日の見守りびと
紀緒と比良利、そしてツネキ。
見守る者がいるから、好き勝手な振る舞いができると、彼が二人に告げるのだ。
「だから天馬。もっかいやろうって。もっかい、あと一回だけ!」
「そう言って幾度倒れたことでしょうか。お願いですから、自分の寿命を縮ませないで下さい。今日の稽古は仕舞ですよ」
廊下を歩いていた二尾の妖狐、ハイイロギツネの紀緒は、その賑やかな子ども達の声に誘われ、自然と足を止める。
声は日輪の社参集殿から。中を覗き込むと、烏天狗の名張天馬に稽古をつけてもらっている十代目南の神主が大いに駄々を捏ねていた。
どうやら手合わせをしていたようだ。
翔はもう一回だけと言って、天馬に強く交渉を強いていた。
まったく取り合おうとしない彼は、幾度も手合わせをしてやっていたのだろう。いい加減にしてくれと、呆れ顔を作っている。
なんてことない光景の一片は、彼らの日常であった。
(ふふっ、お可愛らしい)
子ども達のやり取りに微笑み、紀緒は遠い昔の記憶と彼らを重ねる。
あの頃も参集殿で稽古が行われていた。何処かの誰かさんはいつも負けっぱなしで、相手に「もう一回」を要求していたものだ。しつこいと毒づかれると、彼は勝ち逃げはさせないと言って憤りを見せていた。
ああ、過ぎ去った時の流れが懐かしや。
そっと参集殿を後にした紀緒は、歩きながら思い出の頁を捲る。今でこそ明るくなった日月の社だが、それはここ二年の話なのだ。
以前は空気が重かった。月輪の社は寂れ、日輪の社は妖達こそ来るものの、あの頃のような明るさは消え去っていた。
なによりも。
紀緒は文殿に立ち寄る。扉を開くと、文机の上で熱心に読み物に目を通している、比良利の背が目に飛び込んできた。
あの背は口よりも正直だ。
彼は胸の内の多くを語らなかったが、対を失って九十九年、常にさみしさと後悔を滲ませていた。ひとりで南北を背負う重圧に、いつも耐えていた。紀緒は見守ることしかできなかった。
(我らにでさえ、弱みを見せてくれないお方なんですよね)
なんとも見栄っ張り狐というか、意地っ張り狐というか。
それが歯がゆかったこともあったが、紀緒は無駄口を挟まないよう心掛けていた。それこそが比良利のためだと知っていたから。
「少し、休憩しては如何でしょうか。比良利さま」
声だけでは気付かれないだろうから、軽く肩を叩いて存在を示す。弾かれたように顔を上げた比良利の糸目が見開き、すぐに和らいだ。
「紀緒か」
「御熱心に何を読まれていたのです?」
「薬種について、少々のう。今の翔に作れるものを選んでおったのじゃよ」
日夜、十代目を立派な神主するために、兄上はたゆまない努力を重ねているようだ。おっと、ここは父上と呼ぶべきか。
口に出せば、不満気な眼を向けられるだろうから、何も言わないでおこう。
「首が凝り固まっておる。紀緒の言う通りにするかのう」
「では、お茶を淹れましょう」
すると比良利は、やや考える素振りを見せた後、酒が欲しいと答えた。
「種類はお主に任せる。ああ、そうじゃ、器は二つ、忘れぬように」
彼の意図が伝わり、紀緒は小さく頷いた。
文殿の縁側に出ると、カキツバタの甘酒を木の器に注ぎ、二人で庭の景色を眺める。酒は紀緒の特別お気に入りな品であった。
双方に会話は飛び交わない。
なくとも、傍に居るだけで心が落ち着くのだから、きっと言葉など要らないのだろう。少なくとも、紀緒はそう思っている。
夜風に乗って声が聞こえてくる。
この声は、ああ、子ども達の声。稽古が終わったのか、世間話が微かに聞こえてくる。とても弾んだ声だ。
ふと、紀緒の二尾の一本に、赤い尾が伸びて、ゆるりと結んでくる。
笑ってしまいそうになる。いつもいたずらに体を触ってくる助兵衛のくせに、その仕草はどことなく遠慮がちだ。応えるために、尾を結び返した。
「お主と出逢って、もう何百年かのう」
比良利から話題を振ってくる。細かい数字は忘れてしまったと、紀緒は返事した。それだけ、彼と過ごした時は長いのだ。
「わしも、お主も、変わらぬのう」
「ええ。本当に。あなた様は、いつも胸や尻ばかり触ってきます」
「魅力的な体を持つ紀緒が悪いのう」
悪びれた様子もなく笑声をもらす彼に、反省という色が見えない。今後も、隙あらば触ってくるつもりなのだろう。心しておかなければ。
こくり、と甘酒で喉を潤す。
「翔さまがここに来てからは、社が賑やかになりましたね」
「あやつがいるだけで喧しいからのう」
「ふふっ、元気があることは良いことではありませぬか。翔さまが来て、社は明るくなりましたよ」
そう、それはとても良いことなのだ。
紀緒は何年も何十年もさみしい社を、悲しみにくれた者達を目にしてきたのだから。弱い心をひた隠す者を見守ってきたのだから。
どこかの誰かさんはいつも、いつも、背中だけでしか、心の弱さを見せてくれない。
「いつも紀緒が見守ってくれた」
空になりそうな木の器に、カキツバタの甘酒を注ぎ足される。
「悲しい時はお主が悲しみ、涙する時はお主が涙し、情けない心を抱いた時は、いつもお主が見届けてくれた」
そっと比良利と視線を合わせる。
「じゃから、わしは安心して好き勝手な振る舞いが出来るのじゃよ」
是非これからも頼む、頭領らしい細い笑みを向けられた。
ああ。なんて勝手な狐なのだろうか。
こんなにも心配しているというのに、無茶をしないかと憂慮を向けているのに、見守る自分がいるから、好き勝手な振る舞いができると彼は言う。
多大な信用を寄せてくれる彼が小憎たらしいのなんのって、嫌味のひとつでも飛ばしてやりたいものだ。
「紀緒は強いからのう。何かあれば、背を張り飛ばしてくれる。そう信じておる」
ほんとうに、勝手な狐だ。
「あなた様が、誰よりも強い狐だということは知っております。強くなろうと努力していることは、誰よりも、この紀緒が知っておりますよ」
仕返しがてらの言葉は、向こうに大きな衝撃を与えたようだ。
ささっと視線を逸らして器を傾けていた。あからさまな照れ隠しに、笑声をもらしてしまう。相変わらず不意打ちには弱い狐だ。
「ほらな。やっぱ紀緒さんが日月の社の中で、いっちゃん強いんだって。あの比良利さんを、簡単に黙らせちまうんだから。な、ギンコ。お前もそう思うだろ?」
「しーっ、翔殿。声が大きいですよ」
おやおや。覗き見をしている不遜な輩がいるようだ。
振り返ると、扉の陰に隠れて、こそこそとしている子ども狐達。それによって比良利が顔を引き攣らせてしまったが、彼らは見つかったと分かるや否や、翔の号令の下、姿を現して一声。
「赤狐の比良利さま、お顔まで赤くなっていますよーだ!」
「……お、おのれ、翔!」
「よっしゃ逃げるぜお前ら! 捕まれば、俺達も顔が赤くなっちまうぜ!」
騒動の主犯である翔が、大声で笑いながらギンコを抱えて文殿から逃げてしまう。
「もう、翔殿! 後で叱られても知りませんからね!」
半ば強制的に共犯になった青葉は、たいへん苦労しているようだ。疲れたようにため息をつくと、急いで彼らの後を追っていた。
かわいそうだが、その姿すら紀緒には微笑ましく思える。
「ぼんぼんめ。あやつ、次会ったら必ずや扱く。絶対に扱く」
舌打ちを鳴らす比良利は、子ども達のからかいに憤りを見せていた。照れているゆえの、感情なのだろう。鼻を鳴らして、豪快に酒を胃袋に流し込んでいる。
と。庭の茂みから、ひょっこりと黄金色の狐が一匹。
こちらも、覗き見をしていたようだ。
やや拗ねたように尾を振り、早足で近寄って来る。
仲間外れにされたとでも思っているのだろうか。そんなわけがないのに。日輪の社の守りは、比良利と、紀緒と、そしてツネキの守護で成り立っている。
この狐も二人にとってなくてはならない、大切な家族なのである。
「ほら、ツネキ。おいで」
紀緒が手招くと、ぶすくれた顔のまま飛び上がって膝に乗る。
「なんじゃ。早う声を掛ければ良かったろうに」
比良利がぽんぽんと頭を叩くと、ようやくツネキは機嫌を直した。
二人の膝を陣取るように体を伸ばすと、ぐるると鳴き声を発する。ついでに、比良利を見上げ、顔が赤いと指摘していた。
それについては、無言で頭に拳を入れている。触れられたくないようだ。
「まったく、なんて日じゃ。ぼん達にからかわれる日が来ようとは。ツネキ、お主のせいじゃぞ」
理不尽な八つ当たりを受けても、ツネキは喉を鳴らして笑うばかり。まだ顔が赤いことをからかっているのだから、子ども達がしていることと差して変わらない。
なんてことのない他愛な時間に笑い、紀緒は至福を噛みしめる。
「ツネキ。これからも、我らで比良利さまの背中を見守りましょうね」
膝の上にいる狐の体を撫でると、生意気なツネキは言うのだ。
比良利をひとりにすると、すぐぶっ倒れてしまうだろう。だから自分達がしっかり、見守ってやらなければ。日輪を任された我らは三人でひとつなのだから、と。
すると赤き狐。持ち前の六尾で紀緒と、ツネキを包み込み、「期待しておるぞよ」満面の笑みを浮かべて、己の身を委ねてきた。
「頼もしい家族がおるから、わしは好き勝手な振る舞いができるのじゃからのう」
その顔にさみしさなど、みじんも見受けられない。
紀緒とツネキは顔を見合わせ、小さく噴き出した。身勝手な狐を家族に持つ自分達は、本当に苦労するものだ。
「さて、飲みなおすかのう。紀緒、ツネキの分の器を持ってきておくれ。今度は、ツツジの甘酒を飲もうぞよ」
今の時間を、きっと家族の団らん、と呼ぶべき時間なのだろう。
(終)
日輪側の家族の話。比良利が無茶できるのは、紀緒とツネキがいてくれるからなのです。




