狐者異のおかし
狐者異のおかし。
とある妖が洋菓子店に棲みついた、というお話。
その人間、和泉朔夜と楢崎飛鳥はいびつな妖を祓う霊能者である。
奇々怪々な化け物らが起こす怪異や、それに関係する騒動を解決したり、悪意ある化け物を調伏することを専門としている。ゆえに化け物らから恐れられたり、時に化け物らと対峙することが稀によくある霊能者で、他の霊能者と比較すると、危険なお役を任されている人間である。
はてさて。
そんな霊能者のこと、妖祓の二人はひとりの人間から妖のことで相談を受けていた。
まだまだ新米ではあるが、これでも妖を専門職としている一介の祓い屋。人間が怪異で悩んでいたら、快く相談を受けている。
今宵は経験を積むことも兼ねて、妖祓長の判断の下、相談に赴いた人間の悩みを解決するよう任されたのだが……。
「妖怪がお菓子を作りたそうにしている?」
その悩みはちょっとばかり変わった相談事だった。
◆ ◆
「洋菓子店『ポンム ヴェルフトゥ』……?」
三尾の妖狐、白狐の南条翔はその日、真っ昼間からヒト賑わう喫茶店に呼び出されていた。
妖狐は夜行性なので昼間は寝ている時間帯なのだが、幼馴染であり敵対関係でもある妖祓の朔夜、飛鳥に相談があると言われて、喫茶店を訪れている。
敵対関係になってしまっても、今も翔の根っこは幼馴染大好き人間なので『相談がある』と言われたら、寝る時間も惜しんで二人の下に行ってしまう。もちろん、翔は南の神主であり妖の頭領でもあるので、妖祓と会う時はみなに内緒だ。ばれたら口やかましく言われてしまう。まあ、みな見て見ぬを振りしてくれているだけで、大体ばれていると思うが。
閑話休題、翔は朔夜から名刺を受け取って、そこに記載されている店名を読み上げた。
洋菓子店『ポンム ヴェルフトゥ』とは、なんとも洒落た名前である。反面、読みにくいカタカナの名前だな、と思ったのは秘密である。響き的に英語ではなさそうだが。
首を傾げながら名刺を裏返す。小さいながら地図が描かれていた。
「隣町にあるのか。バスを使わないと、ちと遠いな。此処に行きたいのか?」
「ショウに行ってほしいんだよ」
「俺にぃ? なんだよ、ケーキでも買ってきてほしいのか?」
パシらせるために呼び出したのか?
おどけ口調で笑えば、隣で遠い目を作りながらミルクティーを飲んでいた飛鳥が返事した。
「ショウくんに説得してほしいの。私達じゃ怖がられちゃって」
「説得? ……最初から説明してくれるか? 全然話が見えねえんだけど」
口をへの字に曲げる翔の頭から、狐の耳がにょきっと生える。
それがぺたりと下がっているのだが、当の本人は気づいていない。
「じつは三日前にこの店の店主から相談があったんだ。お店に化け物が棲みついたって」
「化け物? 妖が棲みついたのか?」
「うん。そこの店主は少しだけ幽霊や妖が視える人間なんだけど、気の良い人で化け物が棲みついても、まあ悪さをしなければ良いな、って思ったらしいんだ」
ほうほう。良い人間じゃないか。
翔は自分のことのように嬉しくなる。
人間は普通、自宅や店に化け物が棲みついたら「怖い、家が不幸になるから祓ってほしい!」と思うのが世の常。それを悪いとは思わないし、当然な感情だと思う。翔とて理解はしている。
ただその感情を通り越して、まあいいや、大丈夫だろうと思ってくれる人間がいると、翔としては嬉しくなる。翔には妖と人間の架け橋になりたい夢があるので、そういう人間がいるとついつい心が踊ってしまうのだ。
「化け物が棲みついたことで何か遭ったのか?」
「夜中にこっそり調理器具や材料を触るようになったらしくて」
「あちゃあ。調理器具って、店にとって大事なもんだろ? 営業妨害してるのか?」
「ううん。朝になると元の位置に戻っているし、使った材料はごめんなさいの意味を込めて、カウンターに綺麗なお花が置いてあるらしいんだ。それが毎日続くものだから、店主は思ったらしいんだ。棲みついた化け物はお菓子を作りたいんじゃないかって」
「お菓子を?」
「店主曰く、最初はお菓子が食べたいんじゃないかと思って、クッキーやマフィンを調理場に置いていたらしいんだけど。妖はそれを食べず、冷蔵庫に余った生クリームをつけたり、仕込み用のジャムを塗っている形跡があったらしいの。不格好だけどマフィンをケーキみたいにクリームを塗ったり、クッキーにジャムをつけてお花にしようと見立てたり……」
一生懸命に塗っている形跡が見受けられたので、店主は思ったそうだ。
此処に棲みついた化け物はお菓子を作ってみたいんじゃないか、と。
そこで店主は張り切って、化け物用に調理器具や材料を買い揃えて、簡単なお菓子のレシピを調理場に添えたそうだが、上手く意思疎通ができず、化け物は全然それに手をつけてくれない。お菓子を作りたい気持ちは伝わってくるのに。
真夜中に調理場で待機しても、ちっとも化け物が姿を現してくれないので、妖祓に相談を持ち掛けたそうだ。
「へえ。妖祓って、そういう相談も聞くんだな」
「一応、妖を専門職にしているからね」
「うーん。話を聞いている限り、店主は妖に友好的だから姿を現しても良さそうだけど」
「店主の霊力は、私たち妖祓と比較してもすごく小さくて、本当に時々妖が視えるか視えないか。なんとなく気配を感じる程度なの。だから見つけられなかったんじゃないかな」
だから店主は妖祓に相談し、引き受けた飛鳥と朔夜は早速『ポンム ヴェルフトゥ』に赴いたのだが……。
「調理場に入った瞬間、揃って小麦粉をまみれにされたんだよね。私と朔夜くん。どうも、祓われると怯えちゃったみたいで……」
「あー……まあ、妖祓が調理場に来たら、そりゃあ」
死に物狂いで逃げるだろう。容易に想像がつく。
「どんなに大丈夫だよ。祓わないよって言っても、全然出てこないし、逃げ回るし、調理場に置いてある粉という粉をまき散らすものだから、その日は切り上げてきたの。ホントあの日は掃除が大変だったよ」
苦い顔をする飛鳥の隣で、朔夜が疲労を交えたため息をつく。
「妖祓が来たことで、向こうは警戒心を抱いてしまったようでね。店のどこかに身を隠してしまったようなんだ。無理やり引きずり出すことは可能だけど、さすがに気が引ける。今回の依頼は調伏目的じゃない。妖にお菓子を作らせることなんだから」
「だから俺に相談を持ちかけてきたってことか」
「そういうこと。僕らじゃ、ろくすっぽう話を聞いてくれない。だったら妖を取りまとめる頭領に出て来てもらおうって思ってね。お前が出れば、少しは妖も話を聞いてくれると思ったんだ」
なるほど、ね。
翔は目の前のカフェオレを飲み干すと、名刺を財布に仕舞って席を立った。
「洋菓子店『ポンム ヴェルフトゥ』の店主に連絡を入れてもらえるか。明日の真夜中に邪魔するって。この件は妖祓より、妖が出た方が解決するだろうからな」
「助かるよ。僕らは持ち前の霊気のせいで、店に近づくだけで逃げられてしまうから。最悪、粉を撒かれてしまうよ」
「粉まみれにされるお前らを、ちょっと見てみたいけどな」
「勘弁しろって。ほんとに掃除が大変だったんだから」
そういえば。
「店に棲みついた妖の正体は分かってるのか?」
問うと、朔夜が一つ頷いた。
「狐者異という妖だ」
◆ ◆
狐者異。
それは生前、他人の金品を奪い、他人のものをより食らった執着心の強い者が死後に変化して化け物になった者を指すそうだ。どのような姿かはその都度、変化した姿によって変わるそうだが、あまり評判の良い妖ではないようで、いびつな化け物になってもなお、他人のものを奪ってしまう傾向があるという。
アパートに帰宅した翔はさっそく物知りおばばに、狐者異について聞いてみた。
やはり評判は良くないようで、名前を聞くや、白いひげがさがってしまった。
『狐者異はね。妖の内でも、好かれている化け物じゃあない。それは有無言わせず、他人のものを奪ってしまうせいだ。盗みをすることも多くて、この地でも何匹かの狐者異が窃盗をして、比良利に折檻されている。ああ、さすがに命を取るようなことはしていないよ。ちょいと牢で過ごす罰を受けただけだ』
「あんま素行が良くない妖なんだな」
『妖になった経緯を考えると、どうしても奪わずにはいられないんだろうねぇ。坊やが狐の本能を抑えられないことがあったように、狐者異も抑えられないんだと思うねぇ』
ゆえに嫌われるようなことをしてしまうのだろう、とおばば。
狐者異の素行については度々神職内でも問題に挙げられており、その都度対策を講じているとのこと。
たとえば、本能となっている執着心の強さを抑えさせてやろうと、いろんな妖と交流させたり、神職の下で奉仕をさせたり。それで一時的に抑えられることも多いが、ふとしたことで執着心の強さが爆ぜてしまうこともあるという。
『執着心は心を曲げてしまうことが多い。狐者異の心も、ちょっとしたことで曲がってしまうんだろうねぇ』
翔は狐者異の気持ちがなんとなく分かってしまう。
翔自身も幼馴染に執着していた時期があった。そのせいで、間違いだと分かっていても、己を抑えられずに行動を起こしてしまうことが多々あった。
分かっていても、抑えられない――その気持ちは痛いほど分かる。
『狐者異は店の物を盗んでいるのかえ?』
「うんにゃ。店の物を触っているだけで、盗んでいるわけじゃないみたいなんだ。使った後はちゃんと元の位置に戻しているらしいし……店主はお菓子を作りたいんじゃないかと思って、調理器具や材料を揃えたあげたらしいんだけど、それに手をつけることが無かったらしくて」
『妖祓に相談したわけかい』
「ただ、妖祓は妖にとって怖い存在だから、あいつらが調理場に入っただけで粉を撒き散らして逃げちまったらしいんだ」
『まあ、そうなるだろうねぇ』
「だから俺に相談が回ってきたわけ。悪い奴じゃなさそうなんだけど」
『そうさねぇ。聞く限り、物を盗んでもないし、店に迷惑を掛けているわけでもない……本人から直接事情を聞いた方が良さそうだねぇ』
あわよくば、洋菓子店『ポンム ヴェルフトゥ』の店主と上手くいってほしいもの。
化け物に友好的な人間なのだから、狐者異が心を開けば、双方の距離は縮まるだろうとおばば。翔も同意見なので、さっそく事を神職らに話して、明日の夜に店を訪れる予定だ。
(……狐者異か。どんな妖なんだろうな)
会える日が楽しみだ。
◆ ◆
「すごい。とてもすごい。きらきらした異国のお菓子がいっぱいありまする。色鮮やかなお饅頭みたいなものがありますが、これは……ま、まかぁろん……? おいしいのでしょうか」
翌日の真夜中。
翔は青葉と洋菓子店『ポンム ヴェルフトゥ』を訪れていた。
一応妖の頭領として訪れているので浄衣を纏い、妖狐の姿で訪れたのだが、店主は耳や尻尾が視えない人間で、初めましての次に出た言葉は「神社の人間かい?」。
大層首を傾げられた。
三十後半の男性で、名前は松葉瀬といった。ふくよかな体格をしていた。
「連絡は受けていたけど、まさか本当に神職が来るなんて。お前ら、本当に妖怪か? お嬢ちゃんはすっかり、お菓子に夢中のようで微笑ましいよ」
おおらかに笑う松葉瀬はカウンターのショーケースでいつまでも、ケーキを眺める青葉に肩を竦める。
ハッと我に返る青葉は白々しく咳払いをして、すまし顔で戻ってくるが、見事に尾っぽが出ている。ついでに嬉しそうに揺れている。揺れているから。
翔は苦笑いをこぼすと、包み隠さず正体が妖狐であること、妖祓に連絡を受けて此処に来たを話した。
「さっそくですが、狐者異に会いたいので調理場に入っても良いでしょうか」
「ああ。構わないよ。お嬢ちゃんはケーキを食べてから入っても良いんだぞ」
「いえ、その、私は」
赤面する青葉に対し、松葉瀬は優しく言葉を重ねた。
「むしろ、そうしてもらえると嬉しいよ。作ったお菓子を見て食べて喜んでもらえるなんて、パティシエ冥利に尽きるからな。見た目以上にお菓子は労力を要するから」
だからぜひ食べていってほしい、と松葉瀬。
これだけの会話で松葉瀬の懐の深さを垣間見た。
なるほど、だから化け物が店に棲みついても、まあいいか、と思えたのか。この人間は情に篤そうだ。
「じゃあ、後で買って行こう。みんなお菓子は大好きだからな」
ちなみに今回は青葉のみの同伴である。本当はギンコを連れて来たかったのだが、場所が場所である。動物を調理場に入れるのは倫理的にどうかと思い、申し訳ないが留守番をお願いした。
翔や青葉であれば人の姿に化けられるので、遠慮なく調理場に入れる。絶対に変化は解かないようにしなければ。
狐者異に会うため調理場を訪れる。
思いの外、狐者異はすぐに見つかった。妖祓の訪問を警戒して身を隠しているかと思いきや、調理場の大きな冷蔵庫の前でうろうろしていたのだ。探す手間が省けた。
とはいえ、松葉瀬はまったく分かっていないようで「どこにいるんだろうな」と、きょろきょろと目を動かしていた。気配は感じ取れるようだが、姿は視えていないらしい。
狐者異はヒトのようなかたちをしているものの、ざんばら髪で持ち前の目は充血していた。にたりと開ける口の向こうに並ぶ歯はぼろぼろで、すきっ歯が目立つ。
継ぎ接ぎだらけの木綿着物を纏い、冷蔵庫を開けようとしていたので、思わず声を掛けた。
すると、ぎょっと驚いた狐者異は、さっさと冷蔵庫裏に隠れてしまった。
どうやら翔が南の神主だと分かっているようで、ぶるぶると身を震わせている。叱られるとでも思っているのだろうか。翔は冷蔵庫の前に立つと、おいでおいでと手招きをした。
「狐者異。お前の話は聞いているよ。この店に棲みついているんだって? お前がお菓子を作りたいんじゃないかって、人間の店主が調理器具や材料を揃えたらしいんだけど」
お前はお菓子を作りたいのか?
優しく問いかけるも、狐者異はぶるぶると身を震わせて冷蔵庫の裏に隠れるばかり。
べつに叱りに来たわけではないのだが、狐者異は必死に身を隠して、地を這うような低い声を漏らす。どうやら喋れないようだ。相手の言葉は聞き取れるようだが、自ら言葉を発する様子はない。
翔はその場でしゃがみ、狐者異の様子を見守る。
逃げる様子もない。
さすがに頭領を前に逃げるのは不味いと思っているのだろうか。
「そんなに怯えなくても……俺は本当に叱りに来たんじゃないぞ。お前と話しに来ただけなんだ」
「だめか?」
「松葉瀬さん」
翔の隣で膝を折る松葉瀬は、ちっとも姿が視えないと肩を竦めた。
きっとすぐ傍にいるだろうに、視えないとはもどかしいものだ、と言って冷蔵庫の裏を指さした。
「どんな姿をしているんだ。そこにいる化け物って。こわい姿なのか?」
「うーん」
説明に困ってしまう。
身なりを説明するのは簡単だが、下手をすれば悪口になってしまいかねない。ひとことで言えば――不気味な姿、なのだから。
「妖祓から狐者異って化け物が棲みついているって聞いて、一応ネットで調べたんだけど……お前も怖い姿をしているのかな」
その姿すら視えないのはやっぱりもどかしい、と松葉瀬。
「お前が毎晩、調理場でお菓子を作ろうとしている気持ちは伝わっているのに。なんで調理器具や材料を触ろうとしないんだ?」
疑問を投げるが狐者異は、うぇ、うぉ、と地を這うような低い声を漏らすばかり。弱々しい声だった。
「……狐者異は姿を見られることが嫌みたいですよ」
それまで様子を見守っていた青葉が、このようなことを言ってきた。
はて、その意味は? 彼女に問うと、青葉は狐者異をじっと見つめ、見つめて、その目と視線を合わせる。ゆるりと二つ巴が右の手の甲に浮かび上がったので、宝珠の勾玉を使用している様子。巫女はその地に棲む妖の声を聞く力を持っているので、きっと狐者異の声なき声を聞いているのだろう。
やがて二つ巴が消えると、青葉は苦い顔で唸った。
「この狐者異は、自分自身のことが嫌いのようです」
「え」
「自分自身が嫌いだから、他者の持つものを羨ましがってしまうようで」
自分自身が嫌い。
たとえば、この声。どんなに自分なりに綺麗な声を出そうとしても、狐者異がゆえに低い声しか出せない。
たとえば、この身なり。どんなに自分を磨こうとしても、狐者異がゆえに綺麗になれない。
たとえば、この存在。どんなに自分に正しい心を持たせようと、狐者異がゆえに周りから嫌われる。
じぶんはひとりだ。
こんな自分がきらいだ。
どうして狐者異になってしまったのだ。
狐者異になってしまったせいで嫌われる。好かれている妖が羨ましい。その立場がほしい。無理だと分かっているけれど、好かれたい。
狐者異じゃない妖になりたかった。うつくしいと言われている妖が妬ましい。その姿がほしい。無理だと分かっているけれど、みなが羨ましがる美しいになりたい。
きらいだ。死んでしまいたい。消えたい。それも無理だ。自分は化け物だから簡単に死ねない。そもそも消えることがこわい。いやだ。なにもかもがいやだ。きらいだ。きらいだ。きらいだ。
ああ、ほしい。みなの持っているきれいなものが、ただしい心が、すかれるものが、ほしい。
そういう気持ちがあるのだと青葉。
「だから妖の世界ではなく、ヒトの世界でひとり生きていたそうです。みんなの輪に入れないことは分かっているから。そんな時、この店のお菓子に惹かれて棲みついたそうです」
このお店はすごい、狐者異は素直に思ったそうだ。
此処にはうつくしいお菓子がある。おいしいお菓子がある。好かれるお菓子がある。人間がいつも此処に集っている。全部ほしい! と思った。
狐者異はこれを作っている人間に目をつけて、それを盗んでやろうと思ったらしい。
「でも盗めなかった。お菓子作りは狐者異が奪えるようなものではなかった」
じゃあ、どうしよう。
執着心の強い狐者異はお菓子を諦められない。
とりあえず人間の様子を見てみよう。もしかしたら盗める何かがあるかもしれないじゃないか。
毎日のようにお菓子作りを眺めていた。朝も早くから仕込みを始め、夜は遅くまで材料の整理をしている松葉瀬を見守り、奪える機会を窺っていた。
その内、魔法のようにお菓子を作っている、その作業を見ることが好きになった。
へんちくりんな粉や液体を入れて、焼いて、それを膨らませて、おいしい匂いにさせて、やがて綺麗なお菓子にしていく。面白くて面白くて目が離せなくなった。
「やがて自分で作りたくなって、調理器具や材料を触り始めたそうです。ただ、狐者異は自分が嫌いなので、お菓子なんて作っても醜い物を生み出してしまうだけだと思い込んでいるようです」
「だから……松葉瀬さんが用意しても触ろうとしなかったのか」
「はい。きっと怖いんでしょうね」
翔は狐者異に視線を戻す。
ちっとも姿を見せない狐者異は、自分自身が嫌いだと言った。
それまでどのように生きてきたかは分からないが、みなに姿を見せることすら辛い、と思える出来事が沢山あったに違いない。素行が悪いとは聞いていたが、狐者異自身も己の本能に悩み苦しみ傷ついていたのやもしれない。少なくとも目の前の狐者異は傷ついて、こんにちまで過ごしてきたのだろう。
「狐者異。醜い物を作るのが怖いなら、まず俺と一緒に作ろう」
それまで黙って話を聞いていた松葉瀬が、このような提案をしてきた。
一から十を自分でひとりでやるのではなく、最初は誰かとやってみよう。自分だって最初は母親とお菓子作りを始めた。自分ひとりでやろうとはしなかった。
そらあ何もかも初めてなのだ。知らないままお菓子を作っても、失敗する未来しか見えないと松葉瀬。
「まさか、奪われる対象になっているとは思ってなかったけど、そんだけ俺のお菓子が好きになっちまったってことだろう? じゃあ教える。お前は技術を奪え」
これなら正当な盗みだ。
笑う松葉瀬は、「自分に自信がないんだな」と、含んだように呟く。
「自分が嫌いってことは誇るもんがないってことだ。俺もこの体格で、ずいぶん悩んだ。昔は太っていることをからかわれて、いつも体育では笑われる対象で。だから運動会なんて大嫌いだった。中学から高校時代はひどいニキビができて、もっと笑われて。なにひとつ自分を好きになれなかった」
笑われる、ということは見下されているということ。
松葉瀬はいつも見下されていた。太っているから上手く運動ができない。あいつは俺達より下だ。ひどいニキビができてきるからブサイクだ。あいつは俺達より下だ。好かれるなんて絶対にありえない。
そのようなつらい学生時代を過ごしてきた、と松葉瀬。
「だから狐者異の気持ちがすごく分かる。他人が羨ましいさ。妬ましいさ。努力したって手に入らないんだから。根っから見下されているのに、どうして自分を好きになれるんだって。自分自身を好きになれ、なんて軽々しく言われても滑稽な言葉にしか聞こえないんだ……今も俺は俺が嫌いになることがある」
ただ、そんな自分は食べることが好きで、気づいたら自分でお菓子を作っていた。
どうやら天職だったようで、飽きる気持ちはこみ上げてこなかった。
たとえ朝は四時から起きて仕込みをしなければならなくとも、夜は使用した材料の確認のために遅くまで起きておかなければならないことが多くても、やっぱり辞める気にはならない。体力勝負だし、力仕事は多いし、最初は安月給で踏んだり蹴ったりだった。それでも辞めようとは思わなかった。
松葉瀬自身、お菓子に執着していたのかもしれない。
「狐者異。お前が強い執着心を持っているなら、それをお菓子に向けたらいい。そして少しずつ、自分で作れるようになれたらいい。周りには真似できないような、お菓子の技術を教えてやるから」
その技術を盗めるようになったら、それを誇ればいい。
自分自身が嫌いのままでも、ひとつ誇りがあれば、それだけで武器になれると松葉瀬は言う。
「大体、名前が最初から見下しているんだって。化け物ってみんな怖いもんだろ? なのに妖狐とか雪女とか、そういう妖怪達には『こわい』なんて要素の名前が入ってない。狐者異も別の名前にしようぜ」
うーん、そうだな。
松葉瀬はひとつ唸り、軽く手を叩いた。
「おかし。うん良い名前だな。視えないけど、お前は今日からおかしだ」
さあさ、おかし、クッキーを焼くから出ておいで。今から準備をするから。
そう言って松葉瀬はすくりと立ち上がり、冷蔵庫に入っていたクッキーの生地を取り出すと、さっさと麺棒を持って調理台に立つ。
するとどうだ。それまで身を震わせていた狐者異が、ひょっこりと顔を出して、松葉瀬の様子を見守り始めた。
それを見た翔は一つ笑い、狐者異に右手を差し出す。
「こわいなら一緒に人間の下に行くから、もっと近くで松葉瀬さんの作業を見ないか? お菓子を作りたいんだろう? おかし」
狐者異は自分自身が嫌いで、誰にもその姿を見られたくない。
だって醜いから、酷い声だから、好かれていないから。
それでも、狐者異は翔の右手を握った。ほしいと思ったのだろう。松葉瀬の技術が。正当にその技術が盗めるのだ。狐者異は誰にも咎められない。
骨張った手で翔の手を握ると、狐者異は松葉瀬の隣に並んだ。気配で分かったのだろう。型抜きから始めてみようと言って、星形の型を渡した。その目は誰よりも優しかった。
『おかし』と名前を与えられた狐者異は、それからひと月でクッキー作りを会得した。
とても呑み込みが良いらしく、型抜きを使用せず、自分でかたちを考えてクッキーを焼けるようになったとか。その証拠にお世話になったから、と狐者異が翔達に持ってきたクッキーはすごかった。
「すげぇ俺の顔だ」
なんと狐者異は神職らの顔をかたどったクッキーを焼いてきた。
松葉瀬の器用な技術を盗んだようだ。得意げに神職らの顔を焼いた、と笑ってきた。
月輪の社の者達はもちろん、日輪の社の者達の顔も焼いて持ってきたので、それはそれはみな感心していた。
「私のお顔、けぇきぃを食べて喜んでおりまする」
「青葉らしい顔じゃん。ほら、口元にチョコがついているとこまで再現されて。青葉っぽい」
「うぅうううん、普段の私は市井の妖にこう見えているのでしょうか。は、はずかしい!」
「ぬう、なぜかわしの顔が引っ叩かれておるのじゃが」
「比良利さまらしいお顔じゃないですか」
「……棘があるぞ紀緒」
その腕前が妖の世界に広がり始めたのは、と狐者異がケーキ作りを会得して間もなくのこと。
翔らが統べる妖の世界に洋菓子を作れる化け物はいないので、狐者異の名前は広く知れ渡った。狐者異にお菓子を作ってほしい、とねだる妖も出てきたとか。
そんな狐者異はやがて、松葉瀬の手伝いを勝手に始めるようになった。
彼が朝早くからやっていたソースの仕込みを担当したり、しれっと自分で考えたケーキをショーケースに入れたり、と好き勝手するようになったそうだ。
それに怒ることもなく、彼は大笑いしながら、「お菓子を作る店なだけにおかしが可笑しなことを起こす」と冗談を言うようになった。
そうそう、松葉瀬は知らないだろう。
「おかしってどんな姿をしているんだろうな。ちゃんと見たいよ」
なんてぼやく松葉瀬の隣で、小ぎれいな身なりを努めるようになった狐者異の努力を。
声は低いままだし、すきっ歯だし、相変わらず自分自身が嫌いだけれど、それでも狐者異は前よりも少しだけ自分のことを誇っている。
それから、百年も二百年も狐者異のおかしは有名となる。
『おかし』と呼ぶ人間がいなくなっても、だいすきな人間のことを思い出し、その人間の味を受け継いだ狐者異のおかしは、その身が消滅するまでお菓子に執着した。
――第十代目南の神主は、お菓子を食べる度に、人間と共に生きた「狐者異のおかし」を思い出すという。
(終)
最期まで狐者異のことが視えなかった人間は「おかしが大好きだ」と言い、彼の家族は「お菓子」が本当に好きなんだと思った。
けれども彼の本当の気持ちを知っている、「おかし」と呼ばれた妖は拙い声で人間に「ありがとう」と伝えた。
狐者異のおかしが愛した洋菓子店は、いまもなお、みなから愛されている。




