零れ月夜と日月の神主
比良利と翔の、ちょっとした日月の神主話(本編にも掲載中)。
四代目北の神主、六尾の妖狐、赤狐の比良利は読んでいた古書物を閉じて小さな嘆息をつく。
神職は日々勉学し、一妖達のために精進しなければならない。そのために古書物を引っ張り出して勉学に勤しんでいたのだが、何故だろう、今宵は思うように捗らない。
疲労しているのだろうか? そういう時は休息を取るべきだろう。煮詰まったように書物と対向しても時間を無駄にするだけなのだから。
行灯の蝋燭をそのままに、重い腰を挙げて文殿を退室。縁側に腰を掛け、夜の空気を吸う。
愛用している煙管を懐から取り出すと、煙草を詰めるためにそれを入れている薬包紙を取り出す。
先端に葉を詰めて火を点すと、ようやく一服。疲労を吐き出すように紫煙を吹く。
苦々しい煙草の味を噛みしめながら、つくねんと夜風に吹かれていた比良利は二度目の嘆息を零す。
どうも調子が出ない。
何故だろうか。勉学は自分の十八番だというのに。
(そうしなければ惣七に追いつけないと思っておったからのう。あやつの鬼才を認めたくないがゆえに、無我夢中で学んだものよ)
しかし、どう足掻こうが自分は凡の妖狐だと思い知ることになる。
かつての対は自分が得る力を、三倍も速く会得してものにしていたのだから立場がなかったもの。
努力する自分の要領の悪さに、彼から幾度も嫌味や皮肉を浴びせられたものだ。腹立たしいことに、対はその努力する自分を素直に認めてくていた。鬼才を認めたくない自分とは対照的に。器の大きさを見せつけられたようで、自分は何度神主の職を投げ出そうとしたか。
もしも今、九代目南の神主が生きていていたなら、どのような妖の地を築き上げていたのだろう。鬼才が生み出す安寧な地をこれからも目にしてみたかったものだ。
嗚呼、対を失い、百年の節目を迎える今日。
きっと彼を知る民達も鬼才の先導する勇姿をいつまでも見ていたかったに違いない。
紫煙を吐き出す。白い靄が空気に溶けて瞬く間に消えていく。
儚い気持ちを抱いてしまうのは何故だろう。
(惣七のことで憂いを抱くとは。わしらしくもない)
片隅でいつも思っている。
彼と、もう少し真面目に妖達の望む未来について語っておけばよかった。
惣七のことで思い出すことと言えばくだらない喧嘩ばかり。
鬼才の思い描く未来を聞いておけば、少しは今の現状改善の参考になったのではないか、と。
三日月を見上げながら三度目の嘆息を零す。今夜は気分が落ち込む日なのかもしれない。
「おっはようございまーす!」
静寂を切り裂く活きの良い声に比良利は紫煙を呑み込みそうになった。
気管に煙が入り、盛大に咽てしまう。
生理的な涙を浮かべながら視線を流すと、「お疲れ様です。比良利さま」満面の笑みを浮かべて廊下を歩いて来る一匹の若い妖狐。比良利と同じ浄衣を身に纏う少年は、新しい自分の対だ。
名は十代目南の神主出仕、三尾の妖狐、白狐の南条翔。神主見習いとして本就任の準備の真っ最中である。
「もう少し静かに声を掛けることはできないものかのう」
驚いたではないか。文句垂れる比良利に、「いつもの声の大きさでしたよ」と翔。
悪びれた様子もなく比良利の隣に腰を下ろし、手に持っていたビニール袋を側らに置く。
「紀緒殿に所在を尋ねたところ、文殿にいらっしゃるとのことでしたので」
片言に敬語を使う彼はまだ言葉遣い慣れていないのだろう。
正しい表現になっているのか、と悩む素振りを見せている。
そのため、比良利が砕けた言葉で翔に話し掛けることにした。
それにより、彼も砕けた言動で振る舞って良いのだと肩の力を抜く。
早速胡坐を掻く少年に苦笑しつつ、比良利は用事を尋ねる。今日は自分の下で学びをする日ではなかった筈なのだが。
そう問うと、個人的に話したくなったのだと一笑。つまるところ遊びに来たという。
「比良利さんが忙しいのは分かっているんだけど……ちょっとだけでも時間を作ってもらおうと思って」
悩み事でもあるのだろうか?
憂慮を向けると、「あり過ぎて困るよ!」翔は指を折り、神主就任のことや、先導者になる不安。人間の世界と妖の世界での生活。人と妖の関係。そして妖達の幸せ。考えれば考えるほど悩みは湧き水のように出てくると少年はもろ手を挙げ、おどけを口にした。
だから比良利のところに来たのだと翔は目じりを下げる。対のところに来れば、きっとそういう悩みなどどうとでもなる。そんな気がしたのだと頬を崩す。
どうとでも。
目を丸くする比良利に、翔は言葉を重ねた。
「俺ひとりで妖達を統治していくわけでも、守っていくわけでもない。そういうのって、みんなでそれを築き上げるものじゃん? ……馬鹿な悩みを持っていたら、比良利さんが叱り飛ばしてくれそうだからさ。大切なことを見落としたら、すぐ指摘してくれるだろうし」
自分も早くそういう対になりたいものだと微苦笑する翔だが、彼は気付いていないだろう。既に彼が先輩である自分に指摘をしていることを。
まったくの天然であるが、翔は比良利に教えてくれている。惣七が生きていることを仮定して想像した未来、それは鬼才であろうと一人でなしえていることではない。皆で築き上げているものだと。先導者が優れていようと、独り善がりな道を選べば民は背を向くだろう。
疲労のあまり簡単なことすら忘れていたようだ。
また、百年片割れを失っていたために忘れていたようだ。日月の神主の在り方を。
比良利は考えを改め、再び惣七が生きていることを仮定した未来を想像する。
彼の長けた才、己の凡才を持って、皆ときっと良き地にしようと努めるのだろう。口論を交えながら。
今は亡き惣七。これからは彼に代わる十代目と、皆で良き地にしなければ。彼もそれを望んでいるに違いない。
自然と笑みが零れてしまう。
翔の頭に手を置き、「翔はまぎれもなくわしの対じゃのう」大切なことを見落としていた自分を指摘してくれた彼に微笑む。
言っている意味が分からないのだろう。彼は首を傾げている。三尾の先端まで首と同じ方向に曲がっているのだからおかしいものだ。
(わしは惣七のことを思い出すことで侘しさを噛みしめていたのじゃな。どのように腹立たしい存在であれ片割れを喪うことは寂しいこと)
百年の月日を経て、再び手にした己の対。若すぎる彼の白髪をくしゃくしゃにしてやり、「不安のない者などおらぬよ」自分も常に不安を抱えて生きている。けれどその都度、誰かが自分を支えてくれた。優しくしてくれた。愛してくれた。それを忘れてはならないと翔に諭す。
もちろん、それは自分にも言えることだ。口が裂けても少年には言えないが。
ぶるっとかぶりを振り、翔は大きく頷いてはにかむ。
「早く比良利さんの隣に立てるよう頑張るよ。皆に支えられているんだ。壁にぶち当たってもどうにかなるよ」
本当にそうだ。きっとどうにかなる。
理想に欲深い対や皆と共に、これから未来を築き上げていくのだ。
どんな障害があらわれても乗り越えていけるだろう。そんな気がする。
比良利は今宵の勉学を打ち切りにする決心をした。
こんなにも気分が良いのに、書物と向き合うなんて勿体ない。交流もまた学び、今宵は対となる少年と向き合うのも良いだろう。
「ぼん。わしの部屋に行こう。今宵ほど酒が美味い日はなかろう。折角じゃ、付き合ってくれるじゃろ?」
煙管に詰めていた煙草を捨てると、ゆるりと腰を上げて彼を部屋に誘う。
「え。いいの?」
期待のこもった眼を向ける少年は、実は比良利に土産があるのだとビニール袋を持って中身を見せる。
「手ぶらで来るのは悪いかなっと思って色々買って来たんだ。えーっと油揚げだろ、ポテトチップスだろ、スルメだろ、油揚げだろ、ピーナッツだろ……あっれ、また油揚げに油揚げ。俺、どんだけ油揚げを買ったんだろ」
とにかく沢山の土産を買ってきたのだと意気揚々に語る少年の気遣いに笑声を漏らし、比良利は若い対を従えて廊下を歩く。
小走りで後を追い駆けて来る翔は、今夜はどのようなお酒を飲ませてくれるのだと子供のようにはしゃぐ。
「この前は金柑の甘酒だっただろ。その前はサトウキビ酒、あれもなかなか美味しかったなぁ。今日は何だろう。楽しみだなぁ。すぐ酔い潰れちまうけど、お酒は好きなんだよな。甘いの限定で」
本当にまだまだ子供な少年。
それでも彼は紛れもない自分の新たな対であり、共に愛する妖を先導する妖狐。若すぎるがゆえに担う職は鉛のように重いだろう。
けれど自分以上に知識を吸収して、すぐに追いついて来るに違いない。惜しみなく自分を尊敬してくれる少年の成長が楽しみだ。
嗚呼、気付けば疲労が吹き飛んでいる。
対と会うことで、小さな疲労などどうでもよくなったに違いない。
「翔よ。今宵はツツジの甘酒を開けようかのう。主とわしの大好物を片手に談笑するのも良かろう」
比良利は持ち前の紅髪を靡かせ、小さなちいさな対に向かって神主語りをしようと微笑んだ。
百年、片割れを失っていた比良利にとってこれは今、一番必要な時間なのだ――。
(終)
片割れを失い約百年、比良利の中に眠っていた日月の神主の時間がようやく動き出す。
そんなお話でした。翔は若く未熟な妖狐ですが、子供だからこそ比良利に教えられることがあるのです。常に翔に教える側の比良利もそうやって、翔に教えられることによってまたひとつ成長すると思います。
先代とは喧嘩友でしたが(好敵手ともいう)、翔とは兄弟分として比良利は上手くやっていくことでしょう。




