語り継ぐ者
比良利と翔の、兄弟神主な一面。
「ねえ、比良利さん。妖狐は妖の中でも長生きなんだよね」
日輪の社、文殿の文机に着いていた南条翔は顔を上げた。その手には不慣れな筆が握られており、ところどころに墨が付着している。墨も、硯も、そして字を書く筆も、殆ど手にする機会のない翔にとって、手が汚れてしまうことは仕方がないことだった。
無知な子を立派な十代目南の神主にすべく、師を担っている比良利が不思議そうに糸目を向ける。
「そうじゃ。如何した?」
休憩を挟んでくれるようだ。
突拍子もない疑問に対し、比良利が問いを返す。
齢二百の化け狐は糸も容易く、齢十八の化け狐の心を見抜いていることだろう。隠したところで、また誤魔化したところで、兄やの立ち位置にいる狐は騙されないと翔は知っている。
「怖いな、と思って。何度俺は皆に置いていかれるんだろう?」
あっさり心を表に出す翔は、己の弱き部分を兄やに晒した。
「数多、と答えるべきじゃろうのう」
甘くもなく、かといって厳しくもない、ただただ真のことを教えてくれる。
きっと比良利は翔の想像がつかないほど出会いと別れを繰り返し、生まれる命を、そして沈む命を見守ってきたに違いない。
「比良利さんは怖いと思ったことある?」
まだ想像もつかない、遠い未来を思い描く。知っている者達から置いていかれるとは、どのような気持ちなのだろうか。
悲しみの池に落ちて息もできないものなのか。はたまた、目の前が真っ暗になるような絶望が襲ってくるのか。
どのような形にしろ、明るい気持ちではないことは確かだろう。
人間と惜別する日は必ず来る。それについては腹を括っている。
しかし、妖にも生と死がある。今、己の傍にいる雪童子や烏天狗は、いずれ自分を置いていくのだろう。それだけ妖狐の寿命は長い。
「時に、見送る側から見送られる側になりたいと思うことがあるのう」
物思いに耽っていた翔が比良利と目を合わせる。二百歳を取っても変わらない心があると、糸目の奥に息ひそめる瞳が揺らいだ。
四代目北の神主と呼ばれる、六尾を持つ狐も恐れがあるのだ。決して民達には見せない、北の神主の脆い部分を垣間見た翔は目を細める。
「比良利さん。俺、比良利さんより二百も若いよ」
面喰う赤き狐に、力なく頬を崩す。
「俺の方が後に死ぬ。二百年も後に生まれたんだから」
言いたいことが分かったのだろう。
「そうでなければ困る」
翔と同じ顔を作った。
「引退も比良利さんの方が先だ」
「そうじゃのう」
「だから大丈夫だよ。比良利さんはもう、ひとりで神主をすることはないよ」
「一丁前に。慰めかのう?」
「一応ね」
握っていた筆を硯の上に、架け橋のように置く。
文机には半紙が一枚。みみずのような字が、まるで新雪に足跡でもつけるように紙の上を歩いている。
今宵、比良利から学んだ薬種の名がずらり、ずらり、と行進しているようにも見えた。
「俺、きっと今の面子の中で一番長生きするんだろうな。そして受け継いだ人達に、比良利さん達のことを話すんだよ。楽しいだろうね」
そう、今ここで師と学んでいる時間すら夢まぼろしとなるのだ。置いていかれるとは、残される者とは、そうして残していった者を夢物語にしたがる。
己もいずれ、そうするのだろう。翔は己の遠い未来に思い寄せた。
「お主は余計なことを言いそうじゃ」
「俺の対はいつも紀緒さんの尻を追い駆けてシバかれていた!」
「既にそれが余計じゃ」
「な、俺が語り継ぐから大丈夫だよ」
この場にいる見送る者は自分だと断言すると、比良利がどこか呆れたような、そしておかしそうに口元を緩ませて鼻先を指で弾く。
「これ、ぼん。勝手にわしを殺すでない。まだまだ先の話じゃろう。そういう話は一人前になってから申せ。今は素直に、怖い、と思っておくが良い。安心せえ。お主は独りにはならぬ。決して」
一番の不安の種である部分を鋭く指摘してくる比良利が、今は子どもで良いのだと眦を和らげた。
子どもであれ、大人であれ、孤独とは恐怖だ。いずれ翔は顔見知りの人間がいなくなるだろう。同じように日月の社の者達が、彼を知る妖が、変わりなく永久の時を生きることもない。
いずれ顔ぶれは変わっていく。五十にも満たない翔は恐れるばかりの未来だろう。
けれど、それで良いのだと比良利は諭した。恐れない者がいるとならば、それは心のないものだと彼は謳う。
「齢十八の狐よ。恐れる己を拒むべからず。其の心は、必ずや誰かの御心の弱さを知る力となろうぞ。孤独を嫌う己を拒むべからず。いずれ、其の心は周りの有難味を知る力となろうぞ。
宝珠の天命を授かりし狐よ。恐れも、怒りも、哀れみも、孤独も、すべて己の糧にせよ。我等は此の地を守護する者、妖を守る者、生と死を見守る者。繰り返される出逢いと別れの想いを背負い、永い時の中に生きる妖狐。それを誇りにせよ」
語り継ぐ心意気があるのならば、まずは恐れる己を受け入れるところからだと比良利。前進することで、はじめて次の段階に行けるだろう。
「翔、わしもまた恐れる弱き心のある狐。対のお主には、山のように支えてもらわなければならぬ。そして、いずれお主に新たな対や後継者ができた時、弱さを諭す狐となれ。それが比良利の心からの願いじゃ」
息の間もなく、静聴していた翔は彼が微笑みを向けたことで緊張の糸が切れた。尾と耳をだらり、と垂らすと行儀悪くその場で寝転ぶ。
「ちぇっ、いつの間にか慰められた。たまには良いところを見せようと思ったのに。だっせぇ」
「はて、だせぇとは?」
ぶすくれている翔が格好悪いの意味だと教えると、声を上げて比良利が笑う。
「子どもの見栄にしか見えぬから安心せえ。語り継ぐ、なんぞ大見得を張りよって」
「はやく一人前になりたい。子ども呼ばわりはヤなんだけど」
「努力せよ」
ぞんざいにひらひらと手を振る、齢二百の狐に脹れ面を作った。
しかし、すぐにその表情も崩れ、翔は嬉しい気持ちを噛みしめる。弱さを諭してくれる比良利は、己に期待を寄せてくれていることが分かっていたから。
「なあなあ、比良利さん。今の言葉ってさ、昔だれかに諭してもらったの?」
ちらり、と一瞥してくる赤狐は含み笑いを零した。
図星のようだ。好奇心をくすぐられ、翔は誰の言葉なのかと尋ねる。まったく取り合ってくれない比良利が返してきたのは「ハナタレが一人前になったらのう」だった。
「父上のケチ。おじいちゃん狐! じじ狐!」
舌を出して不満を訴えた翔の一声によって、ほどなくして文殿に怒声が響き渡った。
(終)




