そんな与太話、なんぞ
十代目を慕う妖は、少なからず大学に三人はいる、という話。
「翔。時たまに、腹立つことはありませんか?」
前触れもない質問を投げられた。
それは大学の講義を終え、次の教室に移動している時のこと。簿記の講義が重なっている天馬と共に廊下を歩いていると、彼からこのような問いを頂戴した。
腹が立つ、とは? 口数の少ない烏天狗の問い掛けには主語がなかった。そのため、翔は聞き返す。
何について、腹立つのだ、と。
前を向いたまま、一度たりとも視線を動かさない天馬は、妙に不機嫌な様子。能面とはいえ、醸し出す雰囲気はおどろおどろしい。
はてさて。彼こそ腹を立てているように見えるのだが、一体どうしたというのだろう。名張家の陰口を叩かれている程度では、このような態度は見せない男なのだが。
「天馬こそ腹立つことでもあったのか?」
「大学にいる同胞らの振る舞いについてです。貴殿のことを、舐めている同胞があまりにも多い」
間髪容れずに返ってきた言葉にあっ気取られる。
そして、翔はひとつ頷き、なるほど、と苦笑いを零した。
どうやら天馬は大学にいる妖達の態度に腹を立てているようだ。
それも仕様のない話。大学にいる時の翔は、一般の大学生として過ごしている。頭領の顔を見せないので、「こいつは本当に南の地を統べる妖か?」「名ばかりで実は遊びほうけているのでは?」「修行もせず何故大学に通っている?」等々勘違いされることも少なくない。
年齢も年齢だ。
人間の世界にいる、同年代の妖達は翔を軽く見る傾向が強い。
しかしながら、翔はそれについて、あまり腹を掻くことはしない。もちろん、無礼講も度が過ぎれば、些少なりとも怒りを感じるが、それはそれ。人間の世界にいる時くらい、普通の大学生として過ごしたい気持ちが強いため、大体のことは目を瞑っている。
妖の世界に戻れば、嫌というほど頭領の顔をしなければいけないのだ。こっちの世界にいる時くらい肩の力を抜きたいもの。
なのに、天馬はそれが許せない様子。
苛立つ気持ちを全面的に出し、横目で翔を見てくる。
「講義の前、翔がいると分かっていて、先代の話を聞こえるように話していました。そして貴殿と比べていた。足元にも及ばない、なんぞとほざいた時には錫杖で頭をかち割ってやろうと思いましたよ」
「ああ、そういえば、そんな話……待て、天馬。頭をかち割るのはちょっと」
「どう骨を折ってやろうかと講義中、ずっと考えていたのですが」
「授業に集中して! 物騒っ、天馬さんっ、超物騒!」
この男なら本気でやりかねない。
翔は顔色を変えながら、「俺は気にしていないってば」と言って、機嫌を宥める。が、天馬の眉間の皺は深くなるばかり。
「先代と比べて劣っている話だけならまだしも、翔が努力すらしておらず、大学に遊びに来ている……という根も葉もない話をしておりました。塵にしてやろうと思いましたよ、あの時は」
「て、天馬。そいつらは大学にいる時の俺しか知らないんだって。言わせておけよ」
「その通り。連中は大学にいる時の翔しか存じません。なのに、それだけで判断するなんて。お恥ずかしい話、自分もそういう時期があったものの……翔の一日の流れを知れば、遊びほうけているなど、戯けたことを口走れるわけがありません」
大学の有無関わらず、神主修行に明け暮れる翔を知っている天馬は、いつもよりも饒舌に語る。寝ても覚めても神主修行、舞や体術は勿論、妖についての一般的な常識、歴史、経済。一方で妖らと交流。自分の時間を持つ暇など、つま先ほどしかない。
それを皆に知ってもらいたい、と天馬。
必ずや翔の印象が変わるに違いない。彼は強く訴えた。
(いや、お前だって努力しているだろーよ。名張の汚名を返上するためにさ)
そんなことを思いつつ、翔は「べつにいいさ」と肩を竦めた。
「努力を自慢したところで、情けない姿をさらけ出すだけだよ。寧ろ、努力を都合の良いように言い訳に使っているだけ、なんて言われるかもしれない」
翔は誰かに自慢したいから、己の時間を削っているわけではない。自分がこの道を選びたかったから、時間を削っている。それだけなのだ。
理想に貪欲だからこそ、皆を心配させるほど時間を削って修行に勤しんでしまう。本当に、ただ、ただ、それだけなのだ。
「天馬だってさ、自分の時間を削って努力しているだろ? けどお前は、努力を言い訳に使っていない。使っているところなんて見たことないよ」
顔ごと視線を投げる天馬に「だろ?」と、同意を求める。
「周りが知らなくてもいいさ。俺は身近にいてくれる奴らが、天馬が俺のことを知ってくれている。それで十分だよ」
変わらず彼の足は止まらない。
けれども、天馬の表情は崩れる。感情に乏しい彼だが、その時の天馬はいたずら気に頬を緩めていた。歩みを止めず、視線を後ろに放って肩を竦める。
「周りの与太話は十代目の耳にも、心にも、まったく届かない。これが三尾の妖狐、白狐の南条翔だ。盗み聞きする、その耳に覚えさせておくんだな」
目を丸くする翔が背後を振り返る、その前に「行きますよ翔」と、天馬が歩調を速めてしまった。慌てて後を追う。
「おい、天馬。いまのは……あっ、まさか仕返しをしたんじゃ。後ろにいたんだろ? 先代と比べる話をした奴ら」
「さて。なんのことやら」
「絶対そうじゃんかよ。お前なぁ、放っておけって……十代目が未熟なのは本当のことなんだし」
「翔こそ、慕われている妖がいることをお忘れなく。貴方が思っている以上に、十代目を慕っている妖は多い。たとえば」
「翔さま、夕立は貴方様の一番のファンですからね!」
二人の間に割り込んできたのは、蝶化身の白木夕立である。
一体どこから現れたのやら。唖然とする翔を余所に、夕立はふんと鼻を強く鳴らした。どうやら彼女も、連中の会話を聞いていたらしく、「危うく首に手刀を入れるところでした」なんぞと物騒なことを真剣に口にした。
「なんですかさっきの連中! 翔さまの美しい舞を見たら、絶対あんなこと言えないのにっ。悔しいっ、夕立は悔しいですっ! 名張くん、なんで錫杖で頭をかち割らなかったんですか!」
「割りたかったが、人間の目があったからな」
では、人間の目がなかったら割っていたというのか。翔は頬を引きつらせる。
「夕立が十代目にどれだけ惹かれたか! 錦くんに神主舞のDVDを焼いてもらって、定期的に観るほど惹かれているんですから! ほら見て下さい、この手帳を! 翔さまのサインですよサイン! 夕立、すごく大切にしているんですから! プレミアものですよ!」
それはあれだあれ。夕立がサインをねだったから、取りあえず、自分の名前と夕立の名前をボールペンに書いただけに過ぎない。
なのに、彼女は誇らしげに手帳を見せびらかす。それを目にした天馬がふたたび眉を寄せた。
「ふふん。さては名張くんは、まだ翔さまのサインをもらっていないのですね。やっぱり、十代目の真のファンは夕立ただ一人! 夕立は翔さまの幸せをいつも願うモブになりますよ! 翔さまとオツネさまが幸せそうに戯れ合う姿を見ているだけで、尊い、と思うモブなのです……思い出すだけで尊い……」
「夕立さん、俺に分かる日本語を話してくれ……頼むから」
「それに翔さまが授業中、無防備に居眠りしている姿を見るだけで、夕立は癒されます! あんなに真剣に舞を踊っているのに、居眠りの時は、あんなにあどけないお顔を……そう、これがギャップ萌え!」
「ぎゃ、ぎゃ……っぷ」
「それだけで真のファン? 笑わせてくれるな。十代目の努力は誰よりも近くで見ている。誰よりでもない、名張天馬が十代目の従者だと言える」
「て、天馬は俺の武の師匠だろう……なあ?」
「ああそれと。翔、後で手帳にお名前を筆記して頂きたいのですが」
「あー! ちゃっかりサインをもらおうとして! だったら夕立は二個目のサインをもらってやりますからねー!」
「欲深い妖はどうかと思うが?」
「名張くんだけには死んでも言われたくないですよーだ」
「……お前ら、俺を置いて行くなよ。頼むから」
ぎゃあぎゃあと言い合う二人の後ろを歩き、遠目で背中を見つめていると、笑いを堪えて肩を叩いてくる妖が一人。
雪童子の錦雪之介であった。
「誰だって自分の好きなものを悪く言われるのは、気分が悪いものだよ。それが友達であれ、なんであれね。若すぎる未熟な頭領は、こんなにも愛されている。それは君に実力があったからこそ。ちゃんと気持ちは受け止めておくんだよ。我らが南の地を統べる、第十代目南の神主、南条翔さま」
そう言って、雪之介は片目を瞑る。
翔は笑うことしかできなかった。本当に大丈夫なのに、周りの酷評なんて気にしていないのに、大学の妖達の態度なんて目に入れていないのに。ああ、自分はなんて幸せ者なのだろう。
幼馴染や神職ら、家族とは他に、自分自身のことを片指程度でも知ってくれている者がいる。それだけで心が軽くなった。もっと頑張ろうと思える。
「雪之介。知っているか」
「なにを?」
「神主ってのは……頭領ってのはさ。ついて来てくれる妖がいてこそ、成り立つ存在なんだ。俺はいま、お前らに支えられているって実感しているよ」
それどころか、支えがあるから、周りの余計な声を拾わずに済んでいるのやもしれない。いや、きっとそうだ。そうに違いない。
翔はどことなく誇らしげに目尻を和らげ、鼻の頭を掻いた。
その拍子に狐耳がひょっこり出てしまうものの、くすぐったい気持ちが胸を占めていたせいで、しばらくそれに気づくことができなかった。
(終)




