叶うなら、
とある南の神主のお役の一面。
彼、三尾の妖狐、白狐の南条翔は南の神主のお役を賜っている狐である。
南北の地の安寧秩序を保ち、妖らを統べるだけでなく、妖らの冠婚葬祭に携わることもしばしば。彼らを通して喜びに触れることもあれば、悲しみに触れることもある。
それも神主のお役だと考えている。神主は生まれる命を見守り、沈む命を見届けなければならない。我が子のように思わなければならない。
そんなお役に立っているので、翔は多くの喜怒哀楽を目の当たりにする。
「多忙のところ、ご足労いただき、ありがとうございます。翔さま」
その夜、翔はひとり住宅街の一角を訪れていた。
そこはヒトの世界、喧騒が絶えないところ。静寂を好む化け物にとって、あまり好ましくない街中に翔はいた。古びた民家の中庭へ足を伸ばし、無遠慮に不法侵入している。
少し中庭を歩いた向こうに、翔を待つ妖が立っていた。白装束を纏った、うつくしいおなごだった。緑の黒髪が印象的なおなごで、結った髪の間から見えるうなじには、思わず目が奪われてしまう。
けれども、その正体は絡新婦であった。蜘蛛の化け物であった。
絡新婦に一礼して隣に立つと、翔は彼女と共に民家の縁側を眺める。
そこには家族であろう、人間達がひと間で険しい顔を作っていた。布団に寝かされている男は大層老いていて、それを囲んでいる中年の男と女は青白い顔をしていて、大学生であろう青年はまだ少年のように幼さが残っていて……。
あの老人は寿命が尽きようとしているのだろう。一目で把握できる、空気の重さだった。
「いつもは談笑の絶えないご家族なのですよ」
絡新婦は口を開いた。
「しかしながら。昔は喧嘩ばかりしていたご家族で、その怒鳴り声のおかげで屋根裏にいた蜘蛛達が落っこちていました。まこと、まことに憎悪と怒りばかり漂う家族でした」
語り部は苦笑いをこぼす。
「そんな時です。人間がわたくしを捕まえて、小さな虫籠に詰め込んだのは。最初こそ殺意が湧き、喰い殺してやろうかと思ったのですが、人間はさみしかったのでしょう。愛情をもって声を掛けてきました。生きた虫を捕まえ、わたくしに一生懸命に餌を与えました。大きな体躯を持つわたくしが、小さな虫籠では窮屈だと気づくと、惜しみなく銭を出して広い虫籠を買いました」
見た目が気持ち悪い。足が多いのが受け入れられ難い。
そんな差別を受けがちな蜘蛛に、その人間は愛情を持って接してきた。風変わりな人間だと思った。周りもそう思っていたようで、喧嘩の合間合間に人間を罵った。
それでも人間は捕まえた蜘蛛を大切に飼った。名を与え、一生懸命に世話を焼いた。月日が経つにつれ、深い情が湧いたのか、もっと広い世界に移すべきだと思い、己を中庭へと逃がした。
その時の横顔は、とてもさみしそうだった。
「さみしいならずっと飼えば良かったものを。人間とはまこと不思議な生き物です。おかげで、わたくしはこの庭にすっかり棲みついてしまった」
己を解き放ってから、人間の家族は少しずつ関係を修復していった。
何があって、その家族愛を深めたのか、絡新婦に知る由もないが、少しずつ怒り声が笑い声にかわっていく様子を見守っていた。笑い声が聞こえる度に、なぜだろう、心躍ってしまった。
ああ、しかし、その寿命も尽きようとしている。
それがとても悲しくもあり、さみしいのだと絡新婦は語った。
さりとて、仕様のない話。寿命は天が決めるもの、誰もその寿命をいたずらに増やすことはできない。
「もっと長い寿命を持っていれば、と思わずにはいられません。もっと傍にいたいと思うのに、そうさせてくれない。少しばかり神様は意地悪ですね」
それまで聞き手になっていた翔は、静かに相づちを打った。気持ちは痛いほどわかる。
絡新婦は縁側の向こうのひと間を見つめ、見つめて、胸に手を当てる。
「これから先もずっと、傍にいたかった。たとえ人間と化け物だとしても、相容れぬ関係柄だとしても――どうやらわたくしは、人間に飼われたことで、つよく思い入れてしまったようです。なんて愚かなことでしょう」
この気持ちの名は知らない。いや、知らなくても良い。
絡新婦はひとりごとを呟き、何度も己に言い聞かせて、そっとこちらを見つめた。黄色い目と細め、翔に力なく笑う。
「こんな蜘蛛を哀れとお思いですか?」
間髪を容れずに答える。
「ええ。哀れであり、その姿がなによりも愛しい。絡新婦、貴方はまぎれもなく、白狐の我が子です」
満足する答えだったのだろう。
絡新婦は「貴方を呼んで良かった」と、言って翔に礼を告げた。
今宵、翔を呼んだのは己の胸の内を聞いてほしかった。ただそれだけなのだと言う。何をしてほしいわけではない。ただ、話を聞いてほしかった。そして、それが叶ったので満足していると彼女は頬を緩めた。大人びたうつくしい顔が、少しだけ少女のように見えた。
翔は小さく微笑み返し、軽く目を伏せると、視線をひと間へ戻す。
「貴方は人間になんと呼ばれていたので?」
「とばり、と呼ばれていました。人間はもう忘れているかもしれませんね」
命尽きようとしている老人を、家族は険しい顔で見守っている。あの老人の命は明日まで続くのか、ひと月まで続くのか、はたまた今宵で尽きてしまうのか。翔には分からない。誰も寿命など知りえる術を持っていない。
「叶うなら、これからも一緒に」
生ぬるい夜風が絡新婦の言葉を攫っていく。
まじりっ気のない翔の尾っぽが、夜風にいつまでもゆらゆらと揺れた。
真っ向から吹く風を頬で受け止めると、翔はそっと身を屈めて、隣にいる絡新婦を優しく手で掬う。そこには寿命尽きた一匹の蜘蛛がひっくり返って死んでいた。
蜘蛛はもう人間を見守ることはできない。それはきっと蜘蛛にとって、悲しくもあり、さみしくもあること。蜘蛛は確かに人間に恋い焦がれていた。
「蜘蛛の寿命は人間よりも、ずっと短いな。本当に短い」
翔は力なく笑うと、大切な同胞を手の平で包む。
「誰だ。そこにいるのは」
ふと、鋭い声が飛んでくる。
顔を上げれば、険しい顔でこちらを睨んでいる青年がひとり。不法侵入している翔に多大な警戒心を抱いているようだった。
けれど。翔は浄衣の袖を揺らし、青年に歩み寄り、そっと手の平を広げた。
「蜘蛛の死骸?」
眉根を寄せる青年に、翔は深く一礼をした。
「とばりを迎えに上がりました」
「とば、り」
身に覚えがある名なのだろう。確信を得た。そうか、彼女が恋い焦がれた人間は――。
「同胞を連れて帰ることを、どうかお許しください。この子は白狐の我が子、人間の住まいの庭にひとり残しておけませぬ。貴殿のお傍に置けぬことを、どうかお許しください。しかしながら、とばりの想いだけはいつまでも――貴殿のものです」
零れんばかりに目を見開く青年の視界を、夜風が攫い攫っていく。
その青年がふたたび瞼を持ち上げた時には、ひとっ子ひとりいなかった。不審者と蜘蛛は夜のとばりに消えていた。
叶うなら、これからも一緒に。
そう願った絡新婦と青年の間柄なんぞ、翔はよく知らない。それでも絡新婦がヒトの世界に棲みついてまで、青年の傍に、そして彼の家族の傍に居続けた。それにはきっと深い意味があるのだろう。
絡新婦は確かに恋をしていた。うつくしい恋だった。儚い恋でもあった。報われた恋ではなかっただろうが、そのうつくしさは本物であった。
「連れて帰るべきじゃなかったかもな」
蜘蛛をヒガンバナ畑咲き誇る墓所に手厚く葬った翔は、いつものように、憩殿の縁側で甘酒を煽っていた。
三本目の徳利に手を掛けたところで、銀狐が隣に並んできた。
翔の横顔を見て、少しだけ鼻を鳴らすも、尾っぽを絡めてくるばかりで何も言わない。鳴いてもこない。ただただ傍にいてくれる。
静まり返った空気は苦手なので、翔から口を開いた。
「ギンコ。一人前の神主ってのは、ずっとずっと遠いな」
うん。ギンコは相づちを打つ。
「もっと、頼れる神主になりたいよ」
うん。ギンコはまたひとつ相づちを打つ。
「生まれ沈む命を見守っていくって、難しいな。すごく難しい」
うん。ギンコは二度頷いて、翔の膝にのると、くるっと身を丸めて腹に顔を埋めた。一切、こちらの顔を見ないのはきっとギンコの優しさなのだろう。
翔は小さく口角を緩めると、ギンコの小さな頭を撫で、木の器に口をつけた。
ふと隣を見れば、青葉が座っていた。やはり彼女も何も言わなかった。
「今日の甘酒、少しだけ苦いんだ。なんでだろう」
おどけ口調が、少しだけ湿っぽくなってしまったが、それでも気丈に振る舞い続ける。それが神主の在り方だと、翔は知っていた。
愛情を注げば応えてくれるのは、ヒトも妖もおなじ。




