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白狐ノ草子   作者: つゆのあめ/梅野歩
▼桜の章:受け継ぎノ編(完結)
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めぐりめぐる、七つ夢見桜

桜をめぐる、七つの小噺其の七。

めぐる桜の噺は姿かたちを変えて、ひとりの狐の中に息衝く。



 少年神主の彼は、永遠を生きる上でいつか忘れてしまうだろう。ヒトだった頃の自分を。 幼馴染と過ごした日常を。 幾度の出逢いと別れを繰り返す、その時を。

 けれども忘れない。 決して語り継がれることのない日々は、何かしらの形で白狐の中に息衝いている。






「――ける……ください。まったく、こんなところで寝酒して。第十代目南の神主。六尾の妖狐、白狐の南条翔さま。お目覚めください。翔!」


 ひとりの青年のつよい呼び声が、深い眠りに就いていた翔の脳天を突き抜けていく。それはそれはとても大きな声で、いつまで頭の中でこだまする声量だった。

 思わず飛び起きた翔は間の抜けた声を出して、頭の上の耳を押さえた。

 一体全体何事だ。寝ぼけた目を持ち上げると、呆れかえったように腕を組んでいる烏天狗の姿。彼は空になった徳利(とっくり)を拾いあげ、それを翔の前で軽く振ってみせた。


「また、おひとりで花見酒を堪能していたのですか?」


 ひとり。


 翔は左右に目を配り、しばらく呆けてしまう。そこには誰もいなかった。おかしい、寝る前は誰かがいたような。一緒に花見を観ようと、ああ、違う。そんなわけがない。今宵は早めに奉仕を終えたから、大好きな花見をしようと、ひとりで表社まで足を運んだのではないか。

 翔は小さなあくびを噛み締めると、天馬の持っている徳利(とっくり)を見つめ、その場で片膝を立てた。


「徳利一本で酔いが回るなんて、酒の味を覚えた始めた餓鬼じゃああるまいし。疲れていたのかなぁ」


 今年で齢二百と五十余りになるというのに。

 軽い吐息をつくと、「無理が祟っているのですよ」と、天馬からお叱りの言葉を投げられた。


「近ごろの貴方様は、不休でヒトと妖の世界を行き来してばかり。お休みになられていないではありませんか」


「俺の統べる土地で、霊能者が妙な動きをしているんだ。そりゃ様子を見に行くだろう? ったく、最近の人間ときたら、やたら妖を追い回したがる。そんなに物珍しいものでもないだろうに。とっ捕まえて見世物にでもしようとしているのかねぇ」


 おかげで双子関係にある赤狐が、毎日のように不機嫌だ。

 あれが怒ると天と地がひっくり返りそうになるので、下手なことはしてほしくないのだが。翔はグチグチと文句垂れながら、重い腰を上げる。

 二、三歩、前進したところで体が大きくよろめいてしまった。しかし、派手に転ぶことは免れる。翔は逞しい腕を視線で辿り、「わりぃ」と烏天狗に片手を出した。


「思った以上に酔いが回っているみたいだ」

「ええ。見ていれば分かります。足元がおぼついていませんよ。大丈夫ですか?」

「夜風に当たっていれば、すぐに醒めるさ」


 上体を起こしてくれる天馬の肩を叩き、月輪の社へ戻ろうと先を歩く。

 彼は物言いたげな目をしていたが、気づかない振りをした。なんとなく彼の言わんとしている言葉は察している。


「翔」

「うん?」

「休んで下さい」

「寝酒したから、もう休んだ」


「お目付からのお願いです」

「お前は”もう”俺のお目付じゃないだろ。俺に黙って護影なんてしやがって」


「まだ怒っているんですか」

「怒ってる。俺の知らないところで、俺を守ろうとして。何も知らなかったあの頃の俺をぶっ飛ばしたいよ」


「そのことで色々と喧嘩しましたね」

「ああ、良い思い出だな。お互いに護影をやめろ、やめないの言い合い。どっちも譲らなかった。あれがまさか、真剣勝負の引き金になるなんて。今じゃあ笑い話だよ」


「もう百年も前のことですよ」

「もう百年も経ったのか」


「それはそうと翔。休んで下さい」

「……その話に戻るのかよ」


「ならば、自分と勝負です。勝ったら、自分の言葉に耳を傾けて下さい」

「耳ならもう傾けているだろ。俺はちゃあんと返事している」


 へらへらと笑う翔の右隣に並び、烏天狗は軽く首を鳴らし始めた。


「なるほど。神主ともあろうお方が、申し込まれた勝負を投げると?」

「……お前。最近、妖狐の部族に感化されてねーか? 一々言い回しがずりぃぞ」


「狡くもなります。自分は貴殿の師であり、右腕ですので。最近、ようやく背丈が伸びてきたので、良い勝負ができそうですね」


 百年前は見下ろさなければいけない背丈だったというのに。

 しごく平坦な声で、しかしながら、非常に意地の悪いことを言って煽ってくる天馬に翔は頬を引きつらせた。背丈だの成長だのといった話題は白狐、最大の地雷である。


「天馬も、雪之介も無駄に高くなりやがって。この二百年っ、俺はどんな思いでいたとっ」

「いつも悔しそうに見ていたと思います」

「うるせぇな! その通りだよ! 正直に言いやがって」

 

 ぎゃあぎゃあ叫んでもなんのその。

 天馬は片指に指を突っ込んで、右から左へと聞き流すばかり。まったく相手にしようとしない。ようやっと返事をしても、「休んで下さい」の一点張りなので、二人の会話はまったく成立しなかった。


 月輪の社に戻ると、向こうの参道から待ちかねたように銀狐が駆け寄ってくる。

 溺愛しているギンコの姿に、翔はしまりのない顔を浮かべて、片膝をついた。

 両手を広げると、嬉しそうに銀狐が胸へ飛び込んでくる。年々美しさが増しているギンコは、本当に可愛い。走っても歩いても尾っぽを靡かせても、すべて可愛い仕草に思える。


「お出迎えしてくれてありがとうな」


 ギンコの額と自分の額をこすり合わせて、じゃれ合っていると、水を差すように天馬が告げ口をする。


「オツネさま。翔に休むよう言って下さい。先ほども、表社の桜の下で寝酒していたのですよ。徳利(とっくり)一本で寝酒なんて、よほど疲れているとしか思えませんよね」


「げっ。言うな、ギンコに言うなって! ああっ、ギンコ。違うんだぞ。ちょっと、ツツジ酒を飲みすぎたみたいで」


 じーっ。

 ギンコが意味深長に見つめてくる。ほんとう? 首を傾げてくるギンコに、ぶんぶんっと首を横に振って、「飲み過ぎただけ」と、言い訳をつらつら並べる。

 けれども。齢三百の狐はちっとも信じてくれない。翔の鼻先にちょんと鼻を当てて、クンクンと鳴いた。途端に翔は悲鳴を上げる。


「ギンコ。本当だって。飲み過ぎただけなんだって。お前にうそつくわけないじゃん。え? うそをつくなら、俺をずっと見張る? くっ付く? そんなことされたら、俺はっ、俺はっ……奉仕どころじゃないじゃんか!」


 全部投げてギンコといちゃいちゃしなければいけなくなる。

 なんて幸せな時間、いやいや、なんて恐ろしい時間。ギンコは神主のことすら忘れさせてしまう、罪深い可愛さを持っている! しかし、その可愛さが正義でもあるので、本当にギンコは天使のような狐だ。

 ギンコを抱いて身悶える翔を、天馬は遠い目で見つめた。


「いっそ、見張ってもらった方が良いのでは? 休めますよ」


「ばか! ギンコが始終俺にくっ付いているんだぞ。休んでいる場合じゃない。一緒に遊ばなきゃあだめだろ。お散歩だってしたいし、お()つだって一緒に食べなきゃだし、戯れあわなきゃだし、とにかく休むなんて時間がもったいない!」


「……翔。年々オツネさまばかが強くなっていませんか?」

「それ、おばばにも言われた。しゃーない、しゃーない。ギンコは、俺の可愛いギンコなんだから。なー?」


 ふたたびギンコを頬ずりしたところで、拝殿にいた青葉が声を掛けてくる。

 焦燥感を滲ませる彼女は、「比良利さまがお呼びです」と、用件を告げてきた。それだけである程度の事態を察する。翔は一変して、険しい面持ちを作ると、心配そうに見上げてくるギンコを下におろして浄衣を靡かせた。


「すぐ行く。比良利殿はどちらに?」

「日輪の社の憩殿に。あっ、翔殿」


 早足で日輪の社へ向かう翔は、共に行くと呼び止める青葉に一足先に行っている旨を伝えた。青葉とギンコには、まず月輪の社の戸締りをしてほしい。どうせ込み入った話になるだろうから。

 また天馬には少々ヒトの世界の様子を探ってほしい。つよい胸騒ぎがする。


 それらを伝えた後、翔はやんわりと頬を緩めて、「待ってるよ」と言葉を残して、比良利の下へと向かった。


「行ってしまった。翔殿、せめてお水を飲んでいってほしかったのですけれど。この時期はいつも、花見酒を堪能していますから」


「人間のせいで、堪能する時間すら与えてくれないのですね」


「ええ。翔殿にとって春は大切な季節だというのに」


「休む間すら惜しむところは今昔変わらない点ですね。だから、無茶ばかり――おかげで、自分も休む間を惜しんでしまいます。翔には長生きをしてもらわなければいけないのですから」




「――人間が傍若無人に、妖の社を探しているそうじゃ」


 彼、八尾の妖狐、赤狐の比良利はそう言って愛用の煙管を銜えた。

 刻み煙草の入った印伝(いんでん)を投げ渡されたので、翔も懐から煙管を取り出して、それを詰めた。火を点して、ゆっくりと煙草を味わう。それだけで、ささくれる心が落ち着いた。

 たゆたう紫煙を見つめ、翔は苦い顔をする。


「人間は社の賽銭箱に、銭でも入れてくれるつもりなのか? 参拝目的なら、表社に行ってもらいたいんだけど」

「この頃の人間は、やたら我ら妖の境域に足を踏み入れようとする。無遠慮者とは言ったものじゃ」


 じつに腹立たしい。

 比良利は青竹に灰を捨てる。八つの尾っぽの毛は見事に逆立っていた。


「人間は人間の、妖は妖の境域がある。互いに踏み入れてはならない。それが暗黙の了解だったろうに。ちなみに、妙ちきりんな動きをしている霊能者ってのは」


「安心せえ。妖祓の真似事をする者じゃ。ままごとでもしておるのじゃなかろうか?」


「はあ。真似事……妖祓も大変だな。真似事をする阿呆が出てきたなんて。これも時代の流れなのか?」

「時代の節目なのじゃろう。妖祓とて寿命の短い人間、世代交代は早い。力が弱ってしまう時期は必ずある」


 いまがその時なのだろう。比良利は淡々と語った。

 実にかなしい話だ。何人もの妖祓長が、二種族の仲を取り持とうと走り回っていたのに。たった数人の愚か者のせいで妖と人間が対峙してしまうなんて。

 実情を知っている翔は、「時代は残酷だなぁ」と、哀れみを抱きながら、ゆっくりと紫煙を吐き出す。とはいえ、統べる土地で好き勝手されるわけにはいかない。妖の社を人間が足を踏み入れて良い域ではないのだから。


「さっき、天馬をヒトの世界へ行かせた。しばらくすれば知らせがくると思う」

「成長したのう。以前のお主ならば、自分が様子を見ようと飛び出しておったじゃろうに」

「ようやっと比良利さんから、月輪の社を任されるようになったんだ。俺なりに頭領らしい振る舞いはしたいんだよ」


 本当は飛び出し気持ちをグッと堪えている。

 おどけ口調で肩を竦めると、「まだまだ子どもじゃのう」と、比良利から笑われた。

 昔はその言葉に食い下がっていたもの。しかしながら、今の翔は違う。しかと子どもと認めた上で、敬愛する比良利の背を追い駆けている。これも時が翔を成長させたのやもしれない。


「比良利さんの背中は、まだまだ遠いなぁ。やっと、六尾になれた俺に対して、比良利さんはもう八尾。いつ九尾になってもおかしくない。妖狐は九尾になると祝の儀を開くんだっけ?」


「左様。斎主(いわいぬし)を決めておけと、オオミタマさまに言われておる。無用な気遣いじゃがのう」


 意味深長に口端をつり上げる比良利と視線がかち合い、盛大にむせ返ってしまった。


「俺を斎主(いわいぬし)に指名するつもりかよ」

「なんじゃ。引き受けてくれぬのか。つれない対じゃのう」


「引き受けないとは言わないけど……てっきり大役はオオミタマさまにお願いすると思っていたよ。九尾狐は妖狐にとって特別じゃあないか、ましてや、宝珠の御魂を持った狐はその力を借りて九尾になるんだから、斎主(いわいぬし)はオオミタマさまの方が良いんじゃないか?」


 翔の訴えもなんのその。比良利は脇息の上で頬杖をついた。


「特別じゃから、対であるお主を指名するまで――これ以上の適任がいようか?」


 それは短く、とても狡い答えであった。

 そう言われてしまえば、もう何も言えない。やはり兄分の比良利には敵わない。

 翔は煙管の吸口を軽く食んだ後、「喜んで引き受けるよ」と言って、目尻を和らげた。これで断るなど対のすることではない。

 満足する答えだったのだろう。比良利も慈しむように笑うと、軽く手招きしてきた。その意図が分からないので、取りあえず彼に近寄ると、無遠慮に頭を撫でられた。もう二百と五十余りになるというのに!


「なっ、な?!」


「たまには褒めることも大切じゃと思ってのう」

「……こ、子ども扱いはやめろよ」


「おや? 先ほどは聞き流しておったではないか」

「言葉は聞き流せるよ言葉は。でもこれはべつだって」


 必死に手から逃れると、比良利は声を上げて笑った。


「やはり、まだまだ子どもじゃのう。安心したわい。近頃のお主ときたら、背伸びをしてわしに追いつこうとする姿をあまり見せてくれず、物分かりの良い態度で振る舞うばかり。からかい甲斐がなかったものじゃから」


 やはりお主はそうでなければ。

 もっと昔のように無鉄砲さを見せても良いのだと比良利。苦虫を噛み潰したよう顔を顰める翔の鼻先を指で弾き、「その無鉄砲さに救われる者もおる」と言って、そっと糸目を開眼した。

 あまり見せることのない、燃ゆる紅の瞳を見つめ返し、翔は決まり悪く後頭部を掻いた。


「比良利さん。一応それは褒めているんだよな?」

「貶しているとも言うかのう」

「どっち?」

「どっちもじゃ」


 なんだそれ。不満気に鼻を鳴らす翔を、比良利はいつまでも笑っていた。彼は翔の知らない、翔自身のことを見通しているようだった。



 昔はとても無鉄砲であった。

 とにもかくにも、目の前の出来事に首を突っ込み、理想のために走り回っていた。物音に対する視野がとても狭く、一点ばかり見つめていた。


 今もその傾向はあれど、昔ほどではない。

 ちゃんと視野を広げて、周りを見るようになった。同胞に任せるべき点は任せ、自分のやるべきお役は果たそうという考えを持つようになった。それは頭領として、とても良いことだろう。頭領はいつだって視野を広くもっておかなければいけないのだから。

 しかし。それが少しだけ、己の性格に合わない。やはり心のどこかで、自分の足で動き回りたい走り回りたい翔け回りたい、と思うのだ。


 (くだん)のことはとくに――。


 翔は比良利と人間の動きを見張った。

 時に傍若無人に妖の社を探し回り、その境域を荒らそうとする霊能者どもと対峙した。かなしいことに、そのせいで妖祓が現れ、戦となることも少々。

 いつの時代も妖祓との衝突は起こるものなのだと、翔は思って仕方がない。いつも衝突していたものだ。五十年前もそうだった。百年前もそうだった。百五十年前だって、二百年前だって。


「翔殿。重荷は我らにも分けて下さいね」


 疲労を感じてくると、いつも青葉が声を掛けて来てくれた。

 彼女は翔のことをよく理解してくれた。決して、無茶をしないで、とか、無理をしないで、とか、休め、とかは言わず。ただただ重荷を分けてほしいと願い申し出た。止めたところで、翔は聞く耳を持たない、と分かっていたのだろう。

 いつだって青葉は重荷をこちらにも寄こせと言う。その気遣いがとても嬉しかった。支えられているのだと、心から思った。



(疲れた)



 妖祓と対峙した、幾度目かの夜。


 翔は愛用の和傘を片手に、ひとり表社へと向かった。

 人間と対峙したせいで、体はともかく心が疲労困憊(ひろうこんぱい)していた。無性に桜が見たくて仕方がなくなったのだ。

 途中、おばばに抜け出す姿を見られてしまったが「いっておいで」と見送られた。また、すっかり大人になったネズ坊達にも、尾っぽを振って見送られた。誰彼、翔の行動を咎める者はいなかった。

 それだけ顔に疲労の色が見え隠れしていたのやもしれない。


「今宵の桜も満開だな。あと二、三日は持ちそうだ」


 表社に出た翔は、社殿の裏にある満開の桜を見上げていた。

 花弁をいっぱいに広げている桜は、風に揺られる度に花びらを散らした。その舞は見事なもの。雪のように舞い上がっていく、それらは観る者を魅了する。

 うつくしい光景だ。翔は感嘆の息をもらす。


「桜を観ていると、嫌なことが全部吹っ飛びそうだ」


 だから。桜は好きだ。荒くれた心を癒してくれる。

 和傘に積もり始めた花びらを落とすために、くるりと傘を一回りさせる。それだけで、花びらは宙を舞った。ああ、なんてうつくしい。

 どれほど、桜の舞を見つめていただろう。翔はふと、視線を戻して、苦笑いをこぼす。


「いつまでも現実逃避してちゃあだめだよな。戻って、これからのことを考えないと」


 踵を返して桜から離れる。

 数歩、前進したのち、花びらが翔の視界を遮った。それはまるで行くな、と言っているよう。驚き、後ろを振り返る。そこには誰もいない。桜の木が佇んでいるばかり。分かっている、誰もいない。分かっているのに、誰かに呼ばれた気がしてならない。翔は傘を閉じて体ごと振り返る。


 じっと桜の木を見つめる。風に舞うは花びらは、やがてふぶきのように舞い上がって、翔に訴えるのだ――おかえり、と。


 嗚呼。翔は自然と笑顔をこぼした。


 すっかり記憶の彼方に追いやられていた、懐かしい名前が翔の胸をくすぐってくる。そうだ、そうだった、今年はまだ彼らの名前を呼んでいなかった。あまりにも忙しくて、彼らのことすら忘れていた。春になれば大好きな彼らに会える。とても大切な季節だというのに。

 そんなうっかり者に焦れて、彼らの方から迎えに来てくれた。そうに違いない。


「ごめん。もう、お前らの顔を忘れちまった。お前らの声も忘れちまった。お前らはどんな声で俺を呼んでいたっけ。どんな顔で俺に笑いかけてくれたっけ」


 何も思い出せない。ごめん。

 どんな思い出を作ってきたのかすら色褪せている。ごめん。

 二人のことはとても大切だった。それは確かだったのに、姿かたちがおぼろげだ。ごめん。本当にごめん。

 それでも。

 

 翔は右の手を差し出した。


「お前達がここにいたことは憶えてる――ただいま。そこにいるんだろう? 朔夜、飛鳥」


 つよい向かい風が吹く。

 目を細める翔の前には、月明かりに照らされる花びらと、右手をかすめる花びらと、それから――おぼろげな姿かたちをした誰かと誰か。ああ、見つめる向かい風の向こう、舞い上がる花びらの向こうにはきっと「ショウ」と呼んで、手を差し出す彼らがいる。そう信じている。


「大丈夫、俺はまだ走れる。しんどいこともあるけど、ちゃんと夢は忘れてない。お前らのことを忘れていた俺が言えることじゃないけどさ」


 だからだろう。翔は満開の桜にも負けない、花咲く笑顔を作った。


「そこにお前達がいる限り、俺はがんばれるから。だから、また来年。会いに来てくれよ。俺も会いに来るから」


 その顔は妖でも、人間でもない、ただの南条翔の顔であった。いま、桜と共に佇む翔は、なんの肩書きもない、ただのショウであった。






 今宵も桜は静かに咲き誇る。

 時に満開の花となり、時に散る花びらとなって、観る者を魅せていく。

 繰り返される時代の中、いっぴきの狐もまた満開の花となる。それは散った者の想いと御魂を受け継ぎ、時代を翔けていく。

 めぐりめぐって、いつか自分が散る花びらとなる、その日まで夢を見て。


(終)



 吹き抜ける向かい風の向こう、花びらの向こうには、きっと自分の夢見た理想が待ってくれている。そう、つよく信じている。


これにて七つの桜をめぐる話は仕舞い、とします。

当初、翔と先代・天城惣七の「たられば」を書くために、六つの独立した噺を書き始めたのですが……気づけば、まったく違うものとなってしまいました。

ただ、これでこれで良かったのかもしれません。


果たして、このような未来が訪れるかどうか、それは翔達の選んだ道次第。

どこかで別の道を選んでしまえば、それはまた違う未来が訪れることでしょう。これはあくまで、めぐりめぐる未来の一つの断片と思って頂ければ幸いです。

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