そんなにやなことじゃない
翔と比良利の手合わせの光景。
白狐の強さはひたむきな粘り強さだろう、だと痛感している赤狐です。
今日の手合わせは武の師を務めている名張天馬、ではなく、北の神主である比良利だと聞いた。正直に言おう。怖い、なんてものじゃない。比良利は天馬も青葉も凌ぐ腕の持ち主。呼吸ひとつ乱さず、煙管だけで彼らを伸してしまうので、翔なんぞ赤子も同然だろう。
(そらあ惣七さんと手合わせをしていただけあって、その実力は遥かに上なのは分かっていたけど)
始まって二十秒、比良利の姿を見失い、尻尾を捩じられて負けてしまうなんて。とんだ負け試合にもほどがある。せめて自分に見せ場があっても良いのでは?
次の負け試合はすっ転ばされて、上に乗っかられた。その次は鼻でこぴんされ、その次は世界が回った。投げ飛ばされた。容赦なんぞなかった。
「ちっとは腕をあげたと思ったが、まったくじゃのう」
「化け物だ。比良利さん、その走る速度は化け物だって」
「なあにを言っておる。わしは化け物じゃて」
そんなこと分かっている。しかし呼吸ひとつ乱されず、汗も掻かず、涼しい顔で翔と向き合っている、この現状が化け物なのだ。少しくらい肩を動かしても良いだろうに。
かと言って、翔も無様に負けたままなんぞ、持ち前の負けん気に触る。
「比良利さん。もっかい!」
「ほほう。まだやるとな」
当たり前ではないか。自分は誰よりも強くなりたいのだ。
それこそ比良利にだって負けたくない。守られてばかりの存在なんてごめんつかあさい。弱い己は捨ててしまいたいのだ。
「お主はいつもそうじゃのう。負け続けても、諦めを知らぬ」
「しつこさは俺の長所だよ」
「分かっておる。貪欲狐よ」
どうしてだろう。負け続ければ負け続けるほど、楽しくなってきた。圧倒的に比良利が強いというのに、勝ち筋なんて一抹も見いだせないのに、相手にすればするほど、「もっと」と言いたくなる。ああ、ほら、今回の負け試合は比良利の動きに捉えることができた。じゃあ、次は追いかけよう。その次は。
ああ、楽しい。とても楽しい。何度だって、相手にしたい。自分は強い相手と手合わせをして、喰らいついていきたい。つよくなりたい。
「ぼん。そろそろ限界じゃろう?」
「俺はまだまだできるよ。もっとしようよ。比良利さん」
「……はあ。じゃからわしはお主と手合わせをしたくなかったんじゃよ」
そのしつこさと貪欲さは、相手の神経をすり減らし、精神を追い詰めていく。お主は気づいておるか? 負ければ負けるほど、その顔が笑っていることを――比良利の声が遠い。なんだ。いま彼は何を言っている。次の試合を早くしよう。はやく。
「次で決める。ぼん、来い」
次で決める。その言葉が胸に広がる。そうか、これで終わりなのか。じゃあ、次こそ相手に爪痕を残さないと。敬愛する狐との手合わせは怖い。勝てるわけがない。負けるしか道がない。
それでも、もしも相手が邪な輩なら――それを想像すると、ああ、負けるなんて文字は認められない。
目の前の赤い狐が消える。背後にいると気づいた時には、足が床を蹴っていた。次は右に回ってくる。煙管が振り下ろされるのか。だったら、前転して避けて……ああ、声が聞こえる。南の地を守らなければ、と声が聞こえる。内側から声が、その声に答えなけれゴンッ!!
「――避け回ってたら、壁にぶつかるなんてださすぎる。比良利さん、もっかいやろうぜ。なあ。俺はまだやれるって」
「いい加減にせぬか。もう立てぬじゃろうて」
「立てる。五分休んだら立てる」
「命令じゃ、これにて仕舞いにする」
「やーだーってば!」
まだ手合わせをしたい、駄々を捏ねると「ならば文殿に行こうか」と比良利。まったく動けない翔の尻尾を掴むや、ずるずると引きずり、行集殿へと目指した。
「痛いっ、比良利さん痛いって!!やだって、頭使うより体を使いたいぃいい!」
「勘弁せえ。わしに対して、巴を開示しよって」
ずるずる、ずるずる、と引きずられる翔の頭上から「珠算をするぞよ」と言われたものだから、翔は悲鳴を上げる他ない。疲れ切った体に珠算は酷だ。苦手なのに。
「歴代の神主でも、簡単に巴を開示することはできぬというのに。末恐ろしい狐じゃ。天馬の苦労が目に浮かぶわい。ぼん」
「……なんだよ」
比良利が足を止めて、こちらを見下ろしてくる。
「最後の手合わせに何を見た?」
「え」
「深い意味はない。ただ、お主はどう映っていたのかを聞きたくてのう」
「どうって……まあ、とんだ負け試合だったよ。勝ち筋なんて一つも見えなかった。でも、正直にいって心が踊った」
一言で言えばとても楽しかった。この手合わせを終えた先に自分は何を手に入れられるだろう。それを考えるとワクワクが止まらなくなった。ああ、理想がこの手に入るのでは、そんな幻想すら見えた。
翔は、小さく笑う。
「比良利さん。俺はね、負けることがそんなにやなことじゃないんだ」
聞き手の比良利が小さく苦笑いした。
「この変態め」
「ええ。なんで?」
「少しは折れぬか」
「無理。折れたら楽しくなくなる」
「相手する方は疲弊するわい」
「比良利さん。歳? イデデデデデっ!」
「珠算を三増しで出してやるわ」
「ひでぇ!」
ふたたび翔を引きずり始める比良利は、「これのどこが凡才なんじゃ」とグチグチ文句垂れる。こんなにもしつこく、折れない心を持たず、宝珠と共鳴する狐はまごうことなき鬼才だ、と盛大にため息をついた後、ひとこと。
「翔よ、わしはお主に勝ちをひとつとて譲ってやらぬ。覚えておくがよい」
ぽかんと宣戦布告を聞いていた翔は、ニッと口角を持ち上げ、上等だと返事した。
「じゃあ、意地でも勝ちを奪ってやるから覚悟しろよ。比良利さん。俺は百年に百年の年月の差があっても遠慮しない。空いた分だけ稽古してやるからさ」
ああ、わくわくしてきた。
「比良利さん! だからもっかい!」
「たわけ。今宵は仕舞いじゃ。珠算と言っておろう」
「やだやだ。手合わせがいいってっ、比良利さーん!」
理想のためにひた走る白狐と、其の白狐の奥底に眠っている才に気づいている赤狐の、宣戦布告の噺。
比良利と翔は師弟であり、双子であり、好敵手。
ちなみに。
「はあ。巴を開示するのは反則じゃろうて」
「分かります」
「天馬、お主にも……」
「日常茶飯事です」
「……わしらを輩と勘違いしておるのかのう」
「おおよそ、思い込んでいるのではないか、と」
「追い詰められれば」
「追い詰められるほど」
「…………」
「…………」
師の悩みがあったりなかったり。
(終)




