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白狐ノ草子   作者: つゆのあめ/梅野歩
▼web版小噺
28/77

あさきゆめみし(参)

もしも、天城惣七が生きていたらのIF話。

ゆめはどこまでいっても、結局ゆめ。過去があるから現在、そして未来があるのです。




 この地を離れてしまおう。


 そうすれば、きっと宝珠の導きの下、新しい神主が見出される。

 これは今後の南の地のためでもあり、出仕を指導する当代南の神主のため。

 なんて、一丁前なことを言ってみても、結局は自分のためなのだ。そう、ここを離れるのは、誰でもない自分の、自分がもう傷付きたくないため。



【あさきゆめみし/参】



 彼、四尾の妖狐、白狐の天城惣七はぼんやりと縁側に座っていた。

 その手には、花つぶみの入ったお椀がひとつ。これは昨晩、文机の上にあったものだ。青葉がくれたものだとばかり思っていたそれを、一粒口に放って噛み締める。

 仄かな甘い花の香りが口の中に広がった。これは金木犀、香りがとても良い。


 チュウ。

 花つぶみを咀嚼していると、右隣から弱々しいネズミの鳴き声が聞こえた。視線を落とせば、七匹のネズミが己を見上げている。この子達は翔が救った旧鼠七兄弟だ。


「ほら」


 手の平に花つぶみを七つ転がして、子ども達に差し出す。

 恐る恐るそれを受け取る子ども達はうんっと首をひねり、鳴いて訴えた。助けてくれたお兄ちゃんは大丈夫? と。

 それについては大丈夫だとは言い難い。いま、あの子どもは付喪神の聴診器、一聴の手術を受けている。五割の確率で助かるそうだ。となれば五割は……それをありのまま子ども達に伝えようとしたところで、惣七は口を閉じた。

 こういうところが良くないのだ。時に嘘だって必要だ。


「大丈夫。翔はいま、お医者様に診てもらっている。必ず助かるよ」


 必ず、だなんてどこにも保証はない。

 けれども。無垢な子ども達は言葉を真に受け、嬉しそうに頷いた。翔が起きたら、真っ先にお礼を言いたいそうだ。彼が助けてくれなかったら、自分達は全員死んでいた。それこそ親と同じ道を辿っていた、と。

 親を失って悲しいはずなのに、旧鼠は翔の身を案じ、感謝の意を伝えようと意気込んでいた。見習わなければいけない一面だと思った。


「まだ手術は終わらぬようじゃのう」


 廊下の向こうから声がひとつ。

 振り向く気力もない。今宵は彼と喧嘩をする気分ではなかった。が、向こうはそう思っていないらしい。己の背後に立つや、頭に物を落としてきた。触り心地からして衣類だと分かる。

 そっと手に取る。洗い立ての浄衣であった。


「せめて着替えぬか。血で汚れておるぞ」


 ああ、そういえば。

 惣七は己の身なりに目を配り、すっかり忘れていたと力なく呟く。

 頭がぼけているのでは。対の嫌味すら遠い。自分は大切な神主出仕を、後継者に大怪我を負わせてしまった。間に合わなかった。

 自分の様子をどう受け止めたのか、比良利は七匹のネズミ達に頼みごとを申し出る。


「ぼんのために花を摘んできてくれぬか。何でも良い。それだけで、ぼんはきっと元気になる」


 花つぶみを平らげた旧鼠達は一斉に尾っぽを立てると、勢いよく中庭へ飛び出す。

 比良利の言葉を信じたようだ。飛び切りの花を摘んでくる、と一声鳴いてヒガンバナ畑へ姿を消していく。

 それを見送った後、比良利は吐息交じりに言う。


「失いそうになって、初めて気づく感情がある。それは常に決まった感情なのじゃろう」

「決まった感情……」


「後悔という感情じゃ。みな、きっと後悔するのであろう。誰かを失いそうになって、失って、『あの時こうしておけば良かった』『もっと言葉を伝えておけば良かった』『もっと過ごす時間を(おもんぱか)っていれば良かった』と……それはお主に限った話ではない。わしもきっと、お主の立場になれば後悔するのじゃろう。ああしておけば良かった、こうしておけば良かった、と思い悩むやもしれぬ」


 しかし。

 後悔は所詮、後悔に留まるのだ。


「ぼんはまだ死んでおらぬ。お主はまだぼんを失っておらぬ。であれば、後悔ばかりしても何も始まらぬよ」


 今、惣七は何をすべきか。

 まずは清潔な浄衣に着替えるべきだろう。次に目覚めた仔狐のために、重湯なり、薬湯なり、体に染みわたりそうなものを作るべきだろう。

 それが終わったら、気が済むまで話し通せばいい。二人には圧倒的に言葉が足りない。ただ胸に秘め、思っているだけでは、相手に何も通じない。


「失って後悔するならまだしも、お主はぼんを失っておらぬ。なのに、ここで腐っても仕様がないじゃろう。しっかりいたせ。お主はぼんの師であろう」


「俺は師に向いていないよ。あの子のまことの力を見抜くことができなかった」


「しゃらくさい。一度の失敗で何をへこたれておるか。なにより、神主出仕が決まった今宵から立派な師になれ、なんぞ無理じゃろうが」


 神主出仕が決まったから今宵から、まことの師になれるよう努める。

 それ次代神主ができた時に持つべき、当代神主の心構えでは? 比良利の疑問に、惣七は目覚めるような、そんな気持ちを抱く。

 そして。なんとなく翔の気持ちが分かったような気がした。いつも自分は一言えば、十できる狐であった。それが鬼才と呼ばれる所以だった。


 だから心のどこかで、今度も一言えば十できると思い込んでいた。

 自分はこれから当代神主として、次代神主を育てなければならないが、なんてことない使命だと思っていた。立派な師になれると驕っていた。そんなわけないのに。


「そうか。これが凡才の気持ち。お前や翔が抱く気持ちか」

「……取りあえず、その頭を叩いて良いか?」


「すまない。嫌味を言いたいんじゃあない。ただ俺は才があるばかりに、他者の気持ちが分からないんだ。挫折もよく分からずにいた。だから、オツネや翔を傷付けてしまった」


「傷つけてしまったものは、どうしようもない。その後のことを考えぬか」

「そうだな」

「ぼんを後継者として育てる自信がなければ、わしがもらうぞよ」

「それは困る。俺はあいつの師でありたい。あいつの師になれるよう、努めたいのだから」


 お前の助兵衛が感染ってもらったら困る。

 嫌味を投げると、「調子を取り戻してきたではないか」と比良利から大層な嫌味を返された。有り難い振る舞いだった。喧嘩ばかりしている対に気遣われるのは、少々こそばゆい。


「惣七さま。翔殿の手術が無事に終わったそうです。翔殿、助かるそうですよ!」


 どたどたどた。

 廊下を走る青葉が、惣七の姿を見つけるや、歓喜の声を上げた。

 思わず立ち上がり、表情を緩ませる。そうか、あの狐は助かったのか。良かった。本当に良かった。惣七は何度も安堵した。失わずに済んだ、その奇跡と一聴の腕に多大な感謝を寄せた。


 翔が助かった夜から惣七は毎晩、仔狐の眠っているひと間を訪れた。

 いつ目が覚めても声を掛けられるよう、何かものを食べられるよう、準備を整えておこうと思っていたのだ。が、思いに反して翔はなかなか目覚めない。

 医者の一聴曰く、大怪我と宝珠の御魂の共鳴が体に負荷を掛けたのではないか、とのこと。

 納得のいく答えだった。

 宝珠の御魂の力の強さは、宝珠を宿している惣七自身が身を持って経験している。


 だとしたら、翔の体は栄養を求めているのではないだろうか。

 そこで惣七は考えた。最初は重湯を食べさせるとして、徐々に粥や卵、果実を食べさせ、たくさん栄養を摂ってもらおう、と。

 果実ならば甘味もあって食べやすい。翔も食べられるはずだ。が。


「あいつは何が好きなんだ」


 できることなら、好きな果実を食べさせてやりたい。


 けれども。翔は一体全体何が好物なのか、惣七はまったく知らずにいる。情けない話だ。翔は自分の好物を知って、それとなく文机に置いてくれていたというのに。

 考えれば考えるほど、自分は翔のことを何も知らない、あれは何が好きなのか、何が嫌いなのか、得意不得意はあるのか無いのか。

 ああ、こんなことならば世間話をしておけば良かった。比良利に「南条翔にもっと興味を持て」と言われたのも納得がいく。自分はいつも、神主出仕の翔しか知らなかった。

 しかし。後悔したところで何も得られない。好きな物が分からないなら、周りに協力を頼めばいいのだ。


「林檎、蜜柑、桃に苺。比良利、どれがあいつの好きな果実だ?」

「なぜ、わしに聞く」


「なんだ。知らないのか。使えん奴だな」

「はあ? 使えっ……こういうのは本人に聞くべきことではなかろうか」


「まだ翔は目覚めていない」

「目覚めてから聞けば良かろう!」


「全部持っていったらあいつが困るだろう! まだサクランボやアケビ、イチジクもあるのだぞ!」

「ええい、持っていく前提で話を進めるでない! 先に聞いてから持ってゆけ!」


「ああ。なるほど」

「……時々話が素っ頓狂になるのは、これが鬼才のせいじゃからかそうなのか」


 比良利から苦言を呈されたようなこともあったが、それは余談としておこう。

 ついでに。ひと間を訪れる度に、ギンコと鉢合わせになった。銀狐は翔に懐いているので、ずっと傍に寄り添っている。惣七が来ると顔こそそっぽを向けるが、吠えたり、唸ったりすることはない。ギンコ曰く、怪我人の前だから、だそうな。

 またギンコはこうも言った。眠っている旦那様を起こすような真似をしたくない、と。


「だ、旦那様……オツネ。まさか翔のことか? それは」


 それがどうしたと言わんばかりに、鼻を鳴らすギンコは、将来彼のお嫁さんになるのだと宣言した。惣七は気が遠くなりそうだった。

 前から恋心の件は知っていたが、こうもきっぱり言われると、なんともかんとも。

 さすがにこれについては比良利に苦情を叩き込んだ。


「お前がツネキを助兵衛の浮気者にするから、とうとうオツネが翔のお嫁さんになると言い始めたではないか。どうしてくれる!」


「それはわしのせい……せいやもしれぬが、知らぬ! わしのせいではない!」


 くだらない喧嘩を繰り広げたが、それは蛇足としておく。

 とにもかくにも、惣七は翔の目覚めを待ち続けた。あれやこれや何を話そうか、何から話していこうか、と考えながら時間を過ごした。


「まだまだ熱は高いな」


 時に日通し、寝ずに翔を看病した。

 真っ赤な顔をして苦痛な顔を浮かべる度、自分のことのように心が痛んだ。早く良くなってほしい。目覚めたら、色んなことを話したい。なんでもいい。くだらないことだって話したい。

 想いをこめて、濡れた手ぬぐいを額に当て、身体をよく拭いてやった。


 だから――これっぽっちも想像していなかったのだ。ひと間を訪れた時、布団がもぬけの殻になるなんて、そんな事態が待ち受けているなんて。


「翔? どこだ。翔!」


 てっきりギンコが傍にいるから大丈夫と思っていたのに、ひと間には銀狐一匹と空っぽの布団。そして文机には『辞表』と書かれた置手紙が一式、つくねんと残されていた。五日目の昼下がりのことだった。



 ◆◆



「体が、まじで重たい。死ぬっ」


 彼、一尾の妖狐、白狐の南条翔は妖の社を飛び出し、ヒトの世界を根性で歩いていた。

 そらもう今すぐにでも横になりたいわ。吐きそうなほどきついわ。死にかけた身を、無理やり動かしているから栄養も水も血も足りていないわ。踏んだり蹴ったりの状態だった。


 それでも、今すぐに妖の社を離れなければいけない。

 時刻は昼。夜になれば、妖達が活動を始める。そうなれば、抜け出したことがばれてしまう。もう、自分は妖の社に身を置ける身分ではないのだから。


(ま、いなくなっても、そこまで騒ぎにはならないだろ)


 翔は四日目の真夜中に目を覚ました。

 そこで、己が不甲斐なくやられたこと。惣七に助けられたことを知った。ああ、きっと惣七は自分にまた失望していることだろう。なんで、こんな妖達に怪我を負わされているのだ。それでも神主出仕か、と。

 お小言なんて聞きたくない。ため息をつく姿だって見たくない。幻滅している眼を向けられるのはもうたくさんだ。


 これまで気合と根性だけでなんとかやってきたが、大怪我を負ったせいか、その直前に「なぜ。お前が選ばれたんだ」と言葉を投げられたせいか、頑張る気持ちがぽっきり折れてしまった。逃げているといえばそれまでだが、もう無理だ。限界だ。この地を離れよう。強い気持ちに駆られ、妖の社を後にしている。


(ギンコには、また会いに来るからって言ったけど……悪いことしちまったな)


 ずっと自分の傍にいてくれたギンコにのみ、自分の心情を打ち明け、どうか妖の社を出て行く情けない自分を見逃してほしい、と頼んだ。

 優しいギンコは、また必ず自分に会いに来るなら、と鼻ちゅーで見送ってくれた。本当は逃げ出す自分に色々文句をぶつけたかっただろうに。


 ごめん。翔は心中で詫びる。

 本当にごめん、こんな自分を心配してくれて。でも、だめだったのだ。なんの取り柄もない自分では、南の神主どころか、神主出仕にすら名乗れそうにない。

 思い出すだけで悔しさと涙がこみ上げてくる。

 喉の奥が熱くなった。

 情けない気持ちでいっぱいだ。

 でも、もう、本当にがんばれないのだ。これ以上、努力を重ねたところで、残るのは虚しさと相手のつよい失望だけだと、翔は知っている。


(この地を離れよう)


 そうすれば、きっと宝珠の導きの下、新しい神主が見出される。

 これは今後の南の地のためでもあり、出仕を指導する当代南の神主のため。

 なんて、一丁前なことを言ってみても、結局は自分のためなのだ。そう、ここを離れるのは、誰でもない自分の、自分がもう傷付きたくないため――努力だけで乗り越えられないこと、がんばりだけではどうしようもないことも、この世にはあるのだ。


 どうにかバス停に辿り着くと、翔は所持金を確かめる。三千円程度、財布の中に入っていた。南の地を離れるには十分な所持金だ。

 後は携帯があるので、今後のことはこれを使いながら考えよう。今は南の地を離れたかった。


 ふと翔は携帯番号から幼馴染のひとり、『和泉朔夜』の名前を探すと、迷わず彼に電話を掛ける。三コールもしない内に、彼は電話に出てくれた。


『ショウ! お前、怪我は大丈夫なのか? 渡り鳥人面鳥に襲われたそうじゃないか!』


 さすがは妖祓。

 妖が起こす事件はなんでもお見通しの様子。

 けれども。翔はそんなこと、どうでも良かった。ただ、幼馴染の声が聞きたかった。そして、今の気持ちを聞いてもらいたかった。


『ショウ? ……泣いているのかい?』


 伝い落ちる悔し涙をそのままに、翔は嗚咽を噛み締める。幼馴染の声を聞いたらもう、我慢できそうになかった。

 ただただ、襲ってくる情けない気持ちから助けてほしかった。


「朔夜っ、おれ……もうだめみたいだ」


 全部だめになってしまった。

 翔は嗚咽と共に吐露する。


「もう、妖の社にいられなくなった……俺の中で限界がきちまったみたい」


 ヒトの世界では妖祓が、妖の世界では妖の神職がおのおの平和を築くと夢を見ていたが、それはもう叶いそうにない。自分では無理だったのだ。賢い頭も才もない自分なんかが入ってはいけない世界だったのだ。

 ずっと努力してきた。ずっと認められようと頑張ってきた。でも、もう疲れてしまった。ごめん。ほんとうにごめん。翔は力なく笑って朔夜に謝る。


 すると。彼はただただ、静かに真剣に『いまどこにいるんだい?』と尋ねてくる。



『すぐ迎えに行くよ。ショウがどこにいたって大丈夫、妖の社にいられなくなったって大丈夫。僕と飛鳥の隣は、いつも空いているから』



 だから――帰っておいで、ショウの帰る場所はここにある。


 涙の量が増えた。

 情けない話、声を上げて泣きじゃくりたいほど、今の翔には優しい言の葉だった。許されるなら帰りたい。二人の下に帰りたい。

 ただ、今は迎えに来てもらうわけにはいかない。自分は南の地を離れなければならないのだから。翔はやって来るバスに気づき、「また後で連絡するよ」と言って電話を切った。


 最後部座席の窓辺に座る。

 乗客は一人しかいないようだ。静まり返っている。

 動きだすバスの振動を感じながら、窓ガラスに凭れて、そっと目を瞑った。

 そのバスがどこへ行くか、皆目見当もつかない。それこそ終点は知らない。それでも良かった。ただ、この地から遠ざけてくれたら、それで良かった。

 発車したバスが急停車する。一体何事か、薄目を開けるも、翔はふたたび目を閉じた。瞼が重たい。泣いたせいではない。怪我のせいだろう。やはり体は正直だ。とても、とても、つらい。


「みっ、見つけたっ!」


 荒い呼吸と共に、痛いほど肩を掴まれる。

 思わず飛び起きた。視線を持ち上げれば、浴衣姿の惣七がいた。それは寝間着に使っていることを翔は知っている。ということは、今の彼は寝間着ということで……人間の目にはそんな風に見えないだろうが。

 目を引くのはそれだけでない。彼の髪はぼさぼさだし、こめかみには汗が流れているし、浴衣が崩れているし。一体全体どうしたというのだ。


「……惣七さん?」


 どうしてここに。

 翔の疑問は途切れてしまう。鋭い眼光に気圧されてしまったのだ。

 ゆえに何も言えなくなる。ああ、また失望しているのだろうか。とはいえ、辞表を書いたのだから自分の気持ちは知っているはず。あれか、逃げるなと言いたいのだろうか。説教をしに来たのだろうか。


 バスが動きだす。その揺れに堪えられず、惣七の身が倒れそうになる。

 慌てて腕を掴んでやると、彼は眼光を弱め、決まり悪そうに頭部を掻くと、無遠慮に隣に腰掛けた。これでもう逃げられない。


「……せめて、怪我を治してから動け」


 寿命が千年縮まった。惣七が話を切り出す。

 翔は生返事をした。あまり心に響かない。怪我が治っても、そうでなくても、自分は行動を起こしていただろう。そして、それは惣七には関係のないこと。心配を寄せられても困ってしまう。

 バスが停車し、バス停に停まる。乗客が降りてしまったので、車内は自分達だけとなってしまった。ああ、とても気まずい。


「どうして、ここに来たんだよ」


 沈黙に堪え切れなくなった翔は、惣七に問うた。

 神主出仕を辞退する旨は手紙に綴ったはずだ。才や取り柄がないこと綴ったはずだ。紙面の中で沢山ごめんなさいだって使ったというのに、あの惣七が社務を投げて自分を探しに来たなんて、俄かに信じられずにいる。

 いつだって惣七の順位は市井の妖、神職の天命、南北の安寧秩序なのだから。


「安心してよ。俺、この地から離れるから。そしたら宝珠だって、次の神主を見つけてくれると思う。もっと才能ある妖を見つけてくれるはずだから」


 ああもう。また悔し涙が零れてくる。

 情けないから止めたいけれど、朔夜と話した時に涙腺は崩壊気味だ。止める術を知らない。


「俺にはむりだよ」


 才能なんかない。


「がんばったところで、惣七さんみたいにはなれない」


 自分は凡才だ。


「努力したところで、期待には応えられない」


 最初から期待なんて寄せられていないのは分かっていた。それでも言わずにはいられない。


「今度は俺みたいな生意気な狐じゃなくて、青葉みたいな才能ある狐が選ばれるはずだよ」


 だからもう、どうしてお前が選ばれたのか、と聞くのはやめてほしい。

 翔こそその理由が分からずにいるのだから。


「ずっと。俺はお前を追い詰めていたんだな」

「え?」


 濡れた頬をそのままに、ゆるりと顔を上げる。

 そこには悲しみと、少しの苦笑いを交えた、そんな曖昧な顔をしている惣七がいた。

 彼は自分の頭にぎこちなく手をのせると、「努力しているお前をずっと見ていた」と、言って軽く髪を撫ぜてくる。その衝撃で隠していた狐耳が飛び出た。


「お前が俺に隠れて、比良利から学んでいる姿も。俺の期待に応えようとしている姿も。普段の俺を知ろうと、たくさん世間話を振ってきた姿も……それをすべて無下にしたのは俺だ」


 いつも神主出仕の南条翔ばかり見てきた。天命を最優先にしてきた。

 それがすれ違いを起こしてしまう原因だった。

 確かに翔は物を覚えるのが遅い。それでも、惣七が普段の南条翔を見ていれば、すれ違いなんぞ起きなかったに違いない。追い詰めてしまうような、傷付けてしまうような、愚かな行為だってしなかったことだろう。

 いつだって翔には厳しさを与えていた。優しくしようと思っても、本人を前にすると、どうしても厳しくしてしまう己がいた。


「どこかでお前に甘えていたのだと思う。厳しくしても、お前なら許してくれる、と……そんなわけがないのにな。お前にだって心があるというのに」


「仕方ないって。俺は青葉と違って覚えるの遅ぇし」


「違う。俺が驕っていたんだ。俺の教えについて来てもらいたかったんだ。本来、歩調を合わせるのは俺の方なのに。お前を失いそうになってはじめて、自分の未熟さを痛感したよ。翔、驕っていた俺をどうか許してくれないか?」


 そんな風に謝罪されると思わなかった。

 翔自身、惣七が驕っているとは一抹も思っていない。生意気な口を叩きながら、いつだって出来ない自分が悪い。そう思い込んでいた。

 「俺と一緒に帰ろう」と、言葉を重ねられると、翔はだんまりになってしまう。まだ南の地を離れたい気持ちの方が強い。


「翔。俺は花つぶみや源氏巻が好物だ。もみじの辛酒が好きだな。ああ、それから、がんもどきには目はない。お前は何が好きだ?」


 前触れもない、世間話に戸惑ってしまう。どうして今、それを。


「俺は普段のお前を何も知らないからな。たくさん、お前のことを教えてほしいんだ」

「……なんで」


「俺は身を挺して、妖の子ども達を守りぬいたお前に。誰でもない、お前に宝珠の御魂と、俺の想いを受け継いでほしいんだ。守りぬくなんて簡単に言うことはできるが、容易なことではない。それはお前のまぎれもない、誇って良い才能なんだ」


 妖達を想う、その気持ちは自分や比良利以上だ。

 惣七は翔を褒めた。それは初めての褒め言葉であった。最初こそ、同情からくるものだと思っていたが、いつまでも見つめ続ける優しい眼がうそ偽りを否定してくる。

 嗚呼。翔は今度こそ嗚咽をもらした。ひどい、本当にこの狐はひどい。自分はもう頑張れないと言っているではないか。どうして、自分が一番望んでいた言葉を、いまここで贈ってくれるのだ。


「むりだって、おれ、言ってんのに」

「ああ」

「がんばれねーよ」

「ああ」

「もういやなのに」

「すまない」


「他の奴がいるって言ってんじゃんか。おれよりも、ずっといい奴いるから諦めてよ」

「お前の努力を、想いを、その才と姿勢を目にして他の奴なんて考えられない。俺はお前に受け継いでほしい」


 ここで断られてもいい。

 その代わり、約束する。必ず翔に認められるような師になることを。

 惣七の覚悟と決意を聞いたらもう、何も言えなかった。言えるはずないではないか。こんなにも期待を寄せられているのだから。

 惣七は認めてくれている。自分の努力を、自分自身の才を、その神主出仕に寄せた想いを。


 翔は流れる涙をそのままに、ただひたすら声を押し殺した。

 優しく大きな手が優しく頭を抱きしめてくる。もっと涙がこぼれた。今まで胸に留めていた感情が堰切ったのだと思った。


 ◆◆


「惣七さん。大丈夫? 俺、おりようか?」

「平気だ。目覚めたばかりの怪我人を歩かせるわけにはいかん」

「でも顔色悪いぜ? バス酔いしたなら早く言ってくれたら良かったのに」

「……あれは凄まじい人力車だな。音も臭いも速度もひどかった。死ぬかと思った」


 すっかり月が昇った頃。

 結局、終点までバスに揺られた翔は惣七におぶられ、遠い南の地へ向かっていた。

 歩いて月輪の社に戻るなんて無謀。まだバスが通っているので、それで帰れば1時間程度で帰れるのだが、バス酔いした惣七が頑なにそれを拒んだ。どうやらバスは苦手な分類のようだ。

 しかも、自分をおぶって帰ると申し出たので、なんともかんとも。

 とはいえ。惣七は決して翔をおろさない。本気でおぶって帰るつもりなのだろう。


「朝までかかっちまうよ」

「いいさ」


「バスに乗ろうって」

「あんな地獄、もう二度とごめんだ」


「奉仕はいいの? 青葉やギンコはいるけど、神主不在なのはまずいんじゃ」

「比良利がいる。大丈夫だろ」


「サボりだって思われるぜ?」

「サボりも大切な奉仕だ。あいつがそう言っていたから、俺もそうするさ。たとえ俺が百年、社を空けていても何とかしてくれる」


 比良利が聞けば激怒しそうだ。

 翔は苦笑いをこぼす。惣七がここまで言っているのだ。もう何も言うまい。

 重たい体を背中にあずける。忘れかけていた痛みが腹部に走った。不思議と体も熱い。火照っているので、きっと熱が出てきているのだろう。


「よく俺の居場所が分かったね。まさかバスに乗り込んでくるとは思わなかった」


「……オツネが、そっとお前の行動を教えてくれたんだ。オツネと俺のような関係になりたくなければ、さっさと追えって。車ってやつに乗って遠くに行くだろうからって。ただし泣かしたら、喉元を喰らうなんて、脅されたよ」


「ギンコ……後で、ごめんって言わないとな。心配かけたから」


 心配を掛けたといえば、朔夜にも電話を入れておかなければ。

 追い詰められていたとはいえ、彼に泣きついてしまった。今も思い出しても恥ずかしい。彼のことだ。今頃、自分の行方を探しているのではないだろうか。

 一方で朔夜のあの言葉は本当に救われた。たとえ、自分が妖狐となっても、彼は、彼らは自分に帰る場所を与えてくれるのだから。

 それはきっと、自分をおぶる狐も一緒。


「俺で本当に良かったのか?」


「何度だって答える。俺はお前が良いと。まあ、俺は比良利のように……器用ではないから、またお前を傷付けてしまうかもしれんが、比良利にお前はやらんよ」


「なんだそれ。俺は惣七さんの後継者だよ」

「……仲が良いからな」

「俺は惣七さんと仲良くしようと努力してたんだけど」

「ぜ、善慮する」


 意地悪もこれくらいにしておこう。翔は頬を緩めると、そっと彼の背中に額をのせた。「寝ておけ」と言われたので、素直に応じる。これくらい甘えても許されるだろう。

 それに。これからはきっと上手くいくはずだ。ずっとすれ違いばかりだった日々に終止符が打たれたのだから、きっと、そう、きっと。


「翔。朝日だ」


 浅い眠りに就いていた翔は、のろのろと顔を上げた。

 惣七は表社の石段を上っている途中だったようだ。石段が視界に入る。

 首だけ捻ると、満目一杯に町並みが飛び込んでくる。まだ眠る人間達を目覚めさせるように、空は白く染み渡り、太陽が昇る。朝日だ。妖にとって眠りを教える光だ。

 これから夕陽が射し込むまで、妖は眠りに就くのだ。ああ、当たり前に繰り返される光景だというのに、今日は感動を覚える。己が死に目に遭ったせいだろうか


「翔。俺は今宵、お前と交わした約束を必ず果たす。いつか、必ずお前にこの想いと御魂を託す。いつか、必ず――」


 うん、翔はひとつ頷き、「またがんばってみるよ」と言って、眩しいばかりの朝日を見つめた。いつか自分は惣七の想いと御魂を受け継ぐ。そのために努力を惜しまない。途中、挫折や苦悩が待ち受けていることだろう。それでも、今度はきっと、大丈夫。

 翔はそっと目を瞑り、ふたたび浅い眠りに就いた。その胸に不安や苦しみはなかった。





「――学びの途中に居眠りとは、これ如何なもの。起きぬか戯け狐!」


 雷が落ちてきたような、激しい怒声が頭上からふってきた。

 文机に身をのせていた翔は、あまりの声量に飛び起き、聞こえの良い耳を塞いでしまう。何事かと周囲を見やれば、怖い顔をした比良利が己を見下ろしているではないか。


「あ、あれ……えーっと」


「わしは歴史のまとめをしておけと申したのう? 歴代の先代が政策に何をしたか、しかと巻物にまとめておけと、そう申したのう?」


 なのに居眠りとは、気が緩んでいるのではないか。比良利に問い質される。

 しかし。翔は目を白黒にした。なぜ、自分は比良利から学びを受けているのか。自分が学びを受けるのは――ああ、ああ、そうか。これは現実であり、夢まぼろしか。


 翔は怒り心頭に発している比良利を差し置いて、のろのろと文殿を出る。空が染みている。時期、夜明けだ。朝日が顔を出すだろう。

 様子がおかしいと気付き、『双子の対』が声を掛けてくるが、翔の耳には届かない。


「いっしょに帰ろうって言ったのはそっちなのに」


 文殿の手すりにそっと手を置くと、両膝を折って、くしゃりと泣き、そして笑った。


「俺、まだ何も託されていないよ。約束なんだろ? これでいいのかよ――なあ、惣七さん」


 名前を呼んだら、もうだめだった。

 翔はその場に蹲って、しばらく感情を押し殺した。その背中を慰めるように、大きく優しい手が添えられる。なぜであろう。優しいぬくもりが二つあるように思えた。

 これは身に宿す宝珠の御魂が見せた夢か、まぼろしか、それとも先代の無念か。


 もう、なんでも良かった。



 嗚呼、声の届かない遠いところで、自分達はいつもおなじ夢を見ている。


 

【あさきゆめみし/了】


浮世にたたずみ、おなじ夢を見ている。ただ、それだけ。

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