰って来るまでの間に境内と建物内部の清掃を済ませておこう。そうすれば、若い神主の負担も減る。鎮守の森を最後にしたのは、そこが一番清掃箇所が少ないから――なんて、彼女は考えているのではないのだろうか。

 あくまで翔の憶測だが、きっと紀緒の脳内はそのような計画を立てた上で行動を起こしている。そんな気がしてならない。


(さすが、九十九年南北神主を務めていた赤狐を支えていた巫女。奉仕のこなしがひと味もふた味も違う)


 鎮守森に移動し、箒で落ち葉を掃いていた翔は、ちらりと向こうにいる紀緒を一瞥。

 すでに掃き掃除を終えている彼女は、乾いた手ぬぐいを片手に、その場で膝を折って祠を磨いていた。手際の良さに舌を巻いてしまう。

 いやいや、そんなにてきぱきしなくても……。


「まったくっ、これだから助兵衛狐は」


 掃除をする手に力がこもっているみたいだし。

 ぶつぶつ文句垂れている横顔が怖いし。

 醸し出しているオーラは黒いし。


(も、もしかして掃除で喧嘩を忘れようとしてる?)


 ああっ、心なしか祠がカタカタと揺れ、震えている気がする。

 翔は掃く手を止め、冷汗を流しながら、「紀緒さん。休もう」と声を掛ける。聞こえていないようなので、歩み寄り、肩を叩いて声を掛けることにした。


 その時であった。

 ひょっこりと茂みから顔を出したツネキが、翔の行動を見るや、慌てた様子で鳴いてくる。まるで近づいてはだめだと叫ぶように。


「ツネキ?」


 足を止めて目を丸くする翔の手が、紀緒の肩に触れた。

 刹那、手首を痛いほど掴まれる。

 「へ?」間の抜けた声を出す翔に向かって、「悪さをする手はこれですか!」と言うや否や、紀緒は翔の胸倉を掴んで投げ飛ばした。文字通り、思い切り投げ飛ばした。世界が何回転も回ったような気がする。


「ふぎゃっ?!」


 間の抜けた声を出し、地面に強く頭をぶつけた翔の目の前も回った。

 ああ、回っている。世界が回っている。全部回っている。ぐるぐる。


「か、かか、翔さまっ。申し訳ございません。ツネキ、すぐに氷屋から氷をもらって来て。すぐに!」


 紀緒の焦る声も遠い。

 比良利はいつも、こんなにも強い投げ飛ばしを喰らっているのか。とてつもなく痛いのに、毎度の如く紀緒に触ろうとしている……その根性だけは認めてやってもいい。




「――翔さま、ご気分はどうですか? 痣が痛そう」

「もう平気だよ。俺って結構石頭だから」

「申し訳ございません。翔さまはふしだらな助兵衛狐ではないというのに。つい、いつもの癖で」

「(いつもの癖……)そ、そんなに心配しないでな。紀緒さん、氷水ありがとう」


 月輪の社参集殿にて。

 紀緒に投げ飛ばされた翔は、氷水に浸した手ぬぐいで痣になったおでこを冷やしていた。

 本当に申し訳なさそうにする紀緒は、何度も翔に謝罪してきた。

 このままいくと床に額を合わせて謝ってきそうなので、「誰かさんの日頃の行いが悪いせいかな」と、この怪我の責任を“誰かさん”になすりつけることにした。

 そうでなければ、紀緒もむやみやたらに他人を投げ飛ばすなんて非行はしないだろう。


 ちなみに、翔のおでこを見て笑ってくるツネキの頭は叩いておくことにする。止めるならもう少し早く止めてくれ。


「翔さまは齢十九の狐なのに、わたくしとしたことが……」


 すっかり落ち込んでいる紀緒には悪いが、齢十九でも立派なオス狐なのだが……うん、いや、まあ、助兵衛狐のようなことをしたいか? と問われたら、それはちょっとうーんであるが。


(紀緒さんって、神職の誰よりも俺を幼子扱いするんだよなあ)


 それは年齢のせいか、それとも母性本能がくすぐられるせいか。

 良くも悪くも紀緒は翔を子ども扱いする。青葉よりも比良利よりも、ずっと、ずーっと。それだけまだまだ頼りにされていない証拠やもしれない。

 翔は氷水の入った水桶に手を突っ込み、ツネキに軽く水しぶきを掛けながら、口を開いた。


「こうやって一緒に奉仕するのは初めてだけど。やっぱり、紀緒さんすごいなあ」

「すごい?」

「だって、奉仕をなんでもひとりでこなしちゃうじゃん」


 いつも翔の傍には青葉が、彼女の傍には比良利がいる。

 ゆえに紀緒個人と翔個人が組んで奉仕をすることは無い。

 また軽く世間話をすることはあれど、じっくりと話す機会は少ないので、この時間は本当に新鮮だと思えた。


「手際は良いし、次のやることまで簡単にこなしちゃうんだからすごいよ。あででっ、お前、噛むのは卑怯だぜ」


 水桶に入って水しぶきを返してくるツネキは、翔の尻尾を軽く噛んできた。

 それは反則だと唸る翔に笑い、紀緒は頬を緩める。


「わたくしは生まれながら、神職の奉仕を見てきました。理性を宿した日を境に奉仕の補助もしていたので、ある程度のことはこなせてしまうのですよ」


「生まれながらって……そういや紀緒さんは、神職の子どもなのか?」

「はい」


 紀緒はゆっくりと頷く。

 彼女の身の上話を聞くのは、これが初めてかもしれない。

 興味を抱いた翔は、三尾を揺らし、紀緒の顔を覗き込む。


「妖の社では現役の神職は(つが)いを持てないけど、ご両親は引退してから紀緒さんを授かったの?」

「いいえ。わたくしの両親は神職でしたが、この社の神職ではありませんでした」

「じゃあ、紀緒さんは」

「わたくしは奉公した身の上でして」

「奉公って……えーっと」


「分かりやすくいうと、妖の社に仕えに来たのです。元々わたくしは、小さな小さな社の神職の娘だったのですよ」


 妖狐として、そして神職の娘として生まれた紀緒は理性が宿り、ヒトのかたちに変化できるようになると、すぐに両親の手によって妖の社へ奉公に出されたそうだ。

 以来、紀緒は巫女見習いとして奉仕を務め、やがて北の巫女として奉仕を務めるようになったという。両親とは百年以上も会っていないそうだ。


「紀緒さんのご両親は妖なんだよな?」

「ええ」

「じゃあ、まだご健在なんだろう? 会いたくないの?」


 ツネキが紀緒の顔を見つめる。

 彼女は少しだけ、さみしそうに目尻を和らげた。


「難しい質問ですね。会いたい気持ちは、きっと心のどこかにあります」


 でも。


「両親に会うと、わたくしは巫女の紀緒でいられなくなります」


 水桶からツネキを抱き上げ、紀緒は「ね」と困ったように笑う。

 金狐はぶるぶるっと体を震わせ、水しぶきを翔と紀緒に飛ばすと、あんな奴らに会わなくて良いのだと言わんばかりに激しく鳴いた。やけに感情的に鳴き、ぶんぶんと尾っぽを振ってくる。

 紀緒が紀緒でいられなくなるなら、会わなくて良い。喧嘩しているあいつだってそう言う! 会おうとするものなら、喧嘩中でも身を挺して止める! と言っているようだ。

 ツネキは散々鳴き喚くと、鼻を鳴らし、翔に視線を流して同意を求めてくる。事情を知らない翔は冷静に彼らを見つめ、そっと口を開く。


「それ。どういう意味か、聞いても大丈夫?」


 紀緒は眩しそうに目を細め、ツネキを膝の上に置いた。


「わたくしは憎しみのあまり、その者達を喰らってしまうと思うのです」

「喰らう?」


 紀緒が、誰かを、喰らう?

 そんなの想像もつかない。

 彼女はいつもお淑やかで、けれど比良利やツネキの助兵衛、女癖の悪さにはちょっぴり厳しいおなご。誰よりも大人で優しく、慈愛溢れる心がある。そんな彼女が誰か、喰らうなんて、そんなの冗談にしか聞こえない。

 しかし、彼女はいたく真面目に答えるのだ。今もどこかで両親を喰らいたい己がいる、と。


「わたくしは両親にとって我が子という存在ではなく、ただの生贄でした」

「生贄?」

「はい。それを知ったのは妖の社に奉公にきて、巫女になってからのことです」


 両親は生まれながら紀緒に厳しかった。

 とにもかくにも、神職の娘として完璧なものにしようと躾けた。

 愛情より厳しさを与えられていた紀緒は、それが当たり前だと思っていた。期待に応えようと必死だった。いつか、見返りの愛情が与えられると信じて。

 だから奉公の話が出た時も、ひとりで妖の社へ向かった。知らない土地にひとりで行くのはこわかった。それでも、ああ、それでも両親のためだと思っていた。

 いつか立派な巫女になったら、両親も愛情を返してくれるだろうと信じてやまなかった。


 さりとて、さりとて。


「晴れて北の巫女になったわたくしですが、日に日に体調を崩すようになりました」

「体調を?」

「ええ。一向に回復しないので、一度故郷で療養した方が良いと、当時神主に就任したばかりの比良利さまや惣七さまが気を回してくれたのですが」


 間もなく、紀緒の体が(のろ)いに犯されていると診断される。

 それも些少の祓いでは解けない、つよい(のろ)いだった。

 発動する引き金になったのはまぎれもなく巫女就任。しかし、誰がそのような(のろ)いをかけたのか、皆目見当もつかなかった。

 とにもかくにも、紀緒は長年妖の社で奉仕に勤めてくれた。

 ゆえに、この時くらい故郷で療養させてやるべきだ。大丈夫、紀緒はすぐに良くなる。


 神職らは口を揃えて励ましてくれた。おかげで故郷へ帰る決心がついたのだが、紀緒が両親の下を訪れると、待っていたのは――「己の無きモノ扱い」

 紀緒はその両親の下で生まれた事実を消されていた。


「驚きました。まさか、そのような扱いにされているなんて」


 何かの間違いだと思っていた。

 しかし両親は呪いに犯された紀緒を見るや否や、まだ術が完成していないのかと驚愕。落胆。そしてl紀緒を捕らえ、一刻も早く呪術の完成を願った。

 お前は呪物として生まれたのだから、早く呪い死ななければならない、と。


「翔さまは犬神信仰をご存知でしょうか?」

「一応、比良利さんに習ってる。ヒトの悪行の一つとして生まれた信仰で、犬を生贄に富を得る呪法だって教えてもらった」

「わたくしの両親もそれに近いことをしておりました」

「紀緒さんを生贄に、富を得ようとしたってこと?」

「はい」


 両親は紀緒を妖の社へ奉公させ、その代わりに一等地の社を任される約束を交わしていた。

 社にも地位がある。地位が高ければ高いほど、市井の妖らから敬われる。質の高い生活が送れる。紀緒の両親は当時任せられていた社を誰かに譲り、苦しい生活から脱したかった。より高い社を任されたかった。地位を高めたかった。

 結果、紀緒を奉公に出して、より高い社の神職に就くことが叶ったのである。


 それだけならまだしも、両親はその事実を知られたくないがゆえに、紀緒を「いないモノ」として取り扱った。自尊心が高い両親は、それらが市井の妖に知られることで、地位が脅かされるのではないかと警戒したのだ。

 また紀緒に(のろ)いをかけることで、彼女の死と引き換えに、宝珠の御魂から授かる莫大な妖気を得ようとした。両親はすっかり高い地位と安寧な生活に取り憑かれていた。


「両親の誤算は、宝珠の御魂の力を見くびっていたことでした。巫女は宝珠の御魂から加護を宿した勾玉を授かりまする。それは宝珠の御魂には劣るものの、強大な妖気を宿しております。真実を知ったわたくしは、魂を憎しみで穢し、力を解き放ってしまった」


 何十年何百年も会っていなかった、恋しい両親に会いに行けば「いないモノ」。

 さらに両親の間には、新しい娘息子が生まれていた。彼らは紀緒の欲していた愛情を受けていた。紀緒なんぞ娘でもなんでもない。呪物としての存在だ。はやく呪術を完成させてくれ。死を受け入れてくれ。

 そう言われた瞬間――紀緒は努力していた意味と生きる目的を忘れてしまった。巫女も奉仕も天命も、忘れ、魂を憎しみで穢した。


「身に宿した(のろ)いと憎しみは、やがてわたくしを巫女から祟り狐に変えていきました。ヒトも同胞もすべて喰らいたい、ただそれだけの衝動に駆られていました」


 ただただ憎かった。

 なぜ、自分はこんなにも努力しているのに、していたというのに、両親の新しい娘息子は、おおよそ自分の妹弟は愛情を受けているのか。受けてしまっているのか。

 なぜ、己が呪物として生まれなければならなかったのか。

 なぜ、ぞんざいに扱われなければいけないのか。


 なぜ、どうして。


 気づくと紀緒は巫女という身分を忘れ、両親を、妹弟を喰らおうとする化け狐と成り下がった。

 ずっと堪えていた感情が爆ぜてしまい、理性を失った化け狐となり下がったのだ。

 宝珠の御魂の加護を受けていた紀緒なので、理性を失った化け狐は、おぞましい祟り狐と呼ぶべきものに相応しい姿になっていた。

 巫女狐と呼ばれていた姿なんぞどこにもなかった。


「よく市井の妖らは、わたくしを巫女らしい巫女狐と称えてくれます。しかし」


 化けの皮が剥がれると、こんなにも醜く脆い心を持っている。

 紀緒自身、本当に巫女らしい巫女狐は青葉だと思っている。自信をもって、そう言える。


「どんなに立派な天命を授かろうと、心は偽れなかった。わたくしは憎しみに身を委ねてしまった。いまも気を緩むと祟り狐になりかねない。そんな気がします」


「紀緒さん……」


「祟り狐となったわたくしを見た両親は、必死に我が子らを守るのです。そして命を乞うのです。この子らだけは見逃してほしい。大切な子どもなのだ、と……ただただ、わたくしは惨めでした」


 ツネキが耳を垂らし、紀緒の膝のうえで丸まる。

 そんな金狐の頭を撫で、彼女は苦々しく笑う。


「祟り狐となったわたくしを救ってくれたのは、比良利さまでした。祟り狐になったそれは、もう巫女だと呼べる者ではないのに、彼は諦め悪くわたくしに『帰ろう』と言って聞かない。誰もが安らかに眠らせてやるべきだ。祓うべきだと言っているのに、彼は諦めなかった。我が身を顧みず、わたくしにぶつかってきた」


 両親も妹弟も同胞も、止めてくる比良利すらも、紀緒は喰らいたい衝動に駆られているのに、彼は真新しい浄衣を汚し、何度も血を流しながら、自分に『帰ろう』と言い続けた。

 無理だ。どうしても抑えられない。憎しみがどうしても、ああ、あれらを喰らいたいっ! だからそこを退いてくれ! 帰る場所なんぞない! ――そう叫ぶと、比良利は負けじと叫んだのを、いまも憶えている。



『だったら、まずわしを喰らえっ! それでもなお、お主の憎しみが止められぬなら、その時は憎む相手を喰らえ。さりとて簡単に喰えると思うな。お主が憎むべき相手なんぞ、この比良利が相手をする限り、何度でも忘れさせてやる――お主の帰る場所はここじゃっ!』



 ぶつかってくる目は、本当にまっすぐだった。


 北の神主に就任したばかりの助兵衛狐のくせに。

 いつも鬼才狐と比較されてばかりの凡才狐のくせに。

 紀緒と違って、生まれてしばらく神職も神事も知らなかった、ただの狐だったくせに。


 祟り狐と化した紀緒は、赤狐の命がけの行動と、魂からの叫びに救われた。


「わたくしに宿っていた(のろ)いは消えましたが、完全に消えたわけではありませんでした。一度、祟り狐になってしまったわたくしは、またそれに成り下がる。確信がありました。それゆえ巫女の返上も考えました」


「また祟り狐になるかもしれない? でも(のろ)いは」


「憎しみは強く残っておりまする。わたくしはどうしても両親を、両親に愛されていた妹弟を許せずにいまする。彼らはまだ健在なので。一等地の社は取り上げられているみたいですが、いまも神職として小さな社を守護しておりまする」


「まだ神職なんだ」

「ええ」

「……それが贖罪(しょくざい)の一歩だと、当時の神職は判断したんだね」

「祟り狐になった衝動は、いまも体が憶えています。小さなきっかけで、また穢れた狐になりかねない」

「自分が信じられないんだね。紀緒さんは」


「ええ。信じられないどころか、わたくしは自分も両親もその繋がりも許せない。考えれば考えるほど、憎しみは強まるばかり。やはり巫女にはなれないと思い悩みました。そんな時です。比良利さまが小さな小さな金色の狐を連れて、わたくしの下にやって来ました」


 翔は思わず、紀緒のひざ元にいるツネキを見下ろす。


「比良利さまは生まれての狐を差し出し、これはいずれ守護獣になる。社で育てることになった。そう言って、わたくしに笑いました――“古き繋がりを大切にするのも良いが、新しい繋がりを得て大切にするのも良いのではないか?”と」


 また祟り狐になるかもしれない、遠慮しても「その時はわしが相手する」

 また憎しみに駆られて、同胞も何もかも喰らいたくなるかもしれない、首を横に振っても「何度でも忘れさせてやろうぞ」

 また巫女ではない、化け狐になるかもしれない、涙をこらえながら伝えても「わし一人じゃ育てられぬぞ」


 比良利は許してくれなかった。

 紀緒が自暴自棄なることを、決して。


 だから、弱い心を見せて、さみしい。ぬくもり恋しい。奉仕以外の繋がりを得たい。誰かのためではなく自分のために生きたいと吐露し、吐露し、吐露して、紀緒は首を縦に振って金色の狐を胸に抱いた。比良利の申し出を受け入れた。

 はじめて紀緒から手を伸ばし、繋がりを得た瞬間だった。


「それから数十年後。わたくしは両親と再会し、あれやこれやと騒動沙汰が起こり、また祟り狐に成り下がってしまうのですが……ツネキはこんなわたくしを怖がらずにいてくれる。比良利さまにいたっては、飽きもせずにわたくしの相手をして止めてくれました。きっとこれからも、わたくしが祟り狐になれば止めてくれるのでしょうね」


 わしゃわしゃとツネキの頭を撫でる紀緒の表情は、とても穏やかだ。

 やはり、やはり、話を聞くだけでは俄かに信じがたい。紀緒が祟り狐になってしまったなんて。

 けれど、きっとそこには翔の知らない過去がある。そしてその過去の中で、日輪の社の者達は絆を深めていったに違いない。


「軽蔑しましたか?」


 紀緒の問い掛けで、我に返る。

 翔は率直に思ったことを告げた。


「んー、俺はもっと紀緒さんと話したいと思ったかな」

「話したい?」

「だって紀緒さんと二人で話す機会少ないしさ。知らないことが多いんだから軽蔑しようがない。だろ?」


 ニッと笑いかけ、「だからまた一緒に奉仕しような」と、人差し指を立てた。

 ツネキが軽く鳴いてきたので、「しょーがないからお前もいれてやるよ」と肩を竦め、鼻先を指で弾いてやる。


「紀緒さん。祟り狐ってさ、たぶん俺にも比良利さんにもツネキにも、そして青葉達にも当てはまると思うんだ」


 うつくしい眼と目が合う。


「魂を憎しみに染めて、周囲を脅かす祟り狐になる。それって感情がある俺達にだって言えることじゃないかな。俺や比良利さんなんて宝珠の御魂の依り代なんだしさ」


 だから。


「紀緒さんが祟り狐になったら全力で止める。気障(キザ)なことを言った比良利さんを差し置いてもさ。逆にもしも俺達が祟り狐になったら、全力で止めてよ。紀緒さんとはそういう繋がりでいたい」


 少しだけ、向こうの瞳孔が丸くなる。

 けれど、少しに元の大きさに戻り、彼女は翔の痣を軽く指で押して「気障(キザ)なところは貴方も一緒です」と、からかってきた。

 「うそだろ?!」翔は絶対ない、自分は比良利ほど気障(キザ)じゃない! と主張するも、紀緒は声に出して笑うばかり。


「所々比良利さまと同じことを仰ってますよ。翔さま」

「げっ、まじ? いやいや、でも俺の方がマシだってっ! な、ツネキ!」


 つーんとツネキがそっぽを向いてしまう。この狐、腹が立つ。

 口元を引きつらせる翔は、金狐に拳骨を入れると、紀緒をじろりと睨んで口をへの字に結んだ。ツネキがお返しがてらに腕を噛んでくるが、それを必死に止めながら、ぽつりと一言。


「俺の勘違いかな。途中から比良利さんの話が多くなったような気がするんだけど……喧嘩をしていても、大切なんだね」

「はて、なんのことでしょう?」


 白々しい咳払いをする紀緒に追撃する。


「もうここまで話したんだから、喧嘩の原因教えてくんない? どうせ後で分かることなんだしさ」

「……確かに大切ですが」

「じゃあ」

「ただ、時折無性に腹が立って嫌いになることがあります」

「え」


 目を丸くする翔の視線から逃げるように、彼女はそっと目を閉じた。


「どうして生き残ったのは、自分なのか」


 どうして鬼才ではないのか。


「そうやって過去を思い詰める姿だけは、どうしても好きになれない。貴方を必要としている者が、どれだけいるのか知りもしないで」


 鬼才狐が生き、凡才狐が死んで良いわけがないのに。


「長話が過ぎましたね。さあさ奉仕に戻りましょうね。翔さま」

「ちょ、紀緒さん! 待ってよ」


 紀緒は昔話を切り上げると、氷水の入った桶を持って、そそくさと土間へ向かう。

 残された翔はツネキを抱き上げ、消えゆく彼女の背中を見つめながら、そっと呟いた。


「それが、喧嘩の原因なの? 紀緒さん」


 長寿の北の神主。

 短命の南の神主。

 その呪詛が、二匹の喧嘩の原因なのだろうか?

 そっとツネキを見下ろし、翔はクンとひとつ鳴いた。耳を垂らすツネキも、クンとひとつ鳴き、力なく尾っぽを振る。


 喧嘩をしてまだ一日目。

 お互いにもう少し、時間が必要なようだ。


「そうそう、翔さま」


 と、紀緒がひょっこりと廊下に顔を出してくる。戻ってきたようだ。


「オツネが(ふみ)を待ちわびていますので、ちゃんと書いて下さいね」


 たっぷりと間を置き、翔は血相を変えて悲鳴を上げる。

 やばい、忘れてた!

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