あさきゆめみじ
『あさきゆめみし』の続編。
それがゆめであろうと、先代と翔の関係は確かにここにあるのです。
「近頃、眠れておらぬそうじゃのう」
その日は分厚い雲が夜空を覆った、おどろおどろしい夜であった。
つんっと鼻につく湿気の臭いが、今にも空が泣き出すことを教えてくれる。間もなく、雨が降ることだろう。
そんな雨空の下、翔はひとり文殿の縁側でぼんやりとしていた。
今宵は学びもなければ稽古もない。社も開いていないため、妖達との交流もない。何もない一夜であった。いや、本当は学びをする予定であった。けれど、比良利が己の顔を見るや、「今宵は仕舞いじゃ」と言ったものだから、することがなくなってしまった。
だから。生ぬるい夜風に当たって気を紛らわしていた矢先、比良利から声を掛けられた。その両手には木の器が一つ、そして徳利が一本、各々おさまっている。
まだ返事をしていないというのに、比良利は翔の右隣を陣取った。胡坐を掻き、器に酒を注ぐ。
「むう。あまり好まぬ味じゃのう。からい」
その器に注いだ酒の味に、比良利はしかめっ面を作る。
二口飲んだところで器を差し出してきた。いつも飲むツツジの甘酒ではなさそうだ。ツツジ特有の甘い香りがしない。
そっと口をつけた翔の顔もしかめっ面になる。
香りはとても良い。この香りは紅葉を彷彿させる、自然豊かな香りがする。が、舌がぴりつく。ひりひりする。一言でいえば、からい。
「俺、甘いのが好きだな」
「わしもじゃ。どこかの戯け狐は、この酒と花つぶみを一緒に食しておったもの。甘い酒に菓子なんぞ合わん、といつも生意気なことを言っておったものじゃ。ええい、なんじゃい。わしは甘い酒と菓子が好きなんじゃ。大好きなんじゃ」
比良利は懐紙を取り出す。
それは四つ角がひとつに絞られており、そっと広げれば、花つぶみが顔を出した。一目みて、それは金木犀の花つぶみだと分かった。
「惣七さん。源氏巻も好きだって言ってたな」
直接、言われたことはない。けれど、確かに本人から聞いた。
苦笑いをこびして、それを一粒指でつまむ。そっと歯で半分に割ると、金木犀の甘い香りがした。
「最近、現実と夢が分からなくなるんだ。俺は惣七さんと会ったことがないのに、ふとした時、隣にいる気がして。明日起きたら、俺はまだ神主出仕で、双子の対は比良利さんと惣七さんなんじゃないかって……そんな錯覚に陥る」
それはどうしてだろう。
一度だって惣七と会ったことがないのに。声だって知らないのに。ぬくもりも、想いも知らないのに。それでも、いまこの瞬間が夢だと思う時がある。
「今の現実を否定しているつもりはないのにな」
宝珠の御魂が見せる夢まぼろしであれば、少々タチが悪い。
「想いは生ける者の中に生き続けるものじゃと、わしは思う」
それまで静聴していた比良利が、そっと口を開く。
彼の声を掻き消すように、ざあざあ、と雨が降ってきた。
「それが慈しみであれ、哀れみであれ、憎しみであれ、どのような形であれ――想いは生き続ける。たとえ相手の顔を知らずとも、たとえ相手の声を知らずとも、たとえ相手のことを忘れてしまおうとも。その者の生きた証と想いがあれば、なんらかの形で生ける者の中に生き続けるのではなかろうか」
それはきっと翔が宝珠の御魂を持っているから、ではなく、その者の生きた証と想いが宿っているからだろう。
みな、同じような経験をしているのだ。惣七を尊敬していた青葉だって、惣七を憎んでしまったギンコだって、腹立たしいと思っている比良利でさえ、惣七の幻影を、想いを垣間見ることがあるという。
そして、こう思うそうだ。惣七が死んだ、という現実は夢だったのでは、と。
そんなわけがないのに。彼は己の腕の中で息を引き取ったのだから。自分は最期を看取ったのだから。
「その度に思う。残す者と残される者、どちらがつらいのじゃろうか、と」
ざあざあ。雨は降り続く。
雨粒が大きいのか、地面に跳ねるその音がやけに大きい。
「俺さ。夢の中で惣七さんと毎日喧嘩してるんだ」
「ほお」
「いつも説明が下手くそで。一言えば、できるだろって言われて。俺は一から十言われないと分かんねーよって反論してて」
「想像できるわい」
「仕舞いには、なんでお前が選ばれたんだって言われて。俺、めっちゃ拗ねて。勢いあまって家出して」
「お主ならやりかねぬのう」
「でもな。最後には惣七さんが走って迎えに来るんだ。一緒に帰ろうって」
そんな幸せで、浅はかな夢を見た。
いつか、自分の想いと御魂を託すと言ってくれた、その約束はとても嬉しかったのに。おざなりな約束になるのであれば、いっそ夢など見ない方が良かったのかもしれない。夢から醒めた時の苦しみは、とても、とても切ない。
くしゃくしゃに髪を乱される。
驚き、顔を上げれば、比良利が泣き笑いを浮かべ、「許せ」と頼んだ。それは片割れに対する、双子の対としての言葉であった。
「それが夢であれなんであれ、あれはきっとお主と約束を交わしたかったのじゃろう。約束を結ぶことで、ひとは夢を見る。その約束を果たすために歩き出す。約束を通して繋がれる――天城惣七は、お主と確かな繋がりを持ちたかったのやもしれぬのう」
なにせ、本来受け持つべき師を自分が受け持っているのだから。
ああ、もしかすると、嫉妬されているのやも知れない。本当は自分が師を受け持つはずだったのに。自分が一人前の南の神主にするつもりだったのに。その役回りを、犬猿の仲である比良利に取られてしまったのだから。
「わしとしては、勝手にいなくなったのはそっちじゃろ、と悪態をついてやりたいがのう」
思わず噴き出してしまう。
だとしたら、先代も可愛いところがあるではないか。
翔は天城惣七に想いを寄せる。彼のことなんぞ一抹も知らない。会ったこともない。声だって聞いたことない。彼の本当のぬくもりも、優しさも、厳しさも知らない。
それでも、翔は夢を見た。先代の夢を見て、そこで繋がり、確かな約束を交わした。不器用ながら喧嘩をした。衝突をした。和解だってした。まこと生前の先代を知らずとも、翔は天城惣七を知っている。
「じゃあ、もうおざなりっていうのはやめるよ。惣七さんを悲しませるから。あの約束はまだ果たされていない。でも、それでいいのかもしれないね。果たすまで俺は走り続けるだろうし、惣七さんと繋がりを持てるから」
いや、約束を果たしても、この繋がりを断ち切ろうとは思えない。
翔はゆるりと目を瞑る。夜風が右から左へ吹き、雨音が遠ざかっていく。それはとても不思議な感覚だった。
「――もう、体は良いのか?」
ふと瞼を持ち上げて、右隣に目を向ける。おかしい、誰もいない。
比良利はどこへ? 呆けていると、左隣に気配を感じた。そちらへ目を向ければ、仏頂面な顔を作った天城惣七がひとり。その手には木の器が一つ、徳利が一本、各々おさまっている。
遠慮なく左隣を陣取り、惣七は片膝を立て、木の器に酒を注いだ。
「……甘すぎて死にそうだ」
しかめっ面を作る惣七は、二口それを飲んで翔に差し出す。
白く濁った酒は香りで分かる。ツツジの甘酒だ。翔の大好物のものであった。
これは夢? 翔は首をひねりながら、木の器に口をつける。甘味とツツジの香りが口いっぱいに広がった。夢にしては出来すぎている美味さだ。
「ほら」
惣七が懐紙を広げた。
源氏巻が顔を出したので、自然と頬が緩んでしまった。
「やはり酒はもみじの辛酒に限る。なぜ、これと一緒に菓子を食えるのか……味覚まであいつに似てきたんじゃあないか? そのうち、助兵衛狐になるんじゃあないかって俺は気が気でならんよ」
「辛酒を持ってくりゃ良かったじゃん」
「お前、苦手だろ?」
「言ったっけ?」
「……俺が周りに聞いただけだ」
「直接聞いてくれたら良かったのに」
「お前は病み上がりだ。体を休めることに専念してほしかったんだ」
病み上がり。
ああ、そういえば、自分は腸を食いちぎられたんだっけ。翔は横っ腹を撫でる。
なんとなく刺すような痛みを感じた。本当に夢にしては出来過ぎている。これではどっちが夢なのか、分かったものではない。
視線を前に向ければ、晴れ渡った夜空がぽっかりと顔を出している。
月光を浴びている紅のヒガンバナは、とてもうつくしい。見惚れてしまいそうだ。
「すまない。俺の夢に付き合わせてしまったな」
翔は撫でるを手を止める。
なんて現実的な謝罪だろうか。せっかく美味い酒も、菓子も、うつくしいヒガンバナ畑もあるのに。もう少しだけ夢に酔い痴れても良いではないか。
「いつだって会えるよ」
左隣に座る狐と目が合う。ゆるりと微笑んだ。
「貴方は俺の中で生きている。だから、いつだって会える。また一緒に酒を飲もう。俺に色んなことを教えてよ。そして、いつかの約束を果たそう。俺に貴方の御魂を受け継がせてよ」
その約束はたとえ夢だろうが、現だろうが、確かなものだ。自分達の繋がりはここにある。
すると。先代はかなしげ、さみしげに。けれども、うれしげに微笑みを返した。
「まずはお前のことを教えてくれ、翔。お前はどんな食べ物が、色が、花が好きなんだ?」
晴れ渡った夜の下。
夜風に吹かれ、揺れ揺れるヒガンバナたちを眺め、二匹の白い狐は酒をあおる。遠いところでは雨音が聞こえる。誰もいない右隣には確かなぬくもりを感じる。
だから、これは夢。交わることのない狐たちの、他愛もない時間。それでも、今だけは――この時間に酔い痴れるのだ。
【あさきゆめみじ/了】
また、ゆめのなかで、お会いしましょう。




