雨の後は、きっと上天気(三)
喧嘩、一日目暮らし側の様子。
日常生活の中で、双子の対や金狐の知らないところを知る翔。
【一日目】
翔には二つの生活がある。
ひとつは言わずも、南の地の妖らを統べる頭領の生活。
月輪の社を守護し、神主のお役を務め、生まれ沈む命を見守る天命を授かっている。まだまだ未熟な妖狐なので、少しでも一人前の神主になろうと日々精進している。
そして、もうひとつは学生生活。
翔は現在、夜間部に通う大学生である。それは親の目やら繋がりを持つ人びとの目を誤魔化すため。百年はヒトの世界で過ごすつもりなので、少しでもヒトの生活に溶け込もうと大学に通っている。
平日はほぼ毎日、夜にかけて大学があるので、夕方頃に起床して身支度を始めるのだが……。
――バチバチっ、パンッ、チンっ!
「なんだぁ?!」
二段ベッドの下段で眠っていた翔は、台所から聞こえる大きな物音に飛び起きた。寝ぼけた目で辺りを見回し、何事だと慌てふためく。
「え? え? なんか聞こえちゃいけねえ電気の音や、電子レンジの音が聞こえた気がするんだけど」
翔のベッドで一緒に寝ていたツネキも目を覚ましたのだろう。
よろよろと重たそうに頭を持ち上げ、台所の方を見た。
まだ眠いのだろう。半目のまま耳がしょんぼりと垂れている。ついでにうるさい、と言わんばかりに、翔を見上げて小さく鳴いた。待て待て待て、犯人は他にいる。誓っても自分ではない。
「……すまぬ、ぼん。箱の中の明かりが消えてしまったのじゃが」
喧しい物音を立てた犯人は冷蔵庫の前に立っていた。
申し訳なそうに頬を掻き、右手に持っているコップを見せる。曰く、喉が渇き、冷蔵庫の中の麦茶を取ろうとしたら、中の明かりが消えてしまったという。おまけに、冷蔵庫の隣に置いてある電子レンジが、いきなり稼働してしまったとか。
大慌てで冷蔵庫に駆け寄ると、ああっ、見事に電源が落ちている!
電子レンジを見やれば、何も入っていないのに、また物を温め始めている。まるで怪奇現象だ! ……怪奇現象? 目を白黒にさせていた翔は、ハタッとあることに気づき、額に手を当てた。
(比良利さんの妖気のせいか。電化製品と妖気は相性が悪いんだよな)
ヒトの文化である電化製品と、化け物の持つ妖気はとても相性が悪い。
電化製品は精密機械ゆえ、少しでも妖力がそこにあると、その気を感じ取って反応してしまう。所謂、ポルターガイストと呼ばれる現象が起きてしまうのである。
宝珠の御魂を持つ翔も度々現象を起こすことがある。
ましてや、翔の以上の妖気を持つ比良利だ。
その妖気の大きさに堪えられず、冷蔵庫と電子レンジが過剰に反応してしまったのだろう。
「この部屋では極力妖気を抑えてくれって、先に言っておくべきだったよ」
原因は『妖気』だと告げる。
すると比良利は不思議そうに首を傾げ、勝手に稼働している電子レンジを見つめる。
「人間の文化は便利のようで、不便じゃのう。少しの妖気にも堪えられぬとは」
暮らしが便利になればなるほど、人間の文化は『妖』を拒絶しているように思えてならない。
比良利は電子レンジを軽く指で突いた。それだけで、稼働していた電子レンジが止まる。二百年余り生きる狐だからこそ、その言葉は重みがあった。
それはそうと。
翔はベッドに放置していた携帯を手繰り寄せ、時間を確認する。
「……昼の四時」
妖は大体、夕方の六時くらいから起床する。
六時でも早いのに、四時に起きて茶を飲もうとしているということは、たぶん比良利の起床時間は昼の四時頃なのだろう。早い。早すぎる。まだ二時間は眠れるのに。
「比良利さん。もしかして、もう起きる?」
「お主はまだ寝ておれ。わしの起床に合わせんで良い」
ああ、やはりそうだ。
なんて早起きなのだろうか。
二百年ほど生きているから、こんなに早起きなのだろうか?
(……んでもって比良利さん、寝るのめっちゃ早いんだよな)
昨晩のことを思い返す。
夕飯に冷凍チャーハンを食べた後、彼は持参していた書物に少し目を通し、さっさと就寝してしまった。まだネズ坊や翔が起きている時間にも関わらず、「おやすみ」の一言で二段ベッドの上段に寝そべり、夢路を歩いてしまったのである。
奉仕や翔に学びを教える日などは、朝を迎えても起きている比良利だが、基本的に早寝早起きの妖狐らしい。自分の時間ができると、寛ぐ時間よりも就寝の時間を取るのである。
もしかすると喧嘩が原因で眠れない日々を送っていたのやもしれないが、とにもかくにも、比良利の就寝は早い。そしてどんなに物音を立てても起きないので、その眠りの深さには舌を巻いてしまう。火急の用事になれば、話はまた別だろうが。
(まあ、つまり……おじいちゃんってことだよな)
翔は大あくびをこぼし、冷蔵庫から麦茶を取り出す。
その際、冷蔵庫に軽く蹴りを入れた。
電源が入ったので一安心。麦茶を比良利の持っていたコップに注ぎ、夕餉の用意をすると肩を竦めた。まだ半分頭が眠っているが、今から眠るのも微妙なので、ここは比良利の生活リズムに合わせるのも手だろう。
すると、比良利が申し訳なさそうに笑い、「夕餉より禊風呂をしたいのじゃが」と申し出た。
禊風呂。
それは奉仕をするために、体を清める行為を指す。とくに南北の神職が指す『禊風呂』は水風呂のことを言っており、比良利はそれに入って身を清めたいと申し出た。
あまり驚きはしなかった。比良利の奉仕に対する心構えは、誰よりも誠実で厳しいと知っている。心のどこかで禊風呂は言ってくるだろうな、と思っていた。
「すぐに準備するよ。お浄めの灰も持ってくるから」
お浄めの灰は、ヒトの生活でいうお清めの塩のことである。
妖がお清めの塩をかぶると毒になるので、代用に灰を使用している。
「それと手ぬぐいを三枚ほど、用意してもらえるじゃろうか?」
「分かった。手ぬぐいはないから、タオルを置いておくよ。他には?」
「清酒があれば良いのじゃが」
「うわあ、比良利さん。俺よりも本格的な禊風呂をしているんだね。さすがに清酒は俺の家には無いから、入っている間に買ってくるよ」
「あればで良い」
「べつに買うくらい良いよ。寧ろ、俺が見習わなきゃな」
同じ神主ながら、この心構えの違い。
もっと精進しなければ。
笑いながら言うと、比良利も頬を緩め、わしゃわしゃと頭を撫でてくる。
「ならば、明日頼むとしよう。今宵は清酒なしで身を清める」
「いいの?」
「うむ。寧ろ、手間をかけさせてすまぬのう。普段であれば、紀緒が………………」
「アダダダダダッ! 比良利さんっ、手! 禿げる! 禿げる!」
言葉の続きは無かった。
代わりに、ど不機嫌になった比良利は翔の頭を高速で撫でた上に、鷲掴みにして、グッと握り締めてきた。
痛い、痛い、とても痛いっ! 悲鳴を上げても比良利の機嫌は直らず、ふん、と鼻を鳴らして洗面所へと向かってしまう。顔を洗うようだ。
翔は頭をさすりながら、洗面所へ消えていった赤狐に、深いため息をつく。
「あーあ、だめだ。本当に怒ってる。名前すら聞きたくないんだな」
クン、と鳴き声が聞こえた。
振り返ると、ベッドの上で耳と尾っぽを垂らすツネキの姿。激おこな比良利に思うことがあるようで、すっかりしょげかえっている。
その姿を見た翔は、ツネキの隣に座ると、軽く体を叩いてニッと笑いかけた。
「俺達は先に夕餉を取ろうぜ。食べなきゃ元気も出ねえよ」
「なあ、ツネキ。二匹の喧嘩の原因って分かんないのか?」
比良利が禊風呂に入っている間、翔とツネキは夕餉を取っていた。
夕餉といっても、妖にとってその時間は朝食に値するので、軽く食パンを焼き、インスタントのコーンポタージュにお湯を注いで飲むだけの簡単なものであった。
食パンにイチゴジャムを塗り、ツネキの食べる皿に置く。金狐は目を輝かせながら、食パンにかじりつき、お椀に入ったコーンスープを舌で掬い始めた。腹が減っているようで、その勢いは凄まじい。
それを横目で見ながら喧嘩の話題を振ると、ツネキは頭を持ち上げて、うんっと首を傾げた。
「原因がないと喧嘩なんてしないだろ? 今回はまじで酷いし」
ぶんぶん。
ツネキは首を軽く振り、鼻先でテーブルに置いているイチゴジャムの瓶を押してくる。もっとパンにつけろ、らしい。
どうやら金狐は甘党のようだ。
たっぷり食パンにのせてやると、千切れんばかりに尾っぽを振って、それにかじりつく。瞬く間に口が汚れたところで、翔のシャツで顔を拭くものだから、思わず拳骨をお見舞いしてしまった。
「ったく、お前ってやつは」
ぶすくれたように鼻を鳴らすツネキは、目を細めて、クンクンと鳴いた。
なんと言ったか分からないが、おおよそ「心が狭いぞ。ハナタレ狐」とでも言ったのだろう。この狐、少しでも優しくすると、すぐこれだ。
「原因が分からないなら分からないで、どうやって仲直りしてもらえるか考えろって。いつもだったら、どっちが折れるんだ? 比良利さん? 紀緒さん?」
ツネキは唸り声を上げた。
比良利も紀緒も簡単に折れない狐のようで、大体喧嘩をしたら、時間が経つまで、あの調子らしい。やはり大人の喧嘩である。「自分が悪かった」とも「ごめんなさい」とも、簡単に言えない性格なのだろう。ましてや、何百年も一緒に家族をしているのだから、素直に謝罪なんぞできないのだろう。
少なくとも、ツネキを育てたのは比良利だと聞いているから、百五十年余りは紀緒と家族として過ごしているはずだ。それはそれは付き合いも長いだろう。
「二匹って喧嘩したら、めんどくさそうだな」
テーブルに頬杖をつき、ツネキを見やる。
うんうんうん、金狐は首が取れんばかりに頷いた。翔に向かって、クンクン、クオンと鳴き、どれだけめんどくさいのか説明してくる。
しかし、獣語が分からないので、翔は頭上に疑問符を浮かべてしまった。
『喧嘩をしたら、用事ごとはすべて自分を通して、相手に伝えようとするらしいよ』
「あ。おばば」
開きっぱなしの窓から、しゃがれた猫の声が一匹。おばばだ。
おばばも一応、メスなので日輪の社に泊まっている組の一匹なのだが、自分達のことが心配で様子を見に来たようだ。
曰く、二匹が喧嘩すると、ツネキを媒体にして会話するらしい。
まったく会話をしようとしないし、目も合わせようともしないし、別々に食事をとりたがるし。それはそれは苦労するとツネキ。挙句、おのおのツネキにどっちが悪いかを聞いてくるそうなので、喧嘩が始まると金狐はいつも二匹から逃げるように外へ遊びに行くそうだ。
「まんま熟年夫婦の喧嘩だよな」
容易に想像ができる。
苦笑する翔に、ツネキは意外と幼稚なことをしていると耳を垂らした。
例えば、怒った紀緒が比良利の食事に多めに塩を入れておいたり。反対に比良利が、紀緒の読みかけの書物を綺麗に片付けてしまったり……ああ、そうそう、わざと湯船の湯を水にしていたこともあったような、なかったような。あれは比良利だっけ? 紀緒だっけ? どっちもだったような。
ツネキが軽く首を横に振り、翔の目が遠いものになる。
「幼稚というより……」
陰湿である。
分かりやすい陰湿さに、双子の対もびっくりだ。
『大人の喧嘩と子どもの喧嘩がまじっているんだよねえ。あの二匹。たとえば、比良利と惣七のように分かりやすい喧嘩ならいいんだけど……比良利と紀緒の喧嘩は本当に面倒でねえ』
うんうんうん、ツネキはおばばの言葉に力強く頷く。
『百年前以上だったかねえ。二匹が大喧嘩して、その仲裁に惣七が入ったんだけど……惣七が頭を抱えてしまうほど、喧嘩した二匹は頑固なんだよ』
「鬼才と呼ばれた先代が、頭を抱えるほど……やばそう」
『おかげで、わたしが仲裁に入ったくらいだ。惣七に泣きつかれたよ』
「……絶対にヤバイ。断言できる」
『ああ見えて、二匹も若い妖狐だからねえ。一度、喧嘩をしてしまえば、やたらめったら頑固になって自分の主張を通そうとするもんさ。まあ、あの頃に比べたら、少しは丸くなっているよ。さすがに百歳二百歳年下の子ども達の前で、露骨な喧嘩をするわけにもいかないからねえ』
「十分、露骨な喧嘩をしていると思うんですけど……ああもう、喧嘩の原因はなんだろう」
『さあ。ただ身近な存在になればなるほど、小さなことが許せたり、反対に許せなくなったりするもんさ。きっと坊やがやれば許せるようなことを、比良利や紀緒がやってしまってお互いに許せなくなってしまっているんじゃないかねえ』
ここは二、三日ほど、お互いのことを忘れさせるべきだ。
それが最善の策だと猫又婆は、苦笑いをこぼした。
『でもねえ。正直、わたしは嬉しいよ』
「え。喧嘩したことが?」
すごく迷惑しているのだが。翔のしかめっ面に、おばばは優しく鳴く。
『お前さんが現れるまで、あの二匹は喧嘩の存在すら忘れていたからねえ。あの頃は喧嘩する余裕も、気力もなかったんだよ』
自分の感情に任せた喧嘩より、いつまでも続く荒れた不変の明日、あさってを見つめ、ため息ばかりついていたことを、おばばは知っていると言う。
だからこそ、喧嘩をしてくれる二匹が嬉しい。二匹だってまだまだ若い狐なのだから、それくらい感情的になっても良い。年の功はそう言って、微笑ましそうに鳴いた。
ツネキは嫌々と首を振っているが、おばばは大層嬉しそうだ。これが年の功の余裕というやつだろうか。
「なんじゃ。コタマ、来ておったのか?」
ひょっこりと比良利が居間に現れる。
幸い、会話は聞かれていないようで、「夕餉でも食べに来たのか」と話を振っている。やや不機嫌になっているのは、こちらの様子を見に来たことを察しているからだろう。
しかし、そこはおばば。やんちゃなネズ坊の様子を見に来たと、飄々に返事をしていた。
「丁度良かった。俺と交代しようぜ。俺は食べおわ……げっ、比良利さん。髪びっちょりじゃん」
彼の周りにぽたぽたと水滴が落ちている。
それだけではない。六つの尾っぽも、大層水気を吸っている様子。床はフローリングなので、水滴が落ちたら、すぐに分かる。
翔は比良利の持っていたタオルを奪うと、わしゃわしゃと髪の水気を取る。
「イタタタ。ぼん、気にせんで良い。わしの髪は長いゆえ、今から一刻かけて水気を取る。いつものことじゃてえ」
「床に水が垂れてるのは見逃せねえから。このままだと部屋が汚れる! ああもう、ドライヤーを持って来た方が早いか? ほら、前を見て! しゃんと座る!」
「……ぼん、わしの方が先輩じゃと分かっておるか?」
「先輩の自覚があるなら、髪や尻尾の水気くらい、ちゃんと取ってくれよ。風邪引くぜ?」
ちゃっちゃかドライヤーと櫛の用意をする。
「自分で出来るとゆーとるのに」「そういう奴の言葉大体、信用ないんだぜ?」「それ、音がかまびすしいぞよ」「ドライヤーの音? 我慢してくれよ」「腹が減ったのう」「髪を乾かしたら用意するよ」「話を逸らしてくれぬか」「当たり前だろ、風邪引かれたら困る」「お主も放ってくれぬか」「も?」「……なんでもないわ」
他愛もない会話を交わしながら、紅の髪を櫛で梳く。
背中どころか腰まである髪の長さには目を瞠るばかり。水を吸えば吸うほど重たいだろうに。
「比良利さん、髪は切らないのか? 面倒じゃねえ?」
ふと思った疑問を投げ、そっと長い髪の束を握る。
「妖狐になり立てだった頃は、ぼんくらいの髪の長さじゃったがのう」
「へえ。短い髪の比良利さん、見てみたいな。切らないの? もしかして、ずっと伸ばしてるのか?」
「べつだん理由はないが……」
それは、うそだと気づく。
そのような顔をはしていない。
「そうじゃのう。切る日は決めておるよ」
北の神主のお役を降りる時に、切る、と比良利は強く返事した。
「ひとつの節目に切る方が、縁起も良かろうて」
つい、笑ってしまう。
「それさ、何百年後の話?」
「さあてのう。千年先やもしれぬ――ぼん、その時はわしの髪を切ってくれるか?」
「俺が? 切るって言われても、ただ髪の束を切ることしかできないけど」
「それで良い。わしは双子の対に、髪を切ってもらいたい。そうすれば、お主も嫌ってほど長生きするじゃろうて」
何を言っているのだ。この狐。
翔は笑いながら、強めに櫛を梳き、「言われなくても千年は生きてやんよ」といらえた。南の神主が短命とか、至らん言い伝えのせいで、自分は過保護なまでに心配される。まったく嫌になるものだ。
「ったく、もうちっと俺の寿命を信じてくれても良いんじゃないか? 俺はしぶといぜ」
「破天荒な行動が自身と我らの寿命を縮ませてくれる。自覚せえ」
「そら、すんませんねえ」
おどけ口調で謝っていると、「ツネキ。それ美味そうじゃな」と言って、比良利が食べかけの食パンを取り上げてしまう。後で用意すると言っているのに、ツネキの食パンを一口かじり、イチゴジャムに美味だと舌鼓を打っているので、きっとツネキの甘党は比良利に似たのだろう。いや、もしかすると紀緒かもしれない。紀緒もよく甘いものを食べていると、青葉から聞いたことがある。
――と思うと、比良利も、ツネキも、紀緒も、似た者同士なのやもしれない。
(仲直りしたら、からかってやろうかな。みんな似たり寄ったりの甘党じゃないかって)
翔は人知れず、笑いをこぼしてしまった。




