巫女、幸ある瞬き
風邪を引いた青葉と看病する翔。
「青葉、食べられるか」
あたたかな布団に包まっていた青葉は、そっと重たい瞼を持ち上げる。己の顔を覗き込むのは少年神主。南の地を統べる白き狐だ。
呆、と彼を見つめていると、肉厚のある手の平が青葉の額を覆う。
彼は未だ熱が高いと微苦笑。汗ばんだ額からそっと手を退く。
熱。
青葉の意識が覚醒する。そうだ。自分は体調を崩し、寝込んでしまったのだ。
前触れはなかった。いつものように妖の社の掃除をし、朝食を作り、家族と顔を合わせてひと時を愉しむ。
その後は巫女として、社を守る者として、神に奉仕する。未熟な十代目に寄り添い、支えとして隣に立つ。
その日も同じ日を過ごすのだと信じて疑わなかった。
けれども社が閉まる頃、青葉は急激な寒気を覚えた。様子に気付いた翔から声を掛けられた時は、まだ笑みを返せていたと思うのだが。
仮住まいとして使用している、翔の部屋に帰宅する頃に意識が遠ざかった。
どのような過程で布団に入っているのか、それすら記憶にない。低い寝台の天井が青葉を見下ろしている。どうやら己は二段建て寝台の下段で寝かされているらしい。
普段は翔と銀狐が寝ている場所だ。看病しやすいように、だろう。
しゅん、と鼻を啜ると翔が額を指で弾いてきた。彼は軽く怒っているようで、眉間に皺を寄せ、拗ねたように言う。
「風邪だってよ。具合が悪いなら、ちゃんと言えって。心配したんだからな」
「かぜ、ですか?」
具合については一抹も気付かなかった、それが青葉の率直な感想だった。強い寒気は感じたが、べつに支障はないと思っていたのだ。
よもや風邪をひいていたとは、己もまだまだ未熟な身だと青葉は自嘲を零す。
けれども、翔は何を言うのだと鼻を鳴らした。青葉を見下ろし、額に張りついている前髪を優しく払う。
「青葉は自分に厳し過ぎる。少しは大切にしろって。無理が祟って、体が悲鳴を上げたんだろう? 俺によく言うじゃないか。自愛しろって」
「翔殿は己を顧みませぬ」
「その台詞、一字一句変えず青葉に返す。真面目おばあちゃんなのは知っていたんだけどさ」
怒気を纏っていた瞳が和らぎ、「お小言は元気になってからな」翔は食欲はあるかと問う。粥があるそうだが、熱に浮かされた胃は食を拒絶している。到底食べられそうにない。青葉は首を横に振った。
ならばゼリーだ。
翔は盆に載っていたカップを手に取り、青葉に見せつける。
「甘味がある方が喉を通るだろう? 少しは食べないと薬が飲めないから。あー……しまった。このゼリーは果実がデカいから、食べづらい。取り敢えず、ゼリーの部分だけ。な?」
甲斐甲斐しく世話してくれる語り手をぼんやりと見つめる。本当は何も欲しくないのだが、懸命に看病してくれる彼を目にすると何か応えたくなる。
体を起こそうと腹筋に力を入れるも、「いいって」寝たままで良いと翔。
口元までゼリーを運んでくれるので、素直に応じる。咀嚼するもの億劫で、丸呑みに近い行為をしてしまうものの、確かに喉通りは良かった。
数口の食事を終えると翔は手ぬぐいを氷水で冷やし、硬く絞って、それを額にのせる。少しでも熱を楽にしてやりたい、彼の心遣いが垣間見えた。
「翔殿……オツネやおばば様は」
周囲の状況を観察する余裕が出てきた。
青葉が部屋を見渡すものの、物の怪の気配はない。祖母も姉分も子供達も不在のようだ。
「ネズ坊達はおばばに頼んで、外で遊ばせている。あいつ等はやんちゃだからな。室内にいると暴れ回るだろうし。ギンコはツネキと薬草を採りに行ったよ。ああ見えて、青葉のことが心配で仕方がないみてぇ」
だから今は自分だけだと翔。
祖母はともかく、まさか銀狐まで自分に配慮してくれるとは。
だったら日頃もそうして欲しいものを、皮肉を浴びせたい一方で口元が緩んでしまう。心配されることが、少しならず嬉しい。
翔は青葉の心を見透かしているのだろう。皆、心配していると綻んだ。
「青葉が元気ねぇと部屋が暗くなっちまう。早く元気になってくれよ」
「あの、月輪の社の管理は」
途端に彼は呆れた。
「そっちのことは大丈夫。比良利さんに掛け合っている。心配するな。青葉は自分を労わればいい」
「けれど、翔殿は神主修行がございます。私のことなど構わず」
軽く鼻を抓まれた。
頓狂な声を漏らす青葉に対し、「構いますからご安心を」手を放した翔は絶対に構うと舌を出して、寝台の縁に肘をつく。
何故。修行は大切ではないか。そう主張するも、翔の表情は変わらない。
「例えば俺と青葉の立場が逆転したとしたら、お前は何が何でも俺のことを看病してくれるだろう。俺が修行を優先するよう言えば、お前は怒るに違いない。修行なんて二の次、三の次。大切な家族が一番だ、ってな。
青葉、俺もお前と同じ気持ちなんだ。お前のことが大切で、守りたい家族。だから傍にいたい。自分だけだと思うなよ。おばあちゃん」
優しい眼がどこまでも澄んでいる。
熱に浮かされているせいだろうか、頬が、顔が熱い。誤魔化すためにおばあちゃんは余計だとあしらう。余裕綽々に微笑する彼が小憎たらしい。
寝返りを打って背を向けると、額から手ぬぐいが滑り落ちた。彼の三尾が伸び、そっと毛布をかけ直してくれる。
「何かして欲しいことがあったら言えよ。俺は傍にいるから」
己を甘えさせてくれる齢百下の少年。
なのに、歳の差を微塵も感じさせない扱い。青葉は戸惑いを隠せずにいる。
このような経験は初めてだ。三尾が離れていこうとするので、青葉は背を向けたまま己の尾を伸ばした。
翔の一笑が聞こえる。羞恥心がこみ上げてくるものの、彼の尾と重なることによって大きな安堵が胸の内に広がった。理由は分からない。
ただ、とても安心した。
「俺はどこにも行かない。此処にいる」
信じられる。彼はどこにも行かない。きっと己が眠り、また目覚めるまで此処にいてくれる。
同じように、百年も、二百年も共に生き、社を見守ってくれる。
「おやすみ」
毛布に染みついた彼の匂いに包まれ、しっかりと結んでくれる尾の温かさを感じ、青葉はゆるりと瞼を閉じる。
無意識に寝返りを打ち、家族の方を向いて眠りに就いたことは、本人自身も知らない。
「寝顔は何処にでもいそうな可愛い女の子なんだな。青葉って」
傍にいてくれる少年の手が、優しく頭を撫でてくれていたことを、眠りに着いた青葉は、何も知らない。
(終)
翔と青葉は家族であり、相棒であり、何処か特別な感情を宿した関係。




