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白狐ノ草子   作者: つゆのあめ/梅野歩
▼桜の章:受け継ぎノ編(完結)
54/77

めぐる、朽木桜

桜をめぐる、七つの小噺其の二。

比良利と天城惣七と来斬。思い出話。



 願わくは、いつか花の下で、見送られる側にならんことを――。



 其の妖。

 北の地を統べる北の神主、六尾の妖狐、赤狐の比良利は、珍しく誰にも知らせず、妖の社を抜け出していた。

 彼の向かった先は妖の社を隠している表社――ヒトの地にある神社であった。

 社殿の屋根に腰を下ろすと、徳利とっくりに自前のツツジ甘酒を木の器に注いで喉を潤す。目の前には夜の町並み。百年前に比べ、ずいぶんと明るい景色となっている。

 その光の強さに比良利の細目が、さらに細くなった。目を瞑りたくなる明るさだ。人間はまこと、光の好む不思議な生き物である。


(百、二百年前は、静かな灯火が散らばっていたものじゃがのう)


 提灯が当たり前だった、人間の暮らしも、今ではそれすら見掛けずにいる。なんとなしに侘しい気持ちになった。自分の知る物が廃れてしまう、その世の中が無常に思える。


 それだけ年月は残酷だということやもしれない。


 比良利は町並みに背を向けると、社殿の裏に咲き誇っている、桜の木に目を向けた。今でこそ貫禄ある桜だが、二百年前はたいへん弱々しく細い姿をしていたもの。雨風の影響でいつかは折れるのではないか、と思っていたのに……これもまた、年月の力だろう。


(妖になって幾星霜、様々なことがあったものじゃ)


 ただの狐から妖狐へ、そして天命を賜った神主に。

 言葉にすれば簡単なものだが、決して楽な年月ではなかった。

 比良利は花吹雪を見せてくれる桜を眺めながら思い出す。百と五十年余りのことを。


 あの頃。まだ、九代目南の神主がいた頃。自分達が神主出仕だった頃。

 比良利の両隣には同じ修行をしていた連中が肩を並べていた。

 ひとりは己の対である、白狐の天城 惣七。そしてもう一人は、神職を支えるお役に就いていた黒狐の来斬らいざん

 何かとこの二人が比良利の両隣に立っていた。

 


「――また、お前だけ勝ちがないな」


 百と五十年余りのあの日、あの時、あの瞬間。


 神主出仕であった比良利は、毎日のように天城惣七や来斬と手合わせを強いられていた。心身、強くなければ妖らは守れない。三代目北の神主の意向で、暇さえあれば手合わせを強制されていた。

 武の才に長けていた二人に対し、比良利は凡才であった為、この時間がなによりの苦行であった。二人相手に勝ちが一つも取れないのだ。むしろ、取れ、という方が難しい話。


 鬼才の天城惣七は、何をするにも一度で我が物にしてしまうし、来斬は天賦の才があったのだろう。鬼才を上回る腕っぷしを持っていた。

 それに勝ちを取れなど、西から日が出るようなもの。一つでも取れたら奇跡だ。


 今日も今日とて、勝ちの一つも取れなかったものだから、惣七に嫌味を飛ばされてしまう。喧しい、と反論したいが、床に大の字で寝転んでいた比良利はそれができずにいる。息が上がって、とても反論する余裕などなかったのだ。


(化け物め)


 汗一つ流さず、手合わせを終えた惣七を一瞥し、比良利は心中で毒づく。

 そりゃあ、自分も妖なので化け物の類なのだろうけれど、それを踏まえても相手は化け物の中の化け物だ。普通、動いたら汗を掻くなり、息を上がらせるなりするものなのに……惣七は涼しい顔で立っている。

 とはいえ、そんな彼も来斬相手になると、息が上がるのだから、態度で比良利は眼中にないと伝えてきている。腹立たしいものだ。こちとら、必死で喰らいついているというのに。これと何かする度に敗北を味わうのだから嫌になってくる。


「お前は動きが単調なんだ。もう少し、工夫したらどうだ?」


「戯け。正面突破こそ華じゃろうが」


 ようやっと悪態をつくことができたが、自分は今、うそをついた。正面突破こそ華、ではなく正面突破しかできないのだ。

 単調な動きしかできないのも、惣七が先の先を読んでくるので、奇策が練れない。それを知っているのか知らないのか、惣七が追い撃ちをかける。


「それで神主出仕は少々名折れだな。名が挙がるのは、助兵衛のことばかり。もう少し、鍛錬に集中したらどうだ」


 腹の奥底が熱くなった。

 惣七が比良利の何を知っているというのだ。

 鍛錬に集中? そんなの、とうの昔からしている。しているのだ。それでも、追いつけないのだ。


「才溢れたお主に、何が分かると言うのじゃ」


 勢いよく立ち上がる比良利が睨みを飛ばすも、惣七はすまし顔で肩を竦めてくるばかり。

 頭が怒りで煮えそうだ。もう少しで、両の手が彼を掴んでしまいそうである。


「おらおら。そこまでだ。お前ら、また喧嘩かよ。飽きないな」


 来斬が苦笑いで仲裁に入る。

 彼は比良利と惣七の頭を鷲掴みにすると、「対なんだからもっとお互いのことを見ろ」と、言って半ば強引に終止符を打たせた。


「比良利。お前は惣七相手になると、感情的になりがちだ。そこをもう少し直せ。俺とやる時は、もっと冷静に手合わせをしているだろう? なあに、努力は認めているさ。七日前に比べて、相手を読む動きが良くなっている。寝る間も惜しんで鍛錬しているんだな」


 ぐりぐり。来斬が比良利の短い髪を撫で回した。その手つきは幼子をなだめるものであった。


「そんで惣七。お前も比良利相手になると、感情的になりがちだ。手合わせなのに、なんで相手を締め上げる勢いで伸しているんだ。この手合わせは互いに高め合うものであって、相手の才を蔑むものじゃあないだろ。まあ、見たところ? お前さんも余裕はなさそうだがな」


 ぐりぐり。来斬が惣七の短い髪を撫で回した。やはり、幼子をなだめる手つきであった。

 二人が痛いと悲鳴を上げたところで、来斬が双方の頭を掴み直して、ごっつんこさせる。

 目から火花を出した比良利と惣七は、その場にしゃがんで額を押さえた。


「どうだ? 少しは頭が冷えたか?」


「冷えたどころか、痛みで頭の中が爆ぜそうじゃ」

「なぜ俺まで、こんな目に。比良利、貴様のせいで」


「はあ? わしのどこに非があると言うのじゃ。元々といえば、お主が喧嘩を売ってきたからじゃろう」

「俺がいつ喧嘩を売ったというのだ」


「ほっほう。かの鬼才は相手の動きを読めても、気持ちは読めぬようじゃのう!」

「どういう意味だ。比良利っ」


 互いに白張を掴み合ったところで、来斬の勢いある拳骨が脳天に落ちてくる。危うく舌を噛みそうになった。


「ったく。対のくせに犬猿の仲ってのも面倒くせぇな。お前ら、魂の双子だろうが」


「これの双子なんぞ冗談ではないわ!」

「助兵衛しか興味がない狐と、魂の双子になった俺の身にもなれ!」

「堅物め。それでは民もついてこぬわ!」

「おなごの胸や尻ばかりに目を配らせるお前に、ついて来る民がいるとでも?」


「……お前ら、三度の飯より喧嘩かよ。じつは仲が良いだろ」


 何度殴られても、言い合いになる比良利と惣七に、来斬の方がを上げる。これが毎日行われているのだから、まこと二人は仲が良いのか悪いのか。

 そこで来斬は二人を飲みに誘った。こういう時は酒の力を借りて、まるくおさめるべきだと考えたのである。

 提案に比良利も惣七も嫌がった。なぜ、修行以外の時間も、これと顔を突き合わせなければならないのか! というのが二人の主張である。


 しかし。

 腕のある来斬が嫌なら、自分から勝利をもぎとれ、と脅してきたので、しぶしぶ承諾する他ない。比良利は勿論、惣七も来斬に勝ちを取ったことはなかった。


「あっ! 比良利さま!」


 行集殿から出ると、比良利を待つ者がいた。幼い化け狸の子どもであった。顔見知りの子どもであった。

 子どもは比良利に駆け寄ると、自分の前でくるっと回って比良利の姿に化けて見せる。


「ぼく、やっと化けられるようになったんだ! 比良利さまが一緒に練習してくれたおかげで、みんなから馬鹿にされなくなったんだ! それどころか、誰よりも上手くなったんだよ!」


 この子どもは仲間の化け狸の子どもらから、化けられない狸として馬鹿にされていた。たまたま通りかかった比良利が、それを目にし、思い悩む子どもに声を掛けて一緒に練習をしていたのだが、とうとう化けられるようになったらしい。

 元の姿に戻った化け狸は、嬉しそうに飛び跳ねて、比良利の手を握った。


「これも比良利さまのおかげだよ。ありがとう」


 比良利は頬を緩め、その場で膝をついた。


「お主の努力が導いた結果じゃ。わしは何もしておらぬよ」


「そんなことないよ。ぼく、化ける才がないと、ずっと思い込んでいたんだ。でも、比良利さまが大丈夫って励ましてくれたから、できるって言ってくれたから、ぼくはできるようになった。やっぱり比良利さまのおかげだよ」


 思い悩む己の気持ちを、誰よりも比良利が理解してくれた。そして、できると信じてくれた。だから、自分は化ける力を得られたのだ。

 大喜びする化け狸の子どもが、今度はみんなに教えてあげて、と言って後ろを振り返る。視線を投げれば、大勢の化け狸の子どもが集まっている。


「比良利さま、行こう」

「こ、これ。わしは今から……仕方が無いのう」


 比良利は早々に観念すると、化け狸の子どもに手を引かれるがまま、集まりの中に飛び込んだ。


 それを眺めていた来斬は、隣を一瞥すると、軽く口笛を吹く。


「比良利の奴。武の才はお前よりもねえけど、あいつから学べるところは多々あるんじゃねえか? 子どもほど純粋な生き物はいねえ。心の底から慕われている姿は、まこと神主の才があると俺は思うけどな」


 苦い顔をしている惣七は呟いた。


「比良利といると、敗北ばかり味わう。嫌になるよ」

「はは。たぶん、それは比良利も同じじゃねーの? お前の才溢れたところに、嫉妬丸出しじゃねえか」

「才はあっても俺は相手の心が読めない。理解ができない……あいつが言った通り、俺は相手の動きを読むことしかできない」


 なのに。

 比良利は容易く相手の心を読んで、どうにかしようと奔走する。それが羨ましくもあり、憧れでもあり、嫉妬の対象でもある。

 惣七が吐露すると、来斬が軽く背中を叩いた。


「足りないところは補え。対ってのはそんなもんだろうが。でぇじょうぶ、お前と比良利は歴代一の双子の対になる。俺はそう信じているよ」



 子どもらから解放された比良利は、来斬に引き連れられ、惣七と表社を訪れた。

 社殿の裏に花咲く細い桜を肴に酒を嗜もうという魂胆らしい。木の根もとに座る惣七とは対照的に、比良利と来斬は桜の枝に腰掛けて酒をあおった。細い枝は折れるかと思ったが、思いの外、丈夫であった。

 ツツジの甘酒を好む比良利に対し、惣七は紅葉の辛酒を口にしている。何もかも正反対のものを好むと思った。


「桜と酒と満月。いいねえ。風情だねえ」


 来斬が上機嫌に酒をあおる。

 甘酒も辛酒も好む彼は、今日は日本酒の気分だと言って、徳利とっくりから豪快に酒をあおっていた。


「惣七。お前も上に来たらどうだ? そこじゃ顔を合わせて話せねーだろ」

「ここで良い。地上の方が静かだ」


 露骨な嫌味だ。比良利は眉をつり上げた。


「なら比良利。俺達が下りるか。せっかくの酒なんだ。やっぱ一緒に飲まねーとな」

「わしはここで良い。地上で飲めば酒がまずくなる」


 惣七と目が合う。小さな火花が散ったところで、来斬が一つ頷いた。


「うし。地上に行くか。上に引っ張り上げるより、突き落とす方が楽だしな。惣七、今からそっちに行く」


「なっ。来斬、わしはここがっ、落ちる!」


 背後から容赦なく突き落としてくる来斬のせいで、比良利は真っ逆さまに落ちた。しかも惣七の上に。衝撃で体に痛みは走るわ、酒はこぼれるわ、惣七には睨まれるわ……散々である。


「比良利。貴様、皮を剥がされたくなければ早くおりろ」


「わしとて、落ちたくてお主の上に落ちたわけではないわ」


「酒がこぼれたではないか。どうしてくれる」

「それもわしのせいではないわ! ええい、このまま上に乗り続けてくれる。お主の上は眺めも気分も良いのう!」

「な、何をっ! ええい、比良利、俺が上に乗る! 退け!」


「嫌じゃ!」

「どけ!」


「嫌じゃ!」

「どけ!」


「嫌と言ったら嫌じゃ!」

「どけと言ったらどけ!」


 揉み合う二人に、来斬が呆れた顔を見せる。


「俺は確かにお互いを見ろ、とさっき言ったが……そんな距離で見つめ合う必要はないと思うぜ?」


「誰のせいじゃと思っておる!」

「お前から皮を剥がしてやろうか、来斬!」


「仲良しだな。お前ら」


 声を上げて笑う来斬は軽々と比良利を持ち上げると、下敷きになっている惣七を引っ張り上げ、無理やり二人を座らせる。

 そして。その間に己の身を割り込ませ、来斬も共に座った。こぼれた甘酒、辛酒の代わりに、日本酒を分け与え、三人でそれをあおる。

 ほろ酔いになったところで、来斬が期待を胸に語り始める。


「お前らが神主になる日を楽しみしているぜ。比良利、惣七、お前らが統べる南北の地はきっと、今まで以上に素晴らしい安寧秩序をもたらしてくれるはずだ」


 才の有無は各々あるだろう。

 されど、お互いに足りないところ補い、高め合い、必ずや今以上の平和をもたらしてくれる。来斬はそれを強く信じていると言う。


「他愛もないことで笑って、喧嘩して、酒を飲める日常を俺らにもたらしてくれよな。力になれることは、いくらでも手を貸すからさ」


 彼は比良利と惣七の脇を小突くと、一方的な口約束を結んだ。

 今宵のような時間を百年後も、二百年後も作っていこう。また桜を眺めながら、酒を飲み交わそう、と。


「百年も経てば、この細い桜も立派な桜になる。それを見守っていこうぜ。お前らがお互いに酒を飲み交わす、良い口実にもなるしな」


 嫌々な顔を作る二人に噴き出し、来斬は口約束を繰り返した。百年後も、二百年後もこの桜の下で、三人和気あいあいと酒を飲み交わそう、と。



――なのに。



 桜の花びらが木の器に浮かぶ。

 それを目にした比良利は、ふっと我に返ると、泣き笑いを零す。


「あれから百年と五十年余り……ひとりとなってしまったのう」


 九十九年前、天城惣七は来斬の策によって命を落とした。最後の最期まで生きる足掻きをしてほしかったのに、彼は命と引き換えに瘴気を御魂に封じる選択を取った。

 口約束を結んできた来斬は、比良利と対峙し、最期はこの手で討ち取った。友だと信じていたのにも関わらず、こんな終わりを迎えると誰が想像していただろうか。


 比良利はひとりとなった。

 修行時代から共に過ごしていた友を、対を失い、一方的に結ばれた約束も果たせずにいる。


 比良利は来斬を討ち取ったことに悔いはない。


 けれど味が良いわけでもない。

 いつだって、彼や対を思い出すと、取り残された気分になる。なぜ、自分だけ残されているのだろう。


(惣七、来斬。わしは、いつまでも、この関係が続くと信じておった。そう思っておったわしは愚かじゃろうか)


 いつも見送る側だった。

 命を散らしていった惣七も、討ち取った来斬の最期もすべて、比良利は見送った。なんて心苦しく、つらく、わびしい。

 みな、残される者の気持ちを考えてくれない。


(桜は出逢いと別れ、両方の意味合いを持っておる。今宵、感傷的になっているのは……別れを思い出すのは桜のせいやもしれぬのう)


 比良利はゆるりと桜を見つめる。

 花びらを散らすそれに想いをのせた。ああ、今度はどうか、見送られる側に回れますように。贅沢を言えるのなら、花吹雪の下で、見送られますように。比良利はつよく願った。


「わっ!」


 突然の大声に、比良利は度肝を抜く。

 木の器を胡坐の上に落としてしまったが、それよりも、目の前の妖が気になった。


「それ、ツツジの甘酒? 花見をしながら飲んでいるなら、声を掛けてくれよ」


 ニッと笑ってくる、若い白狐が一匹。

 比良利の前でしゃがむ彼は、己の新たな対だ。

 ここで何をしているのだ。尋ねると、翔が地上を指さした。


「桜を見に来たら、雪之介と天馬がそこで花見をしていたから、一緒に桜を見てたんだ。んで、比良利さんを見つけたから声を掛けたんだけど……どうしたの? なんか、比良利さん、暗くないか?」


 何か遭ったのか。

 真摯に心配してくる翔を見つめ、見つめて、比良利は笑声を零す。悲観的になっていた己が恥ずかしく思えてきた。確かに自分はひとりになった。あの頃の二人はもういない。けれど。

 翔の頭を鷲掴みにするや、ぐりぐりと押してやる。


「あいたたたっ! な、なんだよ。比良利さん。痛いんだけど!」


「翔よ。ツツジの甘酒が足りぬ。買ってまいれ。ついでに器も持ってまいれ。飲もうぞ。今宵の桜はたいそう美しい」

「そ、それはいいけど。俺が買ってくるの? それ、もう入ってないの?」


 徳利とっくりを指さす翔に、空っぽだと笑ってやる。

 四の五の言わず、さっさと買って来い、と命じれば、「パシリかよ」と白狐はぶつくさ文句を垂れながら、屋根から飛び下りた。

 そんな彼に銭の入った巾着袋を投げつけ、「お主の好きな甘酒も買って良い」と告げる。

 すると、翔は二本指を立てた。


「なら、ツツジの甘酒が二本になるよ。俺もツツジの甘酒が大好きなんだから」


 相変わらず、己の好みを真似する狐である。否、翔と比良利の嗜好は似ているのだろう。

 比良利は桜に視線を戻すと、慈しむようにそれを見つめた。


「別れもあれば、出逢いもある。わしはすっかり、出逢った対のことを忘れておったよ。惣七、来斬」


 ツツジの甘酒を買ってきた翔が、屋根に飛び乗ってくる。

 比良利の木の器に酒を注いだ後、自分の分をいそいそと注ごうとするので、徳利とっくりを取り上げた。

 「あ」声をもらす翔の木の器に酒を注いでやると、白狐は嬉しそうにありがとう、と言った。


「桜、綺麗だね」

「そうじゃのう」

「比良利さんは散る桜と、満開の桜どっちが好き?」

「む?」


「さっき、雪之介と天馬に聞かれたんだ。散る桜の方が綺麗だから好き、とか、満開の桜の方が綺麗だから好きとか話していたみたいでさ。ちなみに俺は欲張りだから、どっちも好きなんだ」


 噴き出してしまう。理想に貪欲な白狐らしい答えである。


「わしは……気分によって変わるのう。ある時は散る姿が好きじゃが、ある時は満開の方が好きじゃ」


「今は?」

「お主のおかげさまで、満開が好きじゃのう」

「俺ぇ? なんで」

「なんでじゃろうのう」

「ええ? 気になるんだけど。言ってよ。なあなあ」


 翔が顔を覗き込んできた。

 しつこさに定評のある白狐なので、耳がタコになるまで理由を尋ねてくるだろうが、比良利は素知らぬ顔で酒をあおり続ける。



(わしはもう、ひとりではない。三尾の妖狐、白狐の南条翔が、新たな対がおる)



 いつかの約束は破れてしまったが、比良利は語り続けたい。この桜と、出逢いと別れの思い出を。

 あの頃の関係はもうここにはないけれど、新たな関係が大きく花開いている。



 だから、今は満開の桜の方が好きだ。



 (終)


それでも、心のどこかで、見送られる側に立ちたいと切に願っている。

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